10 上下の関係


 もう携帯電話が鳴ることはなかった。着信音に怯えていたくせに、鳴らなかったら不安だなんてあたしは勝手な生き物だ。
「由希」
 この部屋に滞在して二日、何かを堪えきれなくなったように久史は口を開いた。
「由希、聞いているか?」
「・・・何よ?」
「おまえさ、いい加減帰れよ」
 ずっとベッドの上に座って朝の窓の外を見ている人間を目の当たりにしたらそう言いたくなるのも分かる。あたしの精神が正常だなんて証拠はどこにもない。
「帰る場所なんてないもん」
「タカ兄は、おまえのこと分かってくれるって」
「そんなのいらないよ」
 久史と目線も合わせないようにしていたら、久史は持っていたタオルを思い切りあたしに投げつけた。
「甘えんなよ!」
 はっとして久史を見た。久史を見るのは何時間ぶりだろう、ずっと同じ屋根の下にいたというのに。その表情は怒りで震えていた。怒らせたのはあたしだ。
「何をそんなにこだわっているんだよ! 自分の気持ちくらい、自分で決着つければいいじゃねえか!」
「・・・何も知らないで、どうしてそういうこと言うの」
 怒鳴る久史に、あたしは力のない疑問を返す。
「何も知らない? 俺が? 見くびらないでくれるかな」
 久史もあたしを見て少し冷静になったのか、声のボリュームを落とした。
「これでも俺はおまえらを見てきたんだ。おまえの気持ちだって知っているよ。そうだな・・・付き合っていた頃は確かに俺を見てくれたけれど、それは一時の逃避だ。タカ兄を忘れることによって生じたもの。おまえは、昔からタカ兄のことが・・・」
「やめてよ!」
 あたしは力一杯の声を出した。
「何を言うの、やめてよ、あたしがどんな思いをしたか知らないくせに!」
「知っているさ!」
 久史は突然、あたしは力いっぱい抱きしめた。もがいてもびくともしない、懐かしい温もりなのに、今は触れたくなかった。
「久史、やめて、離してよ!」
「知っている・・・、兄妹って壁がどれだけ高いかも、おまえを好きなタカ兄の気持ちも、掬い取れるように分かる・・・、だけど・・・」
 あたしを離そうとしないまま、久史は弱々しく声を吐く。
「おまえらは、幸せになればいいんだ・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
 久史の言葉を噛みしめて、それでも否定してしまう。当たり前だ、あたしたちは兄妹なのだ。
「由希・・・」
「無理、無理だよ、そんなの、幸せになんてなれない。あたしは孝則に会いたくない」
「おまえ、ほんと逃げてばっかり・・・」
 あたしを離して、あたしの肩に手を置いて、ため息をついた。
「俺がおまえを好きだった分、無駄にすんな・・・」
 最近、久史の真剣な声しか聞いていない気がする。頭の隅っこで思った。こんな久史が嫌いなわけではないけれど、あたしはもっと安堵できる場所が欲しいのに。もっとくだらない冗談を言ったりしている久史も好きだった。
「帰れよ、由希。そんで思いをすべてぶちまけて来い。逃げるのはそれからでも遅くないだろ?」
「・・・・・・・・・・・・」
 あたしはぼんやりと久史を見た。
 あの日孝則を追い詰めてしまった自分をひどく呪う。どうして言わせてしまったのか、気持ちを認めることや吐き出すことはこんなにも苦しいことなのに、なぜあたしは平気で孝則を傷つけていたのだろう。あたしはベッドに座り込んで、久史が投げたタオルを握り締めた。
 もうどうすればいいのか分からなくなっていた。


 あたしの手を引いて歩く久史の背中を見た。たった三ヶ月のあいだに、いつの間にこんなに大きくなっていたのだろう。
 人々が往来する、博多駅。一昨日と同じ景色のはずなのに、霧がかかっているようであたしは時間に置いていかれた浦島太郎の気分を味わった。
「由希」
 あたしに持っていたコムサのボストンをよこして、久史はあたしの瞳を覗き込んだ。
「帰れるよな?」
「・・・・・・・・・」
「絶対、帰れる」
 切符を買って、あたしに渡した。
「もし、何か辛いことがあったらいつでも来い」
 はっきりと言う久史に、あたしは胸が熱くなった。どうしていつまでもあたしに優しくしてくれるの。別れた女のことなんてもっと放っておいていいのに。
 あたしは赤い目で久史を見上げ、首を横に振った。
「今帰ったら、もう来ないよ」
 本当はしがみつきたい。ずっと寄りかかって、安堵を求めていたい。やすらいでいたい。だけど、それがもうお互いの負担になることはこの二日でよく分かった。
「あたしが東京に帰ったら、もう久史に会わないよ」
 そう言ってやると、久史は複雑な表情で、でも笑った。
「いい心がけだよね」
 あたしの長い髪に触れて、キスをした。
「正直、俺はタカ兄のことなんてどうでもいい」
「・・・うん」
「ただ、幼馴染として、由希もタカ兄も、大切なんだ。分かるか?」
「・・・うん、分かっている」
「だから、全てぶちまけて、悩むのはそれからだろ。自分達が間違っていることを認めればいい」
 きっと、久史が言葉にするのも簡単ではなかった。あたしも孝則も同じくらい大切に思ってくれる以上、苦悩は大きかったに違いない。だから、あたしは静かにうなずいた。久史の言葉全部に従おうとは思えなくても、久史の手を握った。
「もう行くね、あたし」
「おう」
「バイバイなんだよ」
「そうだな」
「寂しくないの?」
 あたしは必死になって、何かを訴えようと久史を見た。途端に久史の瞳は驚くほど穏やかに和らいだ。
「寂しいよ」
 嘘ばっかり。毒づくタイミングを失った。寂しくないと言ったら嘘になるだろうけれど、こっちには久史の生活があり、それなりのテリトリーが存在するのだ。全て承知の上で、あたしは小突いてみる。
「仕方ないね、追い出したのは久史なんだから」
「人聞きの悪いこと言うな。おまえの意思だろ?」
 久史は、改札口に向かってあたしの背中を押した。後押ししてくれる、まるでお母さんのように思った。言ったら怒られるだろうから絶対に言わないけれど。
「久史」
 あたしは久史に背中を向けたまま、つぶやいた。
「あたし、久史のこと、本当に好きだったんだからね。覚えておいて」
 そう言って、久史の顔も見ずに走って改札に飛び込んだ。乗車券が自動改札機に吸い込まれる時間が長く感じた。地団駄を踏みながらも改札を抜け、振り返ると。
「そんなこと知ってる!」
 恨めしいほどの笑顔で久史は言った。涙を堪えて、あたしは手を振った。久史の大きな手のひらも宙に浮く。その瞬間を目に焼き付けて、あたしは今度こそ背を向けてエスカレーターに乗った。
 幼馴染だから一生会わないということはなくても、きっとしばらく会うことはないだろう。そう思った。


 昼の新幹線に乗ったおかげで、どうにか夕方には東京に着くだろうか。
 孝則の部屋の鍵を鞄から出して眺めてみた。まずは何と言って謝ればいいだろう。そして、何かを伝えよう。何でもいい、くだらないことでいい。正直な気持ちの一つ、小さなことを言うだけでいい。恐れることはまだ言わなくてもいい。それでも、本当の自分の一部を知ってもらえるだけで気持ちは楽になれるだろうと思った。
 誰かに認められることがこんなに枷を外すなんて知らなかった。
 携帯電話は、まだ孝則を拒んでいるけれど、きっと今日会うことになる。まず言わなければならないことがある。
 もうウンザリなの。まずはそれを訂正しなければならない。そして、さよならなんて永遠に在り得ないのだと、伝えなければならない。
 だってあたし達は兄妹なのだから。何があったって、結局離れることなんてないのだから。


 久しぶりに降りた東京は、雨空の下でも蒸し暑く、不快指数が増した。電車を乗り換えて、孝則の家の最寄り駅よりも手前で降りて、あたしは駅内のコンビニでビニル傘を買った。
 今すぐに帰ってもあたしはまだ何の言葉も用意していない。覚悟がない。その証拠に携帯電話を繋げていないままだし、それに。最寄り駅なんかで降りたら、あたしを捜している孝則に出会うかもしれない。あたしを捜している、なんて、思い上がりかもしれないけれど、なんとなく想像できた。彼は血眼になって捜してくれているのだと、願うだけで心が和らいだ。
 大きな街並に飲み込まれないように、あたしは俯いたまま歩いた。この街にはきっとあたしのように何の目的もない人間がたくさんいる、それだけが救いだ。
 ある交差点。ざわざわと人々が行き交う。あたしは信号も見ないで目の前を歩く人間の背中を見て歩いていた。だから気付かなかった。横断歩道の信号が、赤になりかけていたことを。
 それでも、どう考えてもあたしに非はなかった。反対側の車道はまだ赤信号だったし、その最前列の車はきちんと止まっていたから、あたしは何の疑問も持たずにゆっくりと歩いていたら。
 あたしの後ろ側から右折車が飛び込んできたことにあたしは気づかなかった。時差式の信号、きっと車も慌てていたのかもしれない。だからって。
 激しく甲高いブレーキ音にあたしは包まれた。身体に妙な浮遊感が漂う。遠くで悲鳴が聞こえる。あたしに何が起こったのか分からない。


 気付いたらあたしは、自分の身体をコントロール出来ずにいて、顔に降りかかる雨の冷たさを感じた。空からは容赦なく雨が降り続ける。冷たい。頬を投げられているのは、なんだろう。
 口の中で血の味が広がった。あたしはどうなったのだろう。あたしは死んでしまうのだろうか。やっとあたしは孝則から逃げないようにしようと、東京に帰ってきたのに?
 伝えたいことなんてただひとつだけだった。さっきあたしが思っていたとおり、まわりくどいことなんてしなくていい。
 孝則。
 あたしは鉄の味がする唇をかすかに動かしてみたけれど声にならない。だけど、それでもつぶやこうとして、力尽きて、目を閉じた。遠くで救急車の音が聞こえる。
 孝則。あたしは、好きだなんて簡単な感情は持っていない。
 だけど、ずっと思ってきた。本当は知っていた。孝則、あたしは孝則を愛していると。



第二部 Fin.


      
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