8 梅雨が来たよ


 ブラウン管の向こう側で、気象衛星画像が映り出されている。
『本日、関東地方が梅雨入りをしました』
 お天気お姉さんが笑顔で報告する。そんな笑顔になるような内容でもないのに、とあたしは毒づく。
「由希、コーヒー飲むか?」
 キッチンから久史が声をかける。あたしはうなずき、再びテレビに視線を向ける。
「梅雨入りしちゃったよ、関東」
「そっか、じゃあこっちももうすぐかな」
「嫌だな、梅雨・・・」
 あたしはその辺に置いてあったクッションを抱きしめながらため息をつく。
「梅雨って言えば、思い出すよな」
「何を?」
「昔さ、俺たち、いっつも外で遊んでいたけれど、梅雨になるとテレビゲームに熱中したよなって」
「ああ、そういえばそうだったね。久史はいつも最新の機械持っていたもんね」
「あれは親父の趣味。俺も子供なりにラッキー少年だったけれどな」
「でも、スーファミもロクヨンもプレステも、孝則のほうが覚えるの早かったよね」
「う・・・、おまえ今でもそれを言うか!」
「身内の自慢ならいくらでもするよ」
 表面上の、思い出話。花を咲かせても、そこに孝則が登場するだけで空気が重くなる。それをさせる孝則って、なんて最低な男なんだろう。人間としてどうなの。それでも、あたしの頭から切り離せないのだから、あたしも馬鹿だ。


 昨日の夜、結局バイトから帰っても孝則はあたしに目を合わせてくれなくて、というか、あたしも孝則を見ることも出来なくて、一緒にご飯を食べていてもただリビングでテレビの音が響いていただけだった。
 食器がぶつかり合う音がする。たまらなく辛い。うつむいたまま食べる料理は、例え孝則が作ってくれたものでも美味しくない。
 その後熱いシャワー浴びて、ベッドに潜り込んだ。涙が出そうになる。重たい空気、あたしはそんなものを吸うためにここにきたわけではない。じゃあ、何のために孝則を頼って来たというのだろう。
 枕をぎゅっと握り締めていると、床のほうから着信音が聞こえた。あたしはむっくりと起き上がる。そういえば着信なんて、しばらく受けていなかった。高校の友達も、大学に行った子も就職した子も今の生活でいっぱいいっぱいで、ずっと友達でいようねと言ったからっていつでも連絡を取り合えるわけではない。あたしは床に手を伸ばして、携帯をとり、真っ暗な部屋の中で青く表示された固有名詞を見て目を見開いた。
「・・・久史」
 あたしは震える声でつぶやいた。急にどうしたというの。別れてから一度も喋っていなかった。どうして久史のデータを全部消しておかなかったんだろう。だけど、久史は元恋人以前に幼馴染だ、例えデータ消滅を思いついてもそんなこと出来なかったことをあたしが一番よく分かっていた。
 鳴り続ける音楽、このまま孝則に聞こえたらもっと嫌だ。あたしは右手の人差し指でボタンを押して、受話器を耳に当てた。
「も、もしもし・・・」
『あ、俺だけど、由希? 元気か?』
「久史・・・、何のためにこんな電話、を・・・」
『昨日さ、実家に電話したときに、由希がタカ兄のところに・・・・・・って、由希? 聴いているか?』
 久史の声に、見えもしないのにあたしはぶんぶんと頭を横に振った。いつの間にか床に正座していた膝の上に、ポタポタと生暖かい涙が流れる。この涙が何を想って落ちてきたものなのか、あたしには分からなかった。人間の神経の仕組みは複雑で難しい。
『由希・・・、泣いているのか?』
 電話越しだけでも察知してくれる、久史はいつだってスーパーマンだ。それが余計に胸を熱くさせる。あたしは遠慮なく鼻をすすった。
『由希・・・』
 いつもはあどけなく、からかい癖のある久史も、このときは真剣な声だった。
『ごめん、気になることがあったから電話したけれど、・・・辛くさせた?』
「ち、違う・・・」
 嗚咽の合間にあたしははっきりと否定した。
「ひ、久史・・・、あのね・・・」
『うん』
 久史の声はいつだって優しい。今でもトキメク。昔のように、もうずっと一緒にいたいと言う願望はないにしろ、安心がある。孝則といると、いつも気持ちを揺さぶられるし、喜怒哀楽が激しくなるし、疲れるだけだ。
「あたし、そっちに行っていいかな・・・」
『・・・・・・・・・』
 久史が生唾を飲み込んだのが分かった。きっと口を半開きにして、当人は真面目に深刻さを表していても、周りの人間から見たら間抜けな顔をしているのだろう。そういうところも変わっていなければいい。
『東京で、何かあった?』
 鋭いな。もしかしたらもうあたしが孝則の家にいることも知っているのかもしれない。だから連絡してくれたのだろうか。あたしたち兄妹のことは、当人よりも第三者である久史のほうがよく理解していたし。
「・・・・・・うん、あたし、明日そっちに行ってもいいかな」
 新幹線で五時間、その他の路線を考えても充分半日で行ける。便利な世の中だ。
『じゃあ、学校終わったら、また連絡するから、とりあえず博多まで来い』
 期待させるわけでも諦めさせるわけでもない言い方だった。


 結局あたしは逃げ続けなければ生きていけない弱虫なんだと思い知った。
 窓の外を見つめる。まだ梅雨を知らない九州の青空。東京よりも透き通っているような気がした。心なしか、空が近い。
 逃げて、次はどこへ行くつもりなんだろう。どうして、物事ときちんと向き合うことが出来ないのだろう。それが出来ればきっと久史とも正面から向き合って話が出来たし、そしたら今は孝則なんかに再会せずに幸せだったかもしれない。
 その考え自体が甘いことを、あたしは心のどこかで分かってはいるのだけど。
 携帯電話も、東京にいる人たちの番号は全て拒否をした。孝則はもちろん、両親も、友達も、最近番号を交換したばかりの加上くんでさえ。あたしの世間知らずな欠席を知った加上くんの口からどのように遥さんに伝い、孝則に漏れるか想像はつく。誰も信用できない。
「シャワー浴びて、もう寝たら。おまえ、顔色悪いぞ?」
 あたしに新品と思えるタオルをいくつか渡して、久史は言った。
「俺のベッド、隣の部屋にあるから、使っていいから」
「隣の部屋?」
 奥の方に引き戸があった。たしかにこの部屋は少し狭いとは思ったけれど、「学生の身分で」とついあたしが本音を漏らしたら、久史が苦笑して「この辺は学生用で家賃が安いから」と言った。
 あたしは言葉に甘えて、タオルを受け取ってコムサの鞄を手に取った。


 久史は宣言どおり、もうあたしを女として見ていないようだった。居候の身はあたしだし、求められたら拒めないとまで思っていたのに、そのアッサリした彼には心底感謝した。
 久史の香りがするベッドに入って目を閉じた。遠い昔の記憶が蘇るようだった。でも、もう今の心境では、何もかもが違いすぎていた。
 遠くでシャワーを浴びる音が聞こえる。久史はその辺に転がって寝るからいいと笑っていた。あたしをここに泊めたってなんのメリットもないのに。そう思って意識を手放しそうになっていたときだった。
 遠くで着メロが鳴っていた。あたしの携帯じゃない。はいもしもし、遠くで聞こえる。そして、閉ざされていたドアが開いた。
「由希!」
 真っ暗だった部屋に、急に明かりが入り、あたしは開きかけた瞳を再びぎゅっと閉じる。
「由希、電話・・・」
「でんわ・・・?」
 寝ぼけた声で、無遠慮に入ってくる久史を薄目で見あげた。短い髪の毛が濡れたままの久史の片手には、携帯電話があった。
「タカ兄から、電話、どうする?」
「・・・・・・・・・・・・」
 あたしはぼんやりと久史を見つめた。久史のもう片方の手を握る。
「由希・・・?」
「嫌だ・・・、切ってよ・・・」
 そうか、両親に連絡すれば、隣の家である久史のところに連絡がつくのは簡単なことだった。兄があたしの行き先に気づかないはずがなかった。甘かった。着信拒否なんてなんの意味も成さなかったのだ。悔しくて、細い声であたしは懇願した。今は声でさえ聴きたくない。
「由希」
 久史は全て分かったかのような顔で、それでもあたしを呼び続ける。
「おまえ、タカ兄から逃げて、何が残るんだよ?」
 容赦のない久史の言い方。悔しくて、それでも泣くものかと歯を食い縛る。
 久史は、あたしを見捨てないと思ったのに。そう思って、見捨ててないから受話器をあたしに押し付けるんだと思った。あたしたち兄妹を、どうなっても認めてくれるのだろうか。例え、世の中に許されない想いを持ったとしても?
『由希?』
 耳に押し付けられた受話器から、弱々しい声がした。
『由希、由希、だろ? そこにいるんだろ?』
 力を失いかけて、それでもあたしはやっと自分の手で久史の携帯電話を握り締める。
『おまえさ、このままじゃバイト、クビになるぞ』
 受話器の向こう側から聞こえてきたのは、そんなどうでもいい話で、あたしは思い切り腹が立った。あたしがいなくなったというのに、心配の態度すら示さないなんて。身勝手だと分かっていても、目の奥が熱くなる。
『聞いているのか、由希?』
 頼みの久史は、これ以上干渉しては駄目だと思ったのか、部屋から出て行ってしまった。再び一人になってしまった。そして、受話器を切れないでいる。
「・・・聞いて、いるけど」
『帰ってこい、由希』
「・・・・・・・・・・・・」
 開きかけた口を、元に戻す。ここで、今あたしが思っていることを言ったらどんなに楽だろう。
「孝則・・・」
 震える声で、孝則を呼んだ。絶対に手放せない人。あたしを惑わす張本人に対して、あたしは捨てられたくなくて必死になっている。絶対に久史と一緒にいるほうが安堵を得ても、それ以上のものを欲している。
「あたしね、久史とよりを戻したから」
 口が、感情をこめずに物を言う。一瞬呼吸をできずにいた孝則が見えた気がした。
『・・・それでも、おまえはこっちに戻ってくるんだろ?』
「もう、あたしは孝則とは暮らさない。こっちにいる」
『何言ってんだ、由希?』
「だって」
 あたしは、胸元を掴んだ。チクチクする。妙な鼓動と一緒に、波が襲っている。孝則を傷つけているのはあたし。じゃあ、あたしを傷つけているのは誰だろう。
「だって、あたしたち兄妹なんだよ?」
『知っている』
「あたしが、孝則の傍に・・・」
 何かを馬鹿にするような、呆れたような笑い方で、あたしはわざと声を高くした。
「傍に、いたって、いいこと何もないもの。もうウンザリなの。あたしたち、会わないほうがよかったよ」
『何言って・・・』
「さよなら、孝則。あたしのことなんて忘れてね」
 有無を言わさずボタンを押す。携帯はそれ以上鳴らなかった。
 さっきまで繋がっていた回線の向こう側で、今頃孝則は何を考えているのだろう。少しでもあたしを憎んでくれているといい。少しでもあたしを嫌いになってくれていたらいい。
「由希、電話終わったか?」
 部屋に入ってきた久史が目にしたものは、きっと今までにないほど格好悪いあたしだったに違いない。
「おまえ・・・、なんでそんなに泣くんだよ」
 大粒の涙を零し、付き合っていた頃でも滅多に久史に涙を見せなかったあたしが、その涙を手で拭っていた。
 あたしのことなんて、忘れてしまって構わないから。
 今この一瞬だけは、あたしよりもずっと深く傷ついていて欲しいと願った。


       
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