2 その距離50cm


 人間なんて神秘的なものだと思う。
 学生の頃、体育の授業は好きだったが、高校を卒業してもう四年経つこの肉体が本来なら、こんなに運動能力を発揮できるはずがないのだ。だけど、俺は平気で駅までずっと走り続け、駅からも走り病院に駆け込んだ。
 入り口のソファーには母が座っていた。
「・・・母さん!」
 肩で息をしながら、俺は母の傍による。母は、涙ぐんだ目で俺を見上げた。
「孝則・・・、由希が、由希が・・・」
「容態はどうなんだよ?」
「命に関わるほどの怪我ではないって・・・、でも、あの子が・・・」
 俺の手を弱々しく握り、母は一目も気にせず泣いた。記憶していたよりもずっと白くて細くて、年齢を感じさせる皺のある手を見つめながら、俺は母をなだめた。なんていったのかは覚えていないけれど。


 由希は、病室で眠っていた。頭に巻かれた包帯が痛々しい。
 事故にあったのだという。横断歩道を渡っていたところ、後ろからきた右折車に跳ねられたらしい。その車の運転手はそれ相当の処分を受けたと聞いたが、そんなことはどうでもいい。由希は死んだわけではないし、俺は会うこともないだろう。会ったところで、殺したいほどの憎しみがあっても実行できるわけではないのだし。
「由希が、目を覚まさないの」
 母は言った。医者は落ち着いた表情で、必死に母を説得している。
「母さん」
 俺はつぶやく。
「いつか・・・、目を覚ますって医者も言っているんだから、待つしかないだろ」
「孝則・・・」
 母は涙目で俺を見つめた。その揺らぐ瞳の中で何を思っているだろう。何が見えているのだろう。
「孝則、あなたってもっと取り乱す子だと思ったのに・・・、意外と冷静なのね」
「・・・・・・・・・・・・」
「そう、そうよね。由希を信じて待つしかないわね。ごめんね、お母さんが冷静じゃないんだわ」
「いや・・・、親だったらそんなもんだろ。でも心配しすぎて母さんが倒れたら元も子もないんだからさ、俺も出来る限り由希を看に来るし、母さんは自分のことも考えてちゃんと休みなよ」
 俺が言うと、母は潤んだ目を俺に向けて、無理して微笑んだ。笑うと由希そっくりだと俺の心臓が高鳴る。こんなときだというのに。
 母は何か飲み物を買ってくると言って、廊下に出て行った。俺は由希の寝顔を見つめる。顔に傷がないのが救いだ。女の子なのだから。・・・女の子なのだから。
 傷だらけの小さな手のひらにそっと触れる。反応はない。力を入れないように、俺は包むように握った。
「・・・・・・どうして」
 俺はつぶやいた。
 せっかく帰ってきたと思ったのに、どうしてこんな有様になってしまう?
 由希が何を思い、何を決心して東京に戻ってきたのか、分からない。だけど、あのとき電話で言ったことは全て真実ではないことだけは分かった。でなければ今頃東京にいるはずがないのだ。
「どうして・・・・・・・!」
 両手で由希の手のひらを握る。反応は当然のごとく返ってこない。それが悔しくて悲しくて、俺はその手に顔を近づけた。その距離五十センチ。口付けをしようとして、これではただの夢物語になってしまうと顔を離した。それでも手を握ることはやめない。
 視界が潤んだ。母の手前、先行きが明るいことを言っていたけれど、本当は俺だって不安だ。だって、一生このままだったら・・・?
 そう思うとやりきれない。俺は、由希の気持ちを一度も聞いたことがない。あの電話に偽りがあるのなら、何を思っているというのだ。
 疑問はさかのぼる。なぜ久史と別れたからと言って俺の家に逃げる必要があったのか。他にも方法はあったはずなのに、そこでなぜ俺を選んだのか。俺が由希を好きだという異常を知っても、なぜ拒否をせずにそのまま俺の傍にいたのか。普通だったら、絶対にこんな兄に会いたくないだろう。
 そして、あのときなぜ俺から逃げなかったのか。そして、気まずくなった瞬間、まるで恋人から逃げるように久史の元に行ったのは何故なのか。
 そう考えると、由希の思考はものすごく複雑に絡み合っているように思えてたまらない。同じ遺伝子を持っていても、考えなどまるで分からない。
 由希の手をベッドの上にそっと置き、そっと離した。その手にぬくもりがあることに安心して、一筋の涙が頬を流れた。こんな泣き方は知らない。まさか自分が泣くなんて。母に見つからないように手で拭う。それっきり涙は影を見せなかったからよかった。
 窓の外を見つめた。日常的な景色。誰がどこで何をしようと、空は自由自在に変化する。俺たち人間の手の届かない自然という圧倒的な力の支配のもとで。俺たちの存在はとても小さい。それでも、その小さい想いでこんなにも揺るいでしまう感情がある。
「孝則、ウーロン茶飲む?」
 ドアが開き、さっきよりもずいぶんすっきりとした母が戻ってきた。外の空気に触れて、少し気分がよくなったのかもしれない。俺は礼を言ってペットボトルを受け取った。


 とりあえず由希は帰ってきてくれたのだ。無理やり自分に説得して、明日からはちゃんと仕事しなければと俺は自宅に帰った。
 午後十時。鍵を開けて靴を脱ぐ。ずっと一人暮らしをしていたのに、数ヶ月由希と暮らしただけで、こんなにもこの空間は寂しい。いつになったらこの空間が満たされるだろう。人間という温かさで。


 翌日、仕事場で会った遥に俺は正直に話そうと決心をした。
 朝一番に出逢った遥は、俺の姿を見て安心したように微笑んだ。
「よかった、ちゃんと仕事に来てくれて。昨日はごめんね。大丈夫だった?」
「話がある、事情は店長に話してあるから今日も夕方で終わる。そのあと、少し付き合ってくれないか?」
「・・・分かった」
 何か覚悟をしたような表情で、それでも強い瞳で遥はうなずいた。この数ヶ月で彼女は強くなったと思う。
 平日の昼でもその日はやたらと混み、仕事疲れでふらふらになりながら、午後六時、着替えを済ませ、裏口で遥を待った。
「孝則、お待たせ」
 私服姿の遥は、ミュールを鳴らして俺のもとに走ってきた。
「話って、何?」
「・・・来て欲しいところがあるんだ」
 俺は遥の手を握って、俺の家に向かった。遥は何も聞くことなく、黙ってついて来てくれた。その手の温もりを感じ、俺は大丈夫だと心でつぶやく。
 掴んでいるのは俺なのに、守られているように思った。昔、付き合っていたときよりもずっと安心できる温もり。後ろめたさがない分、素直に感じられた。
 マンションの駐車場で俺の車を出した。不思議そうな顔をしながらも助手席に乗る遥は、さすがに口を開いた。
「ねえ、どこに行くの?」
「病院」
 俺が言うと、エンジンの音と共に遥の唾を飲み込む音が鳴った。
 二十分ほどで病院に着いた。面会時間は午後七時まで。それでも正面玄関は閉められているため、端の入り口から俺たちは入った。
 まだ見舞いの人々がいるため、病院は思ったほど静まっていなかった。それだけが救いだった。俺は慣れた足取りで、遥の手を掴んだまま、エレベーターに乗った。
 その階は一階に比べて静かだった。覚悟して部屋に向かう。手前から五番目の部屋。
 表札を見て、遥は声を漏らした。
「大芝由希・・・?」
「うん、由希が、東京に帰ってきたんだけど・・・、事故に逢ったらしくて」
 目を見開く遥に、俺は無理やり笑みを浮かべて答え、ドアを開けた。母の丸い背中が見えた。ゆっくりと母は振り向いた。
「ああ、孝則・・・、おかえり」
「ただいま、母さん。この人は同じ職場で友達の榎木遥さん」
「まあ、可愛らしい方ね。こんばんは」
「こ・・・、こんばんは」
 突然の出来事に、遥の緊迫した声が病室に響いた。
「母さん、由希は?」
 遥に急なことで申し訳ないと思いながら、俺は母の後ろの由希を遠目で見る。答えを聞かなくても分かった。母は一度見せた笑顔をなくし、ゆっくりと首を横に振った。
「もう俺がいるからさ、母さんは一度家に帰りなよ。父さんだって会社から帰ってくるし、母さんもあまり寝てないだろ?」
 俺が言うと、母は微笑んで、立ち上がった。
「ごめんね、そうさせてもらうわ。よろしく頼むわね」
 母は遥に会釈して、ドアの向こうへ消えた。疲労漂う背中が痛々しかった。
「・・・孝則」
 俺の横で、呆然と遥がつぶやいた。
「事故に遭ったって・・・?それは昨日・・・?」
「うん・・・」
「ごめん、私・・・、あの電話のあとも孝則を一人にしちゃって・・・」
「それは、気にしないでいいよ遥」
 俺はもう気付いている。俺にも譲れない想いがあるように、遥にも最優先するべきものがあるということ。
 遥は一歩一歩ゆっくりと、由希が眠るベッドに近づいた。
「・・・・・・顔は似てないのに、寝顔は孝則にそっくりなんだね」
 小さくつぶやいたその声を聞いて、俺は立ち尽くしたまま遥の顔を見た。遥もこっちを向き、俺の目を捕らえた。
「本当に、兄妹だったんだね」
「・・・・・・遥?」
「嘘だと思ったのに・・・」
 遥の鋭さに、俺は愕然とした。願ってやまないことだった。本当に嘘だったなら、どんなに幸せだったことか。
 遥は目を伏せた。何か考えをめぐらせているようだった。
「ねえ、孝則・・・、兄妹ってそんなに絆が強いもの・・・? 血の繋がりが・・・、私よりも大事だったんだ・・・?」
「・・・・・・・・・・」
 俺は拳を握った。
「孝則、私が今考えていることは、恐ろしいことなんだよ・・・?」
「・・・多分、それが正解」
 窓の外では夕日が空を赤く染めていた。遥の零れ落ちる涙が反射され、キラリと光る。由希の腕に繋がれている点滴の液体が一滴落ちた。
「今更だけど・・・、ごめん、遥・・・」
 俺がつぶやくと、遥はゆっくりと俺を抱きしめた。急すぎる優しい夢心地に俺は目を見開いた。
「・・・辛かったね」
「遥・・・?」
「ずっと、そんな苦しい思いを抱えていたんだ・・・? 分かってあげられなくて、ごめんね」
 遥の手は、まるで母親のように、俺を守ってくれた。


      
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