久しぶりに佐々川さんに会った。 「知樹が高校へ行きたいと言い出してね」 隣に知樹はいない。知樹のバイト中を狙って佐々川さんは私を街の真ん中のカフェに呼び出したのだ。 「・・・知っています」 「ああ、なんだ、もう聞いていたか」 私が普段行くよりも高級な喫茶店。お洒落なコーヒーカップをカチャリと置いて、佐々川さんは私を見た。 「君はどう思いますか?」 「・・・私?」 「知樹が、なぜ行きたいと言っているか、知っているか?」 佐々川さんの問いに口をつぐむ。先日の夜に知樹が言っていたこと。私を幸せにする。だから未来を見据えるって、どこまで本気なんだろう。彼の前では信じることが出来ても、他人に安易に喋れるわけがなかった。それにしがみつく自分が恥ずかしかった。 返答に迷う私を見て、佐々川さんは知樹と同じ顔で笑う。 「僕はね、知樹にその夢を叶えてやりたいんだよ」 「・・・・・・・・・・・・」 「聞けば、知樹はろくに義務教育も受けていないとか。それでも、行かせてやりたいんだよ。それを遥さんに伝えたくてね」 「伝えてどうするつもりですか」 私の強い口調に、きょとんとした瞳で佐々川さんは私を見る。 「どういうことだ?」 「私にそれを伝えて安心させておいて、知樹を奪うつもりですか」 私の言葉を聞いて、佐々川さんは顔を歪めて笑った。やっぱり知樹そっくりだった。 「それは知樹の意思次第さ。もちろん僕に知樹を束縛する権利はない。だけど遥さん、君にもないよね? 知樹はモノじゃないんだ。十六年近く知樹を放っておいた僕が偉そうに言えることではないけれどね」 最後は自嘲するように、柔らかい口調。私はため息をついて窓の外を見た。いつもと同じ風景だけが私の心の支え。
その日私はバイトが休みで、午前に佐々川さんに会ったあと近くのパスタ屋でご飯を食べ、ふと向かったところは由希が入院しているという病院。 昨日孝則を傷つけてしまった。もし仮に、なんて絶対言ってはいけない言葉だった。なんとなく気まずさを覚えながらも、私は彼が愛しくて大切で、そしてとても心配だった。孝則はいつかこのまま壊れてしまいそうで。 由希を一人で見舞いに来るのは初めてだった。孝則たちの母親は看病に疲れて、家で休んでいるのだという。父親も仕事が忙しい人で、こんなときに由希が目が覚めたらどうするのだろうと単純なことを考える。ノックをして病室に入ると。 ・・・目が合った。 「あ・・・、遥、さん・・・?」 大きな黒目で見つめられた。起きている。目が覚めている。これは意識が戻っているということ。まだ取れない包帯や、腕に繋がれた点滴は痛々しいけれども。 私が目を見開いたまま入り口で突っ立っていると、由希が柔らかく微笑んだ。 「ああ、中に入ってくださいよ。ドア、開けっ放しにしないで」 「・・・・・・ごめん」 ちゃんとした言葉も使えなくなるほど衝撃的で、私はおずおずと中に入って、ベッドの近くに立つ。 「椅子に座っていいですよ」 「あの・・・」 今頃になって頭がまわりだす。 「・・・ごめんなさい、私、何も持ってきていない・・・」 「何言ってんですか、そんなのいらないよ」 由希はおかしそうに瞳を細めて笑う。いつか、挑発するように私を睨んだ瞳とはまるで違う。別の人間のように。 「孝則に聞きました。あたしのお見舞いに来てくれたって」 「え、ええ・・・」 「こういうのって、遥さんにとっては不本意かもしれないけれど、ありがとう」 夏の匂いを乗せた風が、ちょっとだけ開いた窓から流れてくる。とても穏やかだ。信じられないほどに。 「私、昨日も来たんだよ」 「うん、知ってる。人間って不思議だよ。意識がなくってもね、どっかで分かるの。聴こえるの。確かに、あたしの意識はどこかに持っていかれていたのに、起きたら分かるの。不思議」 肩をすくめるようにして私を見上げるその表情は、孝則には全く似ていなくて、でもとても可愛かった。負けて当たり前だと思った。こんな風にまっすぐに人と向き合える目を私は持っていないし。 「会うのはあの日以来だね。覚えていますか?」 「あの日?」 「四人の修羅場」 まるでカッコ笑いをつけるような勢いで由希が言い、私たちはこっそりと笑い合う。今はもう胸が痛む理由すらなかった。 「加上くんは元気ですか?」 「うん、まだバイトも続けているよ」 「当然。あんなに仕事できる子ってなかなかいないもん。美形だし、それ目当ての主婦もいるんだよ。知ってた?」 「え、そうなの!?」 「遥さん、妬いてる?」 そういうところはそっくりだ。私は笑って曖昧にうなずく。 「やっぱり付き合っているんだね」 「今はね。あの頃はまだ付き合っていなかったよ」 「一緒に住んでいるのに?」 「よく知っているね。知樹と仲いいんだ?」 「あ、でも遥さんが心配するようなことは一切ないよ」 一ヶ月前のことが嘘みたいに、私たちは昔から仲が良かった女友達同士みたいに喋っては笑った。ころころと表情を変えながら高い声で話す彼女は、見た目よりもずっとキュートで、思っていたよりもずっと明るい女の子だった。若さもまだ残っていて、彼女と喋るだけで心が晴れる気分になる。誰からも愛される、彼女こそがそういう人間なんだと思った。 「昨日ね」 声のトーンを抑えて、由希は語る。 「目を開けた途端、目の前に孝則がいるの。びっくりしちゃった。あたし、孝則からずっと逃げたいって思ったのに、孝則がいて、・・・嬉しかった」 今度は私の目じゃなくて、空を見て、由希は目を閉じてふと笑顔を漏らした。
家に帰ったのは午後七時。この時期はこの時間でも外はまだ明るくて安心する。 朝に洗濯したものを取り込んで軽く掃除をして、今日こそは私がご飯を作ろうと張り切ってみる。 誰だって正直な想いを心に抱いているけれど、それを思い描くときはみんな幸せそうに思った。孝則も、由希も、そして知樹も。 なのに、私は考えれば考えるほどワケが分からなくなる。未来に絶望を感じる。きっと私は不幸者だ。孝則のように報われない恋をしているわけじゃない。ちゃんと愛してくれる人が隣にいるというのに。誰が見ても私は幸せものなのに。 どうしてこんなに不安なんだろう。 ドアの向こうの足音に気付いたのは午後八時半。 「ただいまー」 タイミングよく知樹はその玄関のドアを開ける。少し古いけれど、それでもさすがはワンルームマンション、集合住宅地と言ってもここに住んでいる人間はみんな他人で、どの部屋の人が引っ越したってきっと気付かない。だから私の部屋にいつの間にか知樹が住み始めていても疑問を抱かれることはない。同棲なんて世の中に溢れているのだし。ここは都会だ。 「おかえり」 「すっげいい匂いがするんだけど。何?」 「煮物」 「家庭的だね」 「知樹は和食好きでしょ」 とりとめのない話をしているうちに、知樹はうがいをして微笑んだ。 「遥が作るものならなんでも」 「言うと思った!」 そして笑い合う。 「遥は今日、何してた?」 何気ない会話の続きの知樹の質問に、私は何でもないことのように笑う。 「買い物とか、掃除とか、それだけ」 佐々川さんに会ってきたことは伝えるべきなのか、そうじゃないのか。私自身よく分からないからやめておく。そのとき、知樹の顔から笑顔が消えた。 「隠し事はやめてよ、遥」 「え・・・?」 「会ってきたんでしょ、佐々川さんに。すぐバレる嘘をどうしてつくかな」 「・・・・・・・・・・・・・・・」 分かるなら、最初から誘導尋問して引っ掛けないで欲しい。まわりくどいやり方に腹が立って、私も笑顔でいることが出来なくなる。知樹を睨んだ。 「・・・本当に高校に行くの?」 「まだその話?」 「だって大切な話だよ?」 私が声を上げると、知樹はだるそうにソファに体を預ける。 「俺は・・・・・・、俺が高校に行ったって行かなくたって、遥にとっては何も変わらないと思っているから、自分だけで処理しようと思っていたけれど・・・」 ベッドの傍の時計の秒針が妙に響いた。私は生唾を飲み込む。知樹は黒目の大きな瞳を私に向けた。 「このままじゃ駄目なのかな」 「・・・どういうこと?」 「このまま、俺は遥の傍にいたら駄目なのかな」 「何を言い出すの、突然!」 私は知樹にしがみつく。なんだか今は、知樹が知らない人に見えた。だって知樹はあんなに優しい瞳をしていたのに、今は冷たい。そう、まるで昔のような・・・。 「遥は、どういうつもりで俺を拾ったのか分からないけれど」 最初の出会いを今更になって知樹は持ち出す。その心が理解できなくて、私は知樹の顔を見つめた。 「拾ってくれたことには今だって感謝しているけれど、俺は猫や犬じゃない」 その言葉は冷たく私の鼓膜を通り抜けていった。冷たい。怖い。だけど、それでも私は知樹が必要で、それ以外何もいらなかった。 「そんなこと・・・」 震える唇から乾いた声が零れる。 「そ、そんなこと、思っていない・・・・・・」 「じゃあ俺のことも考えて。未来を見据えるって言っただろ」 そのまま私を抱きしめる知樹の手もやっぱり冷たくて、私は涙を零した。 ずっと不安だった理由が分かった気がした。どんなに想い合ったって、知樹は私とは別の人間で、別の世界があるのだ。いつも同じ世界を共有していけるはずがないのだ。私はそれを酷く恐れている。まだ若い知樹がどんどん知らない人に、知らない世界に溶け込んでいくことが、とても怖い。 そしてまた私は置いていかれるんじゃないかって、そればかり考えてしまっていた。 でも知樹・・・。私は思う。未来を見据えるだけじゃどうにもならないこともあるんだよ。時には振り向いて過去を垣間見てしまうことも。 「・・・遥」 私から身体を離して、知樹は立ち上がった。呆然と座り込んだまま知樹を見上げる私の頭を撫でた知樹は、少しだけ無理やり笑った。 「今夜は一緒に居ないほうがいいみたいだ」 そう言って玄関に向かう。 「・・・・・・え?」 私の身体は動かない。靴を履く知樹をただ見ていた。 「どこに行くの・・・・・・」 トントンとつま先で床を蹴って、知樹はドアノブに手をかける。 「知樹、どこ行くの・・・?」 「明日には帰るよ」 「嫌だ、行かないで、知樹!」 私の叫びも虚しく、ドアは重たい音をたてて閉じられた。足音が小さくなり、やがて消えた。 「知樹、嫌だ・・・!」 私は頭を抱えて、立ち上がることも出来ずに慟哭した。 テーブルの上にはまだ半分以上の夕食が残っていて、湯気を立てることもなくなるほど冷めてしまったようだ。 だけど私の涙は枯れない。
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