そのまま二日間、大芝さんは姿を現すことがなかった。他の店員よりもずっと笑顔が多く、好意で他人の俺になんかにDVDを貸してくれるような大芝さんを思い出して、彼女がいないだけでこの職場はこんなにも暗いのだと再確認する。 ため息をついて、俺は店を出た。 「知樹!」 そのとき、耳に馴染んだ声が届いて、俺は一瞬微笑みそうになった。 「遥! ・・・と、・・・」 遥の隣で、辛そうに目を伏せた、遥の昔の男。今日も来たのか。今日で三日目になる。このように毎日来られると気分が悪い。俺は無理やり遥の手を引っ張った。 「ちょ・・・、知樹?」 「今日も大芝さんは来てないですよ」 遥の小さな手のひらをぎゅっと握って、俺は孝則を睨んだ。 「知樹、そんな言い方ないでしょ?」 「だって、ここに毎日来たって意味ないだろ」 遥の制する声も無視して、俺は孝則に言った。すると、孝則は悲しそうに自嘲気味に微笑んだ。 「そう、そうだな・・・、それでも、こうして来ればすれ違えるかもって思ったんだ」 孝則の、表情の割には冷めた静かな声に、俺たちはお互い手を握り締めあう。その場が静かになった。 「・・・孝則、それ、どういうこと?」 遥が重い沈黙を破る。 「由希に、絶交宣言されたよ」 「そんな・・・」 遥の手のひらに汗が溜まる。いや、これは俺のほうだろうか?血のつながりを持った家族との絶交なんて、あり得るものか。そう叫びたいのに、声にならずにいる。そんな俺を、優しく包んでくれる体温。確かに遥の視線は孝則を向いているけれど、震える俺の手を滑りそうになりながらも決して離さないでいてくれる、唯一の救いだった。 「喧嘩、したの? 連絡ないの? 今どこにいるか、ねえ、孝則、本当は知っているんじゃないの?」 「・・・・・・ごめん、俺もう帰るわ。妙なことに付き合わせて悪かったよ遥」 深く嘆息をして、前髪を掻きあげて言う彼に、遥はもう片方の手で、その腕を掴んだ。 「大事なことだよ。ちゃんと最後まで付き合うから、解決して。このままじゃ、孝則、クビになるよ!」 置いてきぼり感を味わうなか、この兄妹はどこまでも似ているなと俺はこの場に相応しくないことを思い、半笑いをする。 「こんな、従業員の立場で、毎日夕方あがりでいいわけがないでしょう? ね、孝則!」 するりと、虚しいほどにあっけなく遥の手のひらが離れていく。俺はさっきまでつながれていたその手の行き場をなくし、途方に暮れた。 「は、遥!」 孝則とどこかへ行こうとする遥を、俺は震える手をどうにかもう片方で隠して、叫んだ。 「どこに、行くの?」 「・・・大丈夫、すぐ帰るから」 きっと今の俺は、情けないほど弱々しい瞳をしていたに違いない。置いていかないで。体中が叫んでいる。こわい、怖い、恐い、コワイ! 「知樹・・・」 俺の異変に気付いたのか、孝則から手を離し、ゆっくり俺に近づいてくる。その目は、俺と同じ、どこか不安定に揺らいでいた。傲慢に過ぎないだろうけれど、俺の気持ちを全て救ってくれたかのように思った。 「知樹、ごめんね」 俺の震える両手を両手で握って、諭すように遥はつぶやく。後ろで立ち尽くしている孝則に聞こえないほどの声で。 「孝則はね、私の大事な人なんだよ。今も昔も変わらない。でもね」 ぎゅっと瞳を瞬きして、手にも力を込めて、遥は迷いのない、透明な眼差しを俺に向けた。 「私、いっぺんにものを考えられないから、ずっと待たせていたよね。私ね・・・―――」 俺は耳を疑った。 一瞬の出来事だった。それを言い残して、遥は再び俺に背を向けて孝則のあとについて行ってしまった。俺は取り残された。でも、さっきのような不安はない。遥の言葉はまるで魔法のように、俺を解放した。 遥の一言が暖かい風のように俺を包んでくれた。
高鳴る心臓を押さえて、俺は街に出た。こんな気持ちのまま誰もいない部屋に帰る気がしなかったのだ。女子高生や若者で賑わう街も、一本道を入っていけば裏社会へと繋がる。人生の中に必要のない場所、だけど、それを必要とする人間はいるという。俺ももう少し荒めばそうなっていたかもしれなかった。それでしか居場所を見出せないなら、そうすることで生きている感覚を持てないのなら、その世界に関わる人間を俺は責めることなど出来ない。 大きな交差点をふと見渡したときだった。見覚えのある黒い布をまとった女。俺の足が硬直したように動かなくなる。 「・・・知樹くん!」 その女は俺を見つけた。逃げたいと思うのに、足が動かず、あっという間に捕まってしまった。 「知樹くん」 次の言葉はきっと、今までどこに行っていたのとか、学校はどうしているのとか、答えなんて見つからない押し問答が繰り広げられるだけだと思った。それを覚悟して俺が顔をしかめると、その女、つまり院のシスターが俺の手を握った。 「探していたのよ。お話したいことがあるの」 警戒すると、シスターは今まで以上に優しく微笑んだ。 「さあ、行きましょう」 何事にも動揺しないような、物静かな声で。
小学校の頃までは真面目にやってきたつもりだった。それでも、校舎の大きさに圧倒される。 『あの子は、ほら、加上児童の家の、そうそう、例の孤児院の子供だそうよ』 参観日になれば必ず視線を浴びた。俺と同じ施設で育った子供は他にもいたけれど、彼らはもっと上手く生きていた。俺にはその声に耐える強さすらなかった。 圧倒される。普通って何?誰もが俺を哀れむような目で見る。可哀相だと言い、距離を置いていく。俺を独りに、していく。校舎の高さ、学校の大きさ、世界の広さ、全てに潰されそうになる。 校舎を破壊したいと思った。そのとき、何かがぷつりと音を立てて切れ、大きな音を立てて今まで大切に積み上げてきたものが崩れ落ちた。 それから、俺は破滅街道まっしぐらだった。遥に出会うまでは。 見覚えのある、ログハウス模様の家。小さな子供達があどけない顔をして笑い、遊んでいた。この世の絶望をまだ知らない表情。人間はあの頃が一番幸せなのだろうか。 俺はシスターに連れられて、事務室の隣にある部屋に連れて行かれた。ソファーが二つずつ、対面式に置かれている。そこに、紳士らしい人が座っていた。 「知樹くん、そこに座りなさい」 言われるまま、俺は紳士の目の前に座った。紳士は俺をじっと見ている。まだ若い。三十歳くらいだろうか。 「君が、知樹、くんか?」 「・・・はあ」 突拍子もない会話の始まり。曖昧にうなずくと、途端にその紳士は、床に座ったと思ったら急に頭を下げた。 「すまなかった・・・・・・・・・!」 「・・・・・・?」 何のことかさっぱり分からない俺は、ただ眉をひそめるしかない。すると、俺の隣にいたシスターがふとため息を漏らした。 「知樹くん、あなたの実のお父様よ」 「・・・・・・・・・・・・」 この状況を考えれば当たり前のことだが、俺は話す言葉を失った。
それから、その紳士は是非俺と二人で話したいと、再び外に連れ出された。駅まで歩き、電車に乗っている間も男は俺の腕を掴んでいて、俺は放心していた。街にある喫茶店でゆっくり話そうと彼は電車を降りてからやっと俺から手を離して、俺の前を歩き出した。 「ちょ・・・・・・っと、待てよ!」 先を歩くスーツ姿の背中に、俺はやっと出るようになった声を思い切り出した。 「おまえ、誰だよ!」 「君の実の父親、佐々川護(ささがわまもる)と申します」 「そんな、そんなこと・・・、今更何を言ってんだよ! おまえっ・・・、何をやったのか、・・・・・・畜生!」 腹の底から溢れ出てくる言葉は意味を成さない。俺は自分が何を喋っているのか分からない。そんな俺に、目の前の男はただ目を伏せた。 「分かっている・・・、口で謝っても済まないということくらいは・・・、本当に申し訳なかった」 「結局口で言って済まそうとしているんじゃねえかよ! 俺を・・・、俺をっ! あっさりと!・・・捨てやがって・・・・・・」 「違う・・・知樹、聞いてくれ」 「軽々しくその名前を口にするな!!」 公衆の面前とまではいかないが、ここは夕方の街中、誰かに聞かれることを彼は恐れたのか俺の手を引いた。すぐ近くの交差点に出ると、夕方のラッシュに巻き込まれる。道路も酷く混乱しているほど、車が渋滞していた。 「酷い渋滞だな、事故でもあったかな」 彼はそうぼやき、俺を喫茶店に連れ込んだ。 「こんなところに連れ込んだって、話すことなんて何も・・・」 「聞いてほしい、知樹。俺の話を。そして、君の話を聞きたい」 彼はウエイトレスの目も気にせず、俺の目を見て言った。 「君は今まで院にも帰ってなかったそうじゃないか。ああ、責めているわけではないんだ。ただ、それまで君がお世話になった場所というのが存在するのだろう? 俺は、その方に会いたい」 お世話になった場所? 危ない場所なんていくつもある。適当に女の家を渡り歩いたことも。だけど、何よりも俺の居場所になったのはただひとつ。遥。その名を心の中で叫んだ。 つい先ほどの出来事が遠く感じる。別れ際に小さな声で俺に震えるほど嬉しかったあの一言を囁いた遥の表情を思い出せない。 「それでね、俺はこう見えてもある会社を経営しているんだよ。今軌道に乗っているところだ。そこでだ、知樹、俺と一緒に暮らさないか。これから、やり直さないか?」 何を勝手なことを。唇が震える。怒りで頭が狂ってしまいそうだ。 目の前がぼやける。人々の喋り声、笑い声、今まで耳にしてきたものが一緒くたになって湧き上がる。目尻から思いもしない液体が一筋流れた。 「それより」 声がかすれたせいで、俺は一度咳払いをした。 「そんな話より、俺はあんたの話を聞く権利があるだろ」 そう言ってやると、相手は少し考えて、承諾した。 「じゃあ、君の保護者、と言えばいいのかな。出来たらここに呼んでもらえるかな」 しゃあしゃあと言ってくれる。俺は唾を飲み込んだ。一度出た液体は元には戻らない。 「・・・・・・・・・・・・畜生」 唇を噛んで、俺はバイトをし始めた頃に買った携帯電話を握り締めた。
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