重たい瞼を開けると、そこには心配をそうに私を見ていた知樹がいた。私どうしていたんだったっけと考えるけれど、頭が痛くて思い出せない。 「・・・これは、ゆめ?」 重い腕を上げて手を伸ばし、私は知樹に触れようとした。その手を捕まえて知樹は笑う。 「夢じゃないよ」 私の手をぎゅっと握って、知樹は言った。私の額に手を伸ばす。わりと華奢な知樹だけど、手は大きくてやっぱり男のひとだって思う。まだ男の子という形容も似合うけれど、私にとってはただひとりの・・・。 「熱、少し下がったかな」 「・・・どうして」 「え?」 「どうしてここにいるの? 出て行ったんじゃないの?」 私が掠れた声で小さく言うと、知樹は苦笑した。 「次の日には帰るって言ったけれど」 知樹は立ち上がって、テレビ台の下を覗いて体温計を手に取った。私の手や額から温もりが消えて、確かに知樹はここにいるのに妙に寂しくなる。もっと触れていて欲しいのに。大胆なことを考えてしまうのは熱のせいなのだろうか。 「熱、計る?」 「・・・うん」 「起き上がれるなら着替えたほうがいいんじゃない?」 知樹が枕元に体温計とTシャツとジャージを置いてくれた。なんだか寝心地が悪いと思ったら、私は店の制服のままだった。皺になっている。クリーニングに出さなくちゃと思った。 「何か食べる?」 知樹に訊かれて、空腹に気付く。 「・・・消化のいいものがいい」 私のワガママに知樹は笑った。 「おかゆ作るね」 そう言ってキッチンに行く。どうしてこんなに優しいのかなと思いながら私は着替えた。ああ、でも知樹はいつだって優しい。だから私は不安になるのだ。 脇に挟んでいた体温計が電子音を鳴らす。三十七度八分。私は電源を切って、再び重い頭を枕に乗せた。 ようやく記憶が戻ってくる。そういえば私は仕事中に具合が悪くなって・・・、そして孝則にここまで送ってもらったんだった。孝則にも迷惑かけた。こんなに優しくされていた。 私はベッドのすぐ傍に置いてあった鞄を取って、中から携帯電話を取り出した。午後八時二十七分とデジタル時計が表示している。まだ孝則は仕事中だ。ため息をついて、私は携帯を枕元に置いた。 「誰に電話するつもりだった?」 お盆におかゆを乗せて持ってきた知樹が、ベッドの端に座る。 「誰って、別に・・・・・・」 「俺が帰ってきたとき、孝則サンに会ったよ。遥のカレシは俺だよね?」 口調も目線も穏やかだけど、どこか冷たく感じる知樹の声。私は起き上がって、知樹からお盆を受け取った。スプーンの上で熱いおかゆを少し冷ます。 「孝則はそんなんじゃないよって言っているじゃない」 そして一口食べた。驚くほどに美味しかった。一緒に暮らし始めた頃は慣れない手つきで、簡単な味付けしか出来なかったはずの知樹の腕は確実に上がっていた。 「知樹、私、昨日すごく寂しかったよ・・・」 「・・・・・・ごめん」 知樹は長い睫毛を伏せた。 「孝則サンにも怒られたよ。遥を泣かせるなって」 もう一口、ゆっくりと食べた。暖かいものが喉を通して体中に広がり、自然に涙が出て来た。 知樹が謝ることでもないんだと思った。未来を見つめる彼の姿勢はとても凛々しくて、強くて、だから私は好きになった。置いていかれるという不安を抱くのは私に非があるからだ。 私は、知樹に釣り合えるような女になれるのだろうか。 「知樹、すごく美味しい・・・」 「そう、よかった。まだまだ遥には叶わないけれど」 急に話題が変わったことに気付きながらも、知樹は優しく微笑んだ。それを見てまた涙が溢れる。 三月になったばかりのあの日、私は孝則と別れて知樹と出逢い、たくさんのことがあった。知樹はきっとあの頃よりも穏やかになったし、何より私を大事にしてくれた。孝則も自分の気持ちと戦いながらも頑張っていて、由希も東京に戻ってきて何かを得て、私もちゃんと前を向いて変わらなければならないのだと思った。 このぬるま湯のような毎日に甘えていたら、平穏な日々を続けられるわけがないのだから。 「遥、本当にごめんな」 泣き続ける私を気にして、知樹は私の髪に触れた。私は首を横に振った。 「違う・・・、違う・・・、知樹が悪いんじゃないの・・・」 スプーンを器の中に戻して手で涙を拭いた後、知樹を見た。 「高校に行くんだよね」 「うん、そのつもりだけど・・・」 「昨日は、佐々川さんの所に行っていたんだね」 「うん」 知樹に手を伸ばす私に触れて、知樹はうなずいた。 「協力、してくれるっていうから・・・。遥は佐々川さんのこと気に入らないみたいだけど、でも」 「分かっているよ」 私は知樹の言葉を遮った。 「だって家族だもん」 「うん。微妙だけどね」 「知樹がやりたいこと、応援してくれているんでしょ?」 「そうだね」 「甘えたらいいと思う。家族ってそういうものだから」 本当は私がその役になりたかった。知樹の家族になって、知樹の唯一の人になりたかった。だけど私にはまだそれを受け止める器量がなかったのだ。まだ覚悟が足りなかった。このままでは私は知樹を幸せに出来ないから。 だから、今度こそ知樹を解放しなくてはならない。 「知樹、出て行きたくなったら、いつでも出て行っていいからね」 私が言うと、知樹の表情が固くなった。 「な、なんだよ、それ・・・・・・」 苦笑いのように、震えた声で知樹は言った。私は知樹の動揺を察知して、慌てて口を開いた。 「ああ、違うの。出て行けって言っているわけじゃないよ。ずっといて欲しいよ。それは変わらない。だけどね・・・、私は佐々川さんのように心が広くないから・・・、知樹を自分のものだけにしちゃいたいって思っちゃって、先に歩こうとする知樹を引き止めてしまいそうになっちゃうの。きっと知樹の勉強も邪魔しちゃう。素直に応援することが出来ないと思う・・・」 一気に言って、一度知樹を見た。知樹は驚いたように私を見つめていた。 そんなことは当たり前だよと私は思った。当たり前の気持ちと感情を自覚して、心が軽くなる。原因が分かれば対処が出来るように。 「だって、私は知樹が好きだから」 はっきりと言うと、知樹は黙ったまま俯いた。少しの沈黙の後、知樹はぽつりとつぶやいた。 「・・・びっくりした」 かすれた声だった。 「すごく、びっくりした・・・。どうしよう、すごく、嬉しい・・・」 口許を手で抑えて、知樹は私を見た。その瞳は輝いていて潤んでいて、とても綺麗だった。強く生きている人の証だった。
二日後には私の体調は元に戻った。 バイトに行くと店長に心配したよと言われ、頭を下げた。孝則もほっとした表情で迎えてくれた。 「加上くんも戻ってきたみたいだし、おまえの顔色もよくなったみたいだし、よかったな」 「ありがとう。いろいろごめんね。知樹に怒ったって本当?」 私が訊くと、孝則は笑った。 「遥に幸せになってもらえるように、少しな」 そう言って、厨房のほうに去っていく。孝則の笑顔に励まされる。なんて私は幸せ者だろう。こんなに優しくされて心配されて、なのに子供みたいに恐怖でただ突っ立っていた。 これから私がすべきこと。少しずつビジョンを捕えたらいいのだろうか。
夕方でバイトが終わり、その足で病院に向かう。今日は晴れていた。でもまだ梅雨明けのニュースは聞かない。今年の梅雨は長く感じる。時間が経つのは早いのに、色々なことが起こるからだろうか。 「遥ちゃん!」 病室のドアを開けると、頭の包帯が取れていた由希が私を見て叫んだ。 「孝則から聞いていたよ。風邪ひいていたんだって?」 「うん、でももう大丈夫」 私はコンビニで買ってきたプリンを由希に渡す。 「食べる?」 「わあ、ありがとう」 相変わらず可愛い笑顔で、由希はプリンとプラスチックのスプーンを手に取った。 「これ、新発売なんだよ。気になったから買ってきちゃった」 「あたし、プリン大好きなの」 蓋になっているビニルを剥がして、由希は幸せそうにプリンを食べた。私ももうひとつのプリンを開ける。 「美味しい、ありがとう」 「ううん、私も食べたかったしね」 「遥ちゃん、あたし、来週退院できそうなの」 由希が落ち着いた声で言った。 「よかったじゃん」 「うん」 由希は控えめに笑った。そして、ちょっと不安そうな顔を見せて、私を見た。 「これからどうしようかなって思って・・・」 「・・・孝則の所には帰らないの?」 「帰りたい。孝則がね、帰ってきていいよって言ってくれたから。でもあたし、それに甘えていいのかな」 とてもプリティーな女の子だった。私は笑って、大丈夫だよと言った。私とは全くカタチの違う人間だった。だからこんなに惹かれるのだろうか。 「孝則がいいって言っているんだから。孝則はずっと由希ちゃんを待っていたと思うよ」 私が言うと、由希は微笑んだ。 「仕事も探さなくちゃ。ファーストフードのほうは無断欠勤をしちゃって、クビになっちゃったから」 「私も、就職探していたけれど見つからなくて、結局高校の頃から同じバイトしているよ」 共感して私は思わず自分のことを言った。由希もうなずいた。この時代を嘆くことはしなくても、何故という疑問が過ってしまう。 「これからどうしよう」 そのつぶやきは消毒の匂いが漂う病院独特の空間に消える。なぜだか切なくなった。健気に見える由希の瞳もどこか儚げで、でも確かに見据えていた。 未来を。 「でも、孝則がいてくれるから大丈夫だよ」 私は言った。一人じゃないことは武器になる。また頑張れる。それを伝えたくて。由希は曖昧に笑った。 窓の外には夕焼けが広がっていた。明日も晴れるだろう。 そして時間は確実に流れ、この梅雨にも終わりが来る。その頃私たちは何を見て、何を目指して歩いているだろう。
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