雨が降っている。梅雨明けまであと一ヶ月くらいかかるのだろうか。 「孝則はさ、将来について考えたりするの?」 仕事が終わってから病院に向かう途中で隣で遥がつぶやいた。傘のおかげで表情は見えず、質問の意図は読み取れない。 「将来って・・・?」 由希が見つかってから三日が経った。まだ由希は目を覚まさず、母はついに寝込んでしまった。今は俺がこうして仕事を夕方で終え、病院に毎日足を運んでくれた。暗い場所に行くには勇気がいる。遥も俺に合わせて付き合ってくれた。 遥は昔から優しい。 「将来っていうか、未来の幸せ・・・?」 訊ねている本人に疑問符がついてどうするのだ。俺は苦笑して、どうだろうとつぶやく。 「仕事面では、一応就職できたし、それなりのビジョンはあるけれど」 「幸せについて、考えたこと、ある?」 やっと見えた遥の瞳は弱々しく光っていた。横で走っていった車のタイヤの音が、水に擦れて響く。 幸せ。俺は、その定義が分からない。この前の話の続きだろうかと少し警戒する。あまり触れられたくない話題だった。 「私ね」 震えた声で遥はつぶやく。 「孝則がちゃんと言ってくれたから、私もちゃんと言うね。私ね、知樹と・・・付き合ってるの」 タイミングよく赤信号に差し掛かる。立ち止まった俺は、横にいる遥の顔を見つめた。一瞬にしていろんな感情が込み上げてくる。羨望と嫉妬と、そして焦燥。 少しの間をおいて、俺は息を吸う。 「・・・まあ、なんとなく分かっていたけれどな」 「あ、でも、付き合い始めたのって、さ、最近だったり、するの、よ・・・?」 何を恥らっているのか、遥は耳まで赤くなって、しまいには傘で俺から逃げる。俺といたときはそんな素振り見せなかったよなぁ、と身勝手に思う。 「そうなのか? 俺はアイツ・・・加上くんだったっけ? ・・・はずっと遥に気があると思っていたけれど」 「あー・・・、うん、そうかもしれないけれどね? 私のほうが気持ちの整理できなかったっていうか、・・・もう、この話はいいじゃん!」 信号が青になり、遥は俺を置いてさっさと歩いた。 驚いた。これは非常に驚いた。 二人が一緒に暮らしているという時点で、つまり二人はそういう関係にあると勝手に思っていたからだ。それもごく当然に。 俺と由希のように禁じられているような関係ではないのだし、疑うことなくそうだと決めつけていた自分を恥じた。 それだけ知樹は遥を好きだということか? 手も出せなかったくらいに? そんなことが現実にもあるんだなと驚いている一方、自分も似たような状況だったことに気付き尚更驚いた。 ほんの一週間前までは俺も由希と一緒に住んでいたのだ。
電車に乗って二駅、俺たちは無言のまま降りる。 「ねえ、さっきの続きだけど」 自分から話を切ったくせに、縋るように遥は俺を見上げる。 「知樹がね、未来を見据えているって言うの。今がよければそれでいいなんて、ありえないって、・・・あの子まだ十五歳なのに、どうしてそんな風に考えられちゃうのかな。それとも、私がおかしいのかな。私が甘えているだけなのかな。ねえ、孝則、どう思う?」 「・・・・・・・・・・・・」 一気にぶつけられて、俺は呆然とした。俺だってそんなの分かるわけないじゃないか。 だいたい、知樹が十五歳であることを今始めて知ったのだ。彼は十八歳だと由希は言っていたのに、やはり偽っていたんだなと心のどこかで冷めたことを思う。 「・・・よくは分からないけれど」 しどろもどろになりながらも、プライドにかけて俺は答える。 「そういうのって、人それぞれだし、男はさ、好きな人間を幸せにしてやりたいって意地でも思っているもんだし、遥が悩むことじゃないんじゃないの?」 俺の言葉に遥は控えめに笑う。
遠慮しているのか自分から知樹のことを語ろうとしない遥に、俺はいたずら心でちょっかいを出す。そこでいろいろな情報を得た。 知樹に両親がいないこと、迷い込んで偶然遥のマンションの一階で倒れていたこと。実は十五歳であること。鋭い瞳を持つ反面、とてつもなく優しくて甘い心を持ち、あっという間に遥を翻弄してしまったこと。 「・・・あぁもう、本当はこんなこと語るつもりはなかったんだけど」 「なんで? 楽しいじゃん」 「そう?」 「人の恋愛話は楽しいよ。それに、遥が幸せなら尚更、ね」 俺がテンポ良く言うと、遥は上目遣いに俺を睨む。 「・・・少しは妬いたりしてくれないの?」 見抜かれていたその視線から逃げるように、俺は遥から顔を背ける。 「・・・妬いているよ」 「ふふ、嘘ばっかり」 遥は目を細めて笑う。勝手だろうけれど、本当に妬いている自分を俺は発見する。 そして、無責任にも遥が幸せになることに焦りを覚えながら、どこかで安堵していたりもするのだ。俺の最大の罪。 二人で呼吸を合わせるように病室に入る。 由希は相変わらず眠っていた。先ほどの現実逃避の時間を虚しく思う。 その由希を見つめる遥の真剣な眼差しも、なんだかとてつもなくいとおしく思った。由希に対する感情とは少し違うところにもある、だけど、一生手放したくないもの。 「・・・何?」 俺の視線に気付いたのか、遥は俺に視線を向ける。 「いや、なんでも」 答えると、遥はふっともの悲しげな瞳で俺を見つめた。ずいぶん雰囲気が変わったなと思う。俺と一緒の頃は全て俺にささげるような、しがみついているような、もっと必死でありながらも不安で鈍く光る瞳を持っていたのに、今のそれは強くたくましく、俺を守ってくれるかのようだった。 「ねえ、孝則」 静かに遥は口を開いた。 「もし・・・、もしもよ、由希ちゃんが、孝則を好きだったら・・・・・・、どうする?」 「・・・・・・・・・・・・・」 空白七秒。俺はあんぐりと口を開けたまま、遥が発した言葉の意味を考えていた。そして、どう考えても解釈は一つで、妙な動悸が俺を襲う。一瞬声が出なくて焦った。 「・・・・・・ありえない」 やっと言えたのはその一言。 「『もし仮に』って言ってるの」 「そんなこと、例え話にしたって聞きたくない!」 思わず大声が出てしまって、遥は俺から一歩引いた。突然昔に戻ったような瞳で俺を見上げ、ただ一言ごめんなさいとつぶやく。 まだ心拍数が正常じゃない。俺は静かに呼吸をして、窓の外を仰いで、落ち着きを取り戻す。 「・・・いや、俺こそごめん」 声がかすれた。咳払いをひとつして、もう一度遥を見た。遥は不自然なほど何回も瞬きをした。俺はこの合図を密かに知っている。 「私、帰るね」 急ににっこりと笑って、遥は部屋のノブに手をかけた。 「あ、遥・・・」 「だーいじょーぶ、早く帰らないと知樹心配しちゃうし、孝則はここにいてあげて?」 軽く言って、遥は走って行ってしまった。きっと今頃泣いているに違いない。俺の言い方がきつかったせいで。 俺は認めてもらったからと言って、どこまで彼女を傷つけ甘えれば気が済むのだろうか。こめかみを押さえて重くため息をつく。 窓の外を見る。もう日が暮れる。夏至は終わったのだろうか。だけど、まだまだ日は長くて、一日一日だと日の長さの変化が分からない。 だから、窓の外を見ても変化を感じられないのだろうか。今はそれが怖い。このまま、だなんて。 俺はゆっくりと椅子に腰をおろして、由希を見つめた。規則正しい呼吸。どんなに眺めても飽きない。こんな状況ではなかったら最高に幸せな場面なのに。 「・・・・・・由希」 声にならない声で、そっとささやく。 何かを言おうとして、でも言葉が思い浮かばない。込み上がる感情は溢れるほどあるのに。 由希の小さな手を握る。由希の長い睫毛を見て、俺は瞳を閉じた。真っ暗な視界の中、俺は何を望む? 「きっとこれは恋じゃない・・・」 今更そんなことを言ってどうするのだ。こんなときに何に願いを請うというのだ。馬鹿馬鹿しく鼻で笑ったとき、握っている小さな手が震えた。 俺は立ち上がって由希の顔を覗き込む。 手に力が入る。それは決して俺の力なんかではなくて。 「・・・・・・そうだね」 桃色の唇がかすかに喋った。わずかに開かれた瞳の黒目は、確かに俺を見て微笑んだ。
―――これは恋なんかじゃないよ。
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