第三部
1 壊すように、守るように



 私は馬鹿だから、二つのことをいっぺんに考えられないのだ。
「遥、おまえ俺が熱出したときに来てくれた日、ピアスを落とさなかったか?」
 六月が始まった頃、言いにくそうに孝則が自嘲した。私は五秒間孝則を見つめてしまった。
「・・・そういえば、そんなこともあった気がする、けれど、二ヵ月も前のことは覚えてないよ」
「そうだよな、俺も昨日ベッドの下を何気なく覗いたら光るものがあって、遥のものかなって・・・・・・あ」
「どうしたの?」
 急に黙って考えている孝則に、私は軽く声をかける。孝則はびくりと一歩後ずさって、私を見た。
「いや、本当に遥のものかなって」
「・・・・・・・・・・・」
 なるほど、他の女の可能性もあるってわけだ。なんとなくムカっとしながら、私は笑顔を浮かべる。
「じゃあ、今日バイト終わったら、孝則の家に行っていい? 私のピアスかどうか確認するし」
 今になって思う。行かなければよかった。そしたら、自称「孝則の妹」だなんて嘘っぽく名乗る女に会わずに済んだのに。
 それからずっと、私はあの由希の存在が気になって仕方なかった。彼女は女の私から見ても可愛くて、きっと孝則に関係がなければ友達になりたいくらいだった。
 私の心の中はそればかりで、だから出遅れてしまったのだ。
 知樹から求められたこの気持ちに。


「このまま、帰ってこなかったら」
 孝則はうなだれた。何度も来た孝則のマンション。今はもう私の場所じゃない。こうやっている今でも、私は由希の影に怯えている。私の居場所じゃないと攻め立てられている気がしてならない。だけど、こうして孝則が弱っている今は、私しか守れない。だって、孝則は大切な人だ。
「孝則、由希ちゃんはきっと帰ってくるし、だって孝則のことあんなに大事そうにしていたでしょ?」
 一度しか会ったことのない女のことをどうしてここまで庇ってしまうのだろう。自分でも謎だけど、どうにかして孝則を励ましたかった。私も愚かな女だ。
 孝則は私を見た。迷いのある瞳。
「・・・おまえ、どこまで知っているの」
「え?」
「俺と由希のこと、どこまで知っているんだ?」
 私には、孝則の言葉の意図が分からない。今更何を言っているんだろう。
 決まっている。孝則と由希が本当に兄妹だなんて誰が信じるものか。そう思って、口を開こうとしたときだった。孝則のジーパンのポケットで携帯電話が鳴った。
 孝則は虚ろな目で携帯電話を見つめた。そのまま、ボタンを押そうとしない。
「どうしたの? 誰から?」
「・・・母親。どうしたんだろ・・・、まさか由希がいなくなったことがばれたか?」
「え・・・・・・?」
 いぶかしげに首をかしげた私などお構いなしで、孝則はボタンを押して携帯を耳に当てた。
「もしもし・・・・・・、・・・・・・・・・え?」
 受話器の向こう側で何を言われたんだろう。孝則は信じられないほどすばやく立ち上がった。そして、慌てたように玄関に向かう。その変わりように驚いた私は、一歩遅れで必死になって孝則を追いかけた。
「ちょ・・・っと、孝則! 急にどうしたの? どこに行くの?」
 私の存在を忘れていたかのように、ぎょっと孝則は私を振り返り、口を開いた。
「病院」
 ただそれだけをつぶやいて、孝則は走った。私もそのあとを追いかけた。
 孝則の大きな背中を追いかけるだけで、胸が痛くなる。今の私が夢中になりたいのはこんなことじゃない。もっと、優先順位を考えたら大切なものはあるはずなのに。
 知樹の顔が浮かんだ。怯えた目をしていた。私は、捨てられることを怖がっているのは自分のほうだと思っていたけれど、トラウマがある分知樹のほうが恐怖が大きいのかもしれなかった。どうして今まで気付いてあげられなかったのだろう。
 そのとき、携帯が鳴った。知樹がバイトを始めたときに名前を偽って買った知樹の携帯電話からだった。
「孝則!」
 私が呼ぶと、孝則はさっきよりもずっと青い顔をしていた。いったい何の目的で病院なんかに。だけど、私は鳴り続ける携帯電話を握り締めた。
「もう、一人で大丈夫? 私は、行かなくちゃならないんだ」
 私は孝則に近づいて、手を握った。下から見る孝則の顔。こんなに近くで見たのはいつ以来だろう。それでもぎゅっと、おまじないのようにした。
「・・・分かった。ちゃんと行けるから、大丈夫」
 全然大丈夫じゃない笑顔で、孝則はそっと言って走っていった。私が追いつけないくらいのスピードで。
 ごめんねと心の中でつぶやく。でも、こっちには一人で寂しがっている人がいる。私は一度深呼吸をして、ボタンを押した。
「・・・もしもし?」
『・・・・・・・・・』
「もしもし、知樹でしょ? どうしたの?」
 後ろでざわざわという騒音が聞こえる。遠くで食器のぶつかり合う音。私が働くファミレスでもよく聞く音だ。ということは、知樹はレストランか喫茶店のような場所から電話しているのだろうか。
『はる・・・か・・・』
 弱々しく知樹がつぶやいた。私は歩いていた足を止める。
 大好きだと思った。さっき知樹に小さくつぶやいた言葉。大好きでたまらない。だから切なくなった。それでも、あのときは私は孝則を守ることしか考えられなかった。二つのことをいっぺんに考えられないし、行動に移すなんてもっと無理なのだ。
「うん、私。どうしたの?」
『今からこっちに来れる・・・?』
 知樹は、今いるというカフェの名前を言った。ここからバスに乗ればすぐの場所だった。
「分かった、すぐ行くから」
 精一杯の想いをこめて言った。ごめんねは言わない。余計に辛くなるだけだと知っていたから。


 店につくと、知樹は四人席に座っていた。知樹の前に座っている紳士服の男を一瞥して、私は知樹を呼んだ。知樹ははっと私を見ると、安堵したように息を吐いた。私はもう一度、男を見た。顔立ちが知樹にそっくりだった。寒気がするほどに、私を見上げるその瞳も。
「君が、榎木遥さん?」
 挨拶もせずに、いきなり男は切り出した。私は立ち尽くしたまま男を見下ろした。嫌な予感が伝わって、身震いを覚えた。私が黙ったままでいると、男は自嘲したように笑った。
「ずいぶん若い女の子が来て驚いたよ。ああ、僕は佐々川護、と申します。そして・・・」
 佐々川と名乗った彼は、ちらっとうつむく知樹を見て、信じ難い科白を言ってのけた。
「知樹の実の父親です」
 その瞬間、パンッという潔い音が店内で響いた。一瞬ざわめきが止まり、またざわつき始めた。みんなの視線を感じる。
 私が、この男の頬を平手で叩いたのだ。
「遥・・・!」
 遅れて知樹が立ち上がり、私の手を握った。私は言葉を知らない獣のように、ただ男を睨み、肩で息をした。
「遥、とりあえず座って! 遥!」
 知樹に手をひっぱられて、私は衝動的に知樹のとなりの席に座らされた。それでも、湧き上がるこの感情をどう説明すればいいのか分からない。
 もう事は終ったのかと、みんなの視線が再び違う場所へと移る。私はそれを自覚して、ようやく理性が戻ってきたのを確認した。もう一度、男を見据える。
「・・・このくらいの、いや、これ以上の仕打ちは当然だと思っているよ」
 男はただ笑い、頬を押さえた。
「あ、当たり前じゃない! 動物だって、生んだ子供はちゃんと自分で育てているのよ!?それが出来ない人間を世間は親と呼ばないし、ましてや今更現れてどうする気!?」
 話題が話題なだけに、私は声を潜めて怒鳴った。そのくらいの配慮が出来る理性は持っていたけれど、この溢れかえりそうな感情はどうにもならない。
 私は握られていたままの手に気付き、そっと握り返した。この感情とは正反対に、優しく、包むように。隣ではっと私を見る知樹に気付いたけれど、見つめ合うことはしない。嫌なタイミングで緊張した足取りでウエイトレスが歩いてきた。私はコーヒーを頼み、再び男を見た。男は泣きそうな顔で目を伏せた。こういうところが知樹にそっくりで気持ち悪い。ここから早く逃げ出したい気持ちをこらえた。
「―――知らなかったんだ」
 彼がつぶやいた。
「知樹が生まれたこと、知らなかった。知って愕然としたよ、彼女が子供を身ごもり、産んでいたなんて」


 佐々川さんの語る話は長く、私にとって余計に頭が混乱したようだった。だからと言って。
 まさかここで、知樹をあっさりと帰すわけにはいかない。男は意外にもあっさりと承諾した。思ったよりは常識のある人間だった。その代わり、男は知樹に電話番号を聞いていた。私はそれを黙って見過ごした。これは知樹の問題であり、私には関係ないことだった。
 もう二度と関わりたくないと思っても、知樹そっくりの顔を見たら言えなかった。
 佐々川さんは私と知樹に一枚ずつ名刺を渡した。印刷された会社名を見ると、見覚えのある会社名が明記されており、彼はその社長だった。
 引っ叩かれた頬を赤くした佐々川さんは私たちを送ると言い出したが、私は断った。無言で、知樹の手を引っ張り、帰路を辿った。知樹も何も喋ることなかった。不安とか、そんなものではない。ただ胸が痛んだ。
 アパートに着き、部屋に入るなり私は知樹を思い切り抱きしめた。いろんな感情はまだ込み上げてきて、何を言えばいいのか分からない。靴も脱がないで、ただ知樹の背中に手をまわしていた。そして、ぽつりと一言。
「――・・・悔しいよ」
 私の口から、そんな単語が漏れた。私の肩には知樹の頭が乗っかっていて、知樹の息遣いを感じた。それだけで酷く安心した。
「悔しい、あんな男より私のほうがずっと知樹を守ってあげたい気持ちは大きいはずなのに、何も出来ない。悔しい。もっと、もっと傷つけてやりたかったのに、言葉が出てこなかった。自分の感情が分からなかった、悔しいよ、知樹」
 涙声になる。頬に液体が伝った。どうして私が泣かなくちゃならないのと自分に聞いたけれど、誰も答えてくれない。
「・・・充分だよ」
 知樹は顔をあげて、私の涙を指で拭った。
「ありがとう、遥」
「そんな言葉はいらないよ、ねえ、この生活は続いていくんだよね?」
 私が知樹を見上げて必死になって言うと、知樹はただ悲しそうに笑った。どうしてそんな瞳をしているのだろう。まるで私の知らない未来を見えてしまったかのように。
「・・・私を捨てないって、言ったじゃない」
「捨てないよ。だからこうしているんだろ?」
 知樹の腕に力がこもる。こんなに感情が溢れているのに、どうしてそれを上手く表現する言葉が存在しないのだろう。人間の生きていく上で当たり前に存在する感情なのに、どんなに捜しても見つからない。それでも、私は目をぎゅっとつぶって知樹の胸に顔を押し付けた。
「・・・好き」
 本当は違う。こんな簡単じゃない。こんなに文字で表せるほど、簡単に言い表せられない。だけど、その言葉で充分だと言うように、知樹はうなずいた。
「うん・・・」
「知樹、好き・・・、本当だよ?」
「うん、その言葉、すごく聞きたかった」
 私よりもずっと余裕のある笑顔で、近距離で知樹は私の瞳を覗き込んだ。
 どうして今まで分からなかったのだろう。こんなに触れたいと願うものが目の前にあって、こんなにも求められていたのに。自分の馬鹿さ加減に呆れて、なおさら泣けてきた。
 理屈では語られない、だけど、複雑な人の心の中には単純な鍵があるのかもしれない。私が知樹に置き去りにされる日を恐れていたのと同じように。
 何度もキスをした。寝る前に交わすほど簡単じゃない、もっと想いをこめた深いキスを何度も交わす。知樹の唇が首筋に伝わりくすぐったさを覚えて、私は瞳を閉じた。
 恐怖に感じていたのは、嫌な未来を想像したから。今だって幸せな未来を信じているわけではないけれど、知樹が優しく守るように抱きしめてくれたから、私は全てを受け止めようと思った。知樹の重み全てを、全部愛してあげたいと思った。
「俺も、好きだから」
 何度も何度も、途切れるように、知樹はつぶやいた。涙が出た。ちゃんと言葉で言われたのは初めてだった。知らなかった、単純な二文字でこんなに幸せになれるものだなんて。ああ、だから知樹もそれを求めていたんだ。私たちは同じ気持ちを持っていたんだ。そんな私を見て、知樹は微笑んで汗で額に張り付いた私の前髪をそっと掻きあげて、私の瞼にキスを落とした。痛む心の隙間にたまらなく幸せな気持ちが胸の中いっぱいになって、私は必死に知樹の首に腕を回した。
 今になってやっと分かった。知ることが出来てよかった。


       
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