6 見えすぎて見えなくなる


 病室のドアに近づくと、中から笑い声が聞こえた。一瞬部屋を間違ったかと思って表札を見ても、ここはやはり由希の部屋に間違いない。不審に思ってドアを開けてみる。
「あ、孝則」
 二重の声に迎えられる。声を発した二人は顔を見合わせて、可笑しそうに笑っていた。
「おかえり、早かったね」
「ああ、客が少なくなったタイミングを見計らって出てきたから」
 パイプ椅子に座っていた遥が立ち上がって、俺に座るように薦める。さすがに立ちっぱなしで疲れた俺は、遠慮なく座った。目の前のベッドに座る由希と目が合う。
「おかえりなさーい、でもあたしももう元気だし、そろそろ仕事に専念したほうがいいんじゃない?」
「そうだよ、孝則。これ以上休むと従業員失格だよ。首切られても知らないよ?」
「あたしみたいにね」
 由希の言葉に遥は苦笑する。俺はその光景についていけなくて頭を押さえた。いつの間にこんなに仲良くなっていたのだろうか。女は侮れない。
「それじゃ、私は帰るね。由希ちゃん、またね」
「うん、ありがとう」
 手を振って俺にも笑顔を残して、遥は病室から出て行った。その数秒、ちょっとした沈黙が走った後、由希がふと笑みを漏らした。
「ほんと、律儀だね」
「え?」
「今日も来てくれるなんて、ね」
 その笑顔が仮面であることに俺は気付く。本当はこんな風に由希と話がしたかった。そういう日を望んでいた。だけど、まだ収まらない。
 一番訊きたいことに触れることが出来ない。
「お母さん、まだ寝込んでいるの?」
「ああ、まだ熱が下がらないんだ。でもちゃんと由希のことは伝えておいたから。涙流して喜んでいたぞ」
「そう。よかった」
 落ち着いた声を落とす。俺は由希の冷たい手を握った。由希は俺を見る。
「・・・・・・恋じゃないって言ったでしょう」
「覚えているのかよ」
「遥ちゃんにも話したけれど、なんとなく分かるんだよ。孝則たちがずっとあたしを心配してくれたことも知っているし。恋じゃないって・・・嘘つきだよね」
 由希の鋭さに俺はアハハと乾いた声で笑う。由希もつられて笑う。そして、俺の手を握り返した。
「ね、孝則」
「うん?」
「あたし、またあの家に住んでいいのかな・・・」
 唐突に言われて、俺は驚いて由希を見る。これは夢なのだろうか。
「な、何言っているんだよ」
 心臓が恐ろしいほど速く脈打っていて、それがばれないように咳払いをして誤魔化してみたけれど、どこまで効果があるのかは分からない。由希の透き通った瞳はいつも俺を丸裸にする。
「孝則、あたしね」
 その瞳を曇らせて、由希は言う。
「どうして逃げたんだろうって、自分のことなのに不思議だよ。あたし、いつも逃げてばっかりだよね。自分から逃げたのに、今孝則と話せてすごく嬉しい」
 繋がった手に汗がたまる。せつなくなる。初めて由希と二人で暮らした頃よりもずっと。そして、きっと明日は今日よりも増して幸せになれるのかもしれない。
「・・・おかえり、由希。ずっと待っていたよ」
 俺が言うと、由希は微笑んで、涙を一滴零した。


 久しぶりに寝覚めのよい朝だった。
「おはようございます」
 従業員入り口のドアを開けようとしたとき、後ろから声がかかる。
「あ、遥か。おはよう」
 俺が振り向くと、遥は泣きそうな顔で微笑んだ。
「孝則」
「ん?」
「この前はごめんね」
「何が?」
 謝られる理由がなくて聞き返すと、遥は驚いたように俺を見上げた。
「・・・怒ってないの?」
「だから、何が?」
 再び訊くと、遥は曖昧に笑ったようだった。そこで俺は初めて遥の異変に気付く。
「遥、寝不足か?」
「えっ?」
「目が赤いから」
 何気なく遥の額に手を持っていくと、普通の体温よりも高い気がした。
「熱、ないか?」
「・・・・・・・・・・・・」
 遥の顔を覗き込めば、いつもよりも彼女の瞳は虚ろだ。足元もおぼつかなく、ふらついていた。
「遥・・・」
「だ、大丈夫・・・」
 それはプライベートで向ける笑顔ではなく、接客のときに見せるような無理やりに作る笑顔で彼女は言った。俺は、彼女のこの表情を知っていた。
 だけど、仕事に対して真面目な彼女がやすやすと帰るわけがないことも分かっていた。俺は嘆息しながら遥から離れた。
「遥」
「え?」
「無理するなよ。具合が悪くなったらいつでも言え」
 俺が言うと、遥は悲しそうにその赤い目を細めた。
「・・・ありがとう」


 飲食店では客が思う以上に店員は声を張り上げている。体調が良好のときでも一日働けば夜には声が枯れる。
 朝から熱っぽい遥の声が出なくなったのは、午後四時をまわったときだった。思えば六時間働きっぱなしだ。
「遥!」
 客席から死角の場所で座り込んだ遥に俺は駆け寄る。
「榎木さん、大丈夫?」
 店長も心配そうにやってきた。この時間は客が少ない。俺は店長に向いた。
「すいません、今から休憩もらっていいですか。彼女を送ってきます」
 従業員には一日に三十分の休憩が与えられる。それを利用して、俺は彼女を家に送ろうと思った。最近は雨だったり暑かったりで、俺は車通勤していたから好都合だった。
「ああ、仕方ないね。ちゃんと三十分で戻ってこいよ」
 もしかしたらまだ俺と遥が付き合っているのだと勘違いしているのかもしれない店長は、特に嫌な顔もせず許してくれた。俺は遥の腕を肩にかけた。
「・・・歩けるか?」
「ん・・・、ご、ごめんね孝則」
「こんなときに気を遣うな。車まで頑張れ」
 遥は制服のまま車に乗った。バイトの女の子が遥の荷物と着替えを持ってきてくれた。俺はそれを受け取って、運転席に乗った。


 遥の部屋に入るのは久しぶりだった。別れてから一度も来ていないのだから当たり前だった。
 古いワンルームのアパートで、キッチンを通れば見慣れたソファが置いてある。その向こう側にあるベッドに遥を寝かした。
「大丈夫か?」
「・・・うん、ごめんね」
 泣いているような声だった。ソファとは違い、ベッドには違和感を覚えた。確かにそれは昔から変わらないものだけど。
 遥は制服のままベッドにもぐりこんだ。着替える気力もなさそうだった。奥にある枕に顔をうずめる。そこでやっと気付いた。
 このシングルベッドには、窮屈そうに二つの枕が並んでいた。それに気付いた途端、まるで拒絶反応のように俺とこの空間が衝突をした。
 俺は確かにここにいるのに、全く別にいるような、ねじれたような感覚。
「薬、あるか? 何か買ってこようか?」
「ううん、テレビの下の棚に入っているから・・・、大丈夫・・・」
 俺はテレビ台の下の棚を覗き込む。よくテレビのコマーシャルで見る市販の風邪薬が置いてあり、手に取った。キッチンにある新しいグラスに水道水をすすぎ、遥の傍に寄った。
「しんどいかもしれないけれど、ちょっとだけ起きてコレを飲んでから寝たほうがいいんじゃないか?」
「・・・うん」
 素直に返事をし、遥は起き上がる。乱れた髪を掻きあげた。
「孝則」
「なんだ?」
「ありがとうね」
「なに言ってんだよ。俺だって以前風邪ひいたとき、おまえにいろんな物買ってきてもらったし・・・、こんなときくらい甘えたっていいだろ」
 俺が言うと、遥は懐かしそうに目を細めた。俺と付き合っていた頃と同じ瞳、弱々しい瞳。さっきから気配が消えない影を俺は思う。確かに奴は今ここにいないはずなのに。
「・・・知樹が、出て行っちゃった」
 薬を飲んで再び横になって鼻の辺りまで布団をかけた後、遥が小さくつぶやいた。俺はこの気配を片手で追い払いながら、笑った。
「まさか」
「・・・ほんとう、よ」
 一筋の涙が流れて枕を濡らし、そのまま意識を失うようにして遥は眠った。目の下に出来たクマが痛々しい。
 俺はゆっくり立ち上がって、部屋を出た。鍵をかけて、階段を降りる。そしてその鍵を階段下にあるポストに入れたときだった。
「・・・・・・アンタ」
 聞き覚えある声が俺を責めた。俺はゆっくりとその声の主を見た。
「先日はどうも、加上くん」
「何しに来たんだよ」
 彼は酷く不機嫌な顔をして俺を睨んだ。
「遥を家まで送り届けただけさ」
「もうアンタと遥は終わったはずだろ?」
 彼の思いがけない科白に、俺は何故だか笑ってしまった。彼はまだ幼い。
「何笑ってんだよ! こっちは真剣なんだよ!」
「加上くん、君はそうやって怒るけどさ。君は遥を泣かせないって言ったよね? でも、今は泣いている。どういうこと?」
 俺が気になっていたことを正直に言うと、反撃が効いたようで知樹は口を閉ざして俺を睨んだ。やっぱり幼いなぁと思う。遥の話では十五歳、大人の世界を知っているようでまだまだ知らない年頃なんじゃないかと思う。生い立ちが複雑な彼は、一般よりは大人びているだろうけれど、それでも補えない部分というものはある。
 葛藤と混乱、そして切望と恐怖。
「男として、立派に将来を設計するのも悪くはないと思うよ。だけど、遥が寂しがっているならそれに気付いて傍にいてやるのも男だろ?」
「・・・・・・・・・・・・」
 知樹は唇を噛んだあと、重々しそうに口を開いた。
「アンタ、何企んでるんだ?」
「は?」
「なんで今頃になって遥のこと気にしてんだよ!」
 若いなぁ、などとのん気なことを思いながら、俺は知樹を見た。全ての願いを彼に託すように。
「俺は遥に幸せになってほしいんだ。君が遥を幸せにしてくれるんだろ?」
「・・・当たり前だ」
 その覚悟に満ちた瞳は好感が持てた。俺にはそんな強さがなかったから。俺も彼のような性格だったら、もっと違う人生を送れたのだろうか。
 いや、だけど。俺は俺でいくしかない。もう迷うことが格好いいような歳でもない。俺は知樹の肩をポンと叩いた。
「任せたよ」
 知樹の舌打ちを聞き届けたあと、俺はアパート前に止めておいた車に乗る。
 きっと彼らには彼らなりの悩みや問題があるのだろう。
 だけど、俺にとって遥と知樹はまさに理想のカップルだ。時には近すぎてお互いが見えなくなることもあるだろうけれど、どうか、どうか。
 大切な遥に、明るい未来を託したい。
 俺はハンドルを握り締めて、仕事場に向かって車を走らせた。


      
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