私には兄弟がいない。つまり一人っ子だ。だから兄弟に対する気持ちってものに理解しにくいのかもしれない。だけど、だからこそ私は孝則を守りたいと思った。 好きになったら駄目な人なんて、本当はいなくていい。私の気持ちは変わらない。
やっぱり彼女だった。私はもう一度由希の顔を見たあと、真っ赤に染まった空に目を向けた。初めて由希を見たとき――孝則と由希が二人で歩いているのを遠目で見てしまったあのときは胸が千切れそうな思いをしたというのに、今ではこんなに落ち着いていられる。強がりなんかではない。時間の流れを、身を持って素晴らしくも恐ろしくも感じる。 もう昔の私じゃない。孝則に寄りかかっている私じゃない。そう思って、それでも大切な人に変わりはなくて抱きしめた。 孝則はずっと気丈な人だと思っていたけれど、なんて辛い思いを抱えていたんだろうって考えると、それこそ胸が痛くて涙が出そうになる。でも私は守ってあげる立場だから、孝則を安心させてあげなきゃって、それだけを思った。 「・・・・・・軽蔑されると思ったのに」 孝則がぼそりとつぶやいた。乾いた声だった。 「軽蔑なんて、しないよ。言ったでしょ、好きになったら駄目な人なんていないって」 私が言うと、孝則はうなずいて私から離れた。 孝則が由希を見つめるその視線がたまらなく愛おしそうで、私は全身の身震いを感じた。私には欠けているもののような気がしてならない。今の私は確かに幸せなのに。
アパートに着いたときは、すでに午後七時半を超えていた。部屋の電気がついている。胸が高まる。まるで初めて恋を知った少女のように、私の足取りが速くなる。 「ただいま!」 「あ、おかえり遥」 知樹の笑顔は変わらなくて、私は胸を撫で下ろす。知樹はソファーに寄りかかって何かを読んでいた。 「何読んでるのー?」 「ん、ちょっとね。あ、夕飯の準備、あとは焼くだけで済むし、早く食べなきゃね」 「うん、私も手伝う」 立ち上がる知樹について行くと、知樹は私を向いて微笑んだ。 「ありがと」 そう言って私の頬にかする程度のキスを落とす。ここはアメリカじゃないんだからと私が顔を真っ赤にすると、知樹は笑った。こうして見ると十五歳じゃないみたいだ。四つも年上の私のほうが気後れしてしまいそうだった。 「由希ちゃんね、東京に帰ってきたみたいだよ」 知樹が作ったハンバーグを食べながら私が切り出すと、知樹は箸を止めた。 「え、そうなの?」 「うん、でも事故に遭ったって。さっきまでお見舞いに行ってきたんだ」 「・・・大丈夫なの? 大芝さん」 「・・・・・・うん。でもまだ目を覚まさなくて・・・」 それって大丈夫とは言わない。つぶやきながら言葉をなくして、私は箸を進めた。 「・・・遥?」 私の沈黙に気付いたのか、知樹が私の顔を覗き込んだ。 「あ・・・、うん、ちょっとびっくりしちゃって・・・、でも納得もしたんだ。孝則、ずっと前から好きな人がいるって言っていたし、妹がいることなんて言わなかったし・・・、合点がいったというか・・・」 「遥」 動揺している私の声を知樹がピシャリと止める。私ははっとなって知樹を見た。目が合うと知樹はふてくされたように俯いた。 「俺の前で他の男の話しないで・・・・・・って言ったら、怒る?」 最初は格好良く決めるのかと思ったらこれだ。私は思わず笑ってしまった。 「怒らないけれどね、もうヤキモチ焼く場所じゃないでしょココは」 「や、だって昔の男だし?」 「その言い方やめてよー」 真剣な責め合いにはならない。私たちはただひたすら笑い合った。ここにはテレビも音楽も必要ない、私たちの声でこんなに寂しさが埋まる。 「ねえ、ハンバーグ美味しいよ?」 「そう? 遥が作ったほうが何倍も美味しいと思いますけれど?」 「イエイエ、今は料理デキる男がモテるんだよ。いいお婿さんになれますね?」 冗談で謙遜し合って。なんてことない日常の一ページ。ふと、知樹の表情が変わった。 「・・・遥は婿養子派?」 「ううん、別に」 「ふうん?」 それきり知樹は何も言わなかった。私も何も気付かない振りして笑っていた。自分の中にある邪な気持ちを悟られなくて。
じゃあ結婚する? なんて、ドラマにあるような展開になるはずない。それでも一瞬でも期待してしまった私はなんて馬鹿なんだろう。 温かいお湯に全てを預ける。シャワーを浴びながら、愚かな自分に泣きたくなった。 浴び終わってパジャマを着て部屋に戻ると、先に浴び終わった知樹がベッドに寝転んでまた何かを読んでいた。 「あ、遥、おあがり」 「知樹、何読んでるの?」 「うん、ちょっと・・・。はーるか、早くおいで?」 隣に私が入れるようにスペース開けて、布団をトントンと叩いている。 「駄目。私、髪乾かさなきゃ」 「俺がやってあげるって。ドライヤー持ってきてここに座りなよ」 「・・・・・・・・・・・・」 私はあんぐりと口を開けたまま知樹を見つめた。 元々知樹は甘い男だとは思っていたけれど、今日は一段と重症だ。どうしたんだろう。 「と、知樹、無駄なサービスはいらないから。そのくらい自分で出来るし」 「そう?」 「・・・っていうか、何かあったの? どうしたのよ?」 私が言うと、知樹はちょっと考えてから手招きした。 「分かった。言うからドライヤー持ってこっち来て」 そんなに私の髪を乾かしたいのか。私は嘆息して、ドライヤーを持って知樹に背を向けてベッドに座った。 「わ、シャンプーの匂いがする」 そう言いながら、知樹はコンセントを差し込んでスイッチをつけた。私の髪に温かい風が吹き込み、この季節には少し暑い。 「ね、話って何?」 「あのさ、俺、高校行こうかなって思って」 私の髪の毛に触れながら、何でもないことのように知樹はつぶやいた。だから、私も一瞬そのまま素通りしてしまいそうになった。だって、ごく普通の人間なら、高校へ行くことくらいなんでもないことだし。数秒後、やっと私は口を開いた。 「・・・・・・え? 高校って・・・?」 「うん、俺さ、中学もろくに行ってなかったし、勉強できないし、高校に行くなんていう選択はどこにもなかったんだけど・・・、やっぱ行こうかなって」 「・・・どうして?」 「だってこのままじゃ中卒じゃん」 「別に世の中には中卒の人もたくさんいるし、みんなそれぞれちゃんと働いたりして・・・」 「そう、それ」 会話に対して、私の頭に触れる知樹の手は酷く穏やかだ。 「立派に働いているなら学歴なんて関係ないんだよ。でも俺は・・・、ろくな仕事したことないし、今だってただのフリーター同然だし、俺は男だし一生このままってわけにはいかないだろ? 何かやりたいなら、結局はそれなりの学歴・・・高校くらいは出てないと、可能性すらないんだよ」 私がひとりで幸せに浸っている間に、なんて大変なことを考えていたのだろう。私の心が痛んだ。それこそ年下に思えないほど、しっかりとした考えを持っていたなんて。 「でも、どうして急に、そんなこと・・・、中学行ってないなら高校に行くのだってそう簡単なことじゃないよ・・・?」 「うん、でもなんとかやるよ。家庭教師を雇うって手もあるし」 「え、そんなお金なんて」 言いかけて、私ははっとなって振り向いた。突然の出来事だったので顔に熱風が掛かって瞬きをした。知樹の傍に置かれている高校の資料が目に入った。 知樹が慌ててドライヤーを止める。 「あー、もう、急に振り向いたら危ないって」 「ねえ・・・、もしかしたら、あの人に言われた?」 「え?」 「あの人・・・、知樹の父親だっていう人に・・・・・・、会ったの?」 「・・・うん、今日バイト終わったらね、電話が来て」 私は知樹の顔を見た。知樹は何でもないことのように言う。いつもそう。だから、私は何を考えているのか分からなくて怖くなる。ここを出て行かないっていうも本当なのだろうか? 「遥が思っているほど滅茶苦茶じゃないよ、佐々川さんは」 「そうだけど、でも!」 「確かに許せないって思うけれど・・・、でもやっと見つけた俺の肉親なんだよ」 私の瞳に写ったのは、必死に私を説得しようとする真剣な知樹の眼差し。
私の髪の毛が完全に乾いた後、私たちは部屋の電気を消して二人で布団に潜り込んだ。 「佐々川さんね、すごく責任感じていて、そんで俺のこともすごく考えてくれていて。俺が高校行っていないことも気にしていて、出来るだけ普通の人と同じ生活を与えたいって言ってくれてさ・・・、だから、俺は行こうかなって思ったんだ」 「・・・そんなにあの人に縋ってまで、したいことがあるの?」 「うん、高校、行きたいよ。自分にしかないもの、欲しいよ。今の俺は空っぽな気がして」 「そんなの、知樹はまだ十五歳でしょ? 今から見つけられるよ」 「だから、可能性も欲しいんだよ。もっとたくさん知らなきゃいけないことあるし・・・ね。それに、数年後、まだ遥が俺を一番に思ってくれていたら、幸せにしてあげたいじゃん?」 すぐ目の前にある知樹の表情は暗くてよく見えなかったけれど、覚悟のある眼差しが私を見つめていることを知って私は息が苦しくなった。知樹の手が私の乾いた髪の毛に触れる。 「・・・今のままでも幸せなのに」 「そんなの幻覚だよ、遥」 知樹は厳しい声で言い切った。 「今がよければそれでいいとか、そう言って破滅していった人たちを俺は見たことあるし・・・、そんなことはありえないんだよ。俺は遥が好きだから、だからこそずっと未来まで見据えなきゃって思うんだよ」 「・・・見据えてどうするの」 「遥を幸せにするよ。遥がそのときも俺を好きでいてくれたらね」 それこそ私が想像していたプロポーズなのに、なぜか寂しくて私は泣きそうになってしまった。求める温もりは、手の届く場所にあるというのに。 私が感じていた幸せって一体何だったのだろう。知樹を目の前にすると、とても小さくて薄っぺらな気がした。それでも、私が今とてつもなく幸せなのに違いはなかった。知樹を好きなのも、今ではもう当たり前だった。
―――知樹の母親は、僕の学生時代の恋人だよ。 昨日の喫茶店で。 怒り狂う私を前に、佐々川さんは静かに語り始めた。 「僕が高校時代のときに付き合っていた彼女でね、名前は樹里(じゅり)。僕と樹里は中学二年の頃から付き合っていたんだ。でも高校は別になってね、それでも交際は続いていた。俺は本気で彼女を愛していたし、きっと樹里も僕を好きでいてくれたんだと思う。 しかし、突然彼女は消えたんだ。高校二年になったばかりのことだった。樹里が住んでいるマンションに行ってみたけれど、その部屋はもぬけの殻で、俺は捨てられたんだと思った。・・・ショックだったよ。裏切られたんだと思った。 誰に聞いても、樹里の行方は分からなかった。もう樹里のことは諦めるしかなかった。やっと吹っ切れたと思った頃・・・、僕が大学生になったときに、樹里が死んでいたことを知ったんだ。俺は葬式にも行けなかった。もちろん樹里の両親に会いに行ったけれど、僕を見ようともしなかった。厄介払いをされたよ。 その理由を、最近知ったんだ、知樹。彼女は妊娠していた。そして、身を隠し、君を産んだんだよ、でも樹里の体がもたなかった、そのまま死んでしまったそうだよ、それを最近知ったんだ」 私たちは手を握り締め合いながら、三流小説よりも酷なその話を黙って聞いていた。
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