7 落下してきた人


 その小さな身体を抱きしめて、驚いたまま塞がらないピンク色の唇にキスを落とす。そのまま俺の体重ごとソファに倒す。
「と、知樹・・・?」
 やっと我に返ったのか、遥が今になって俺を押しのけようとするが、もう遅い。いくら俺が華奢で、他の男よりも小柄だとしても、遥よりは背も高ければ力だってある。
「知樹・・・、やめて、知樹!」
「なぜ?」
 遥の首筋にもキスをして、その行動の割には冷静に俺は訊ねる。
「言っただろ? 今後こういうコトするかもしれないって」
「そ、それは・・・」
「遥は俺を信用しすぎなんだ」
「・・・・・・・・・」
 遥の瞳に涙が溜まる。だけど、俺にはこの昂る気持ちのやり場が分からない。泣かせたくないのは確かなのに。
「遥」
 ひたすら俺の頭や身体を手で押して抵抗を試みる遥を俺は呼んだ。
「俺を、好きになってよ」
 これが恋だったらいいと遥は言った。俺に抱きしめられるのが好きだと。だったら、何の問題もないではないか。人の感情の名前なんて後付けであることが多いのだ、これを恋だと呼べばきっと安心できるはずなのだ。
「遥・・・」
 遥の頬には涙が伝い、抵抗を表していた手は俺の背中にまわる。
「・・・・・・嫌だ、そんなの」
 しかしその言動には矛盾が生じていた。俺を放すまいとしながらも、遥ははっきりと否定した。
「私と知樹は、そんな簡単な繋がりじゃないよ」
「でも俺は・・・」
 もうこれ以上、何も出来なくて、俺の体重が遥を潰さないように手加減をしつつもそのまま抱きしめていた。
 遥を好きだと思った。ずっと前から、いつからかもう思い出せないほどに、この三ヶ月間、短くも深い想いを抱えていた。
「もっと、簡単で、恋だったらいいって、思ったけれど・・・」
 ひとつひとつの単語を区切るように遥は俺の下で言う。もう安心しきっている。学習能力がないなぁ、と俺は微笑ましくなる。そんな彼女もとても可愛い。背中に感じる手のひらの温もりが愛しくてたまらなくなる。
「でも・・・、それによって何かを失うなら、私は今のままでいい」
「俺は、遥に捨てられない限り、傍にいるよ」
「だって」
 遥は俺から手を離して、自分の涙を拭った。
「アノヒトもそう言ったんだよ。大丈夫だって、どこにも行かないって・・・、でも結局好きだった女を忘れられなかったんじゃない」
「アノヒトって・・・あの男か?」
 大芝さんの兄だという男を思い出してみるけれど、数日前に会ったばかりの顔を思い出せない。ただぶっきらぼうな雰囲気と、背が高く頼りがいのありそうな、理想の男像を描いた嫌味な部分だけはっきりと覚えていて胸クソ悪い。
 何よりも、今でもこんなにも遥を蝕んでいるのだと知り、怒りが込み上げてくる。俺だったら泣かせない。どうしたらそれを信じてもらえる?
「・・・孝則を、憎んでいるわけじゃないの。憎んだり、恨んだりした気持ちもあったけれど、今はそれ以上に、やっぱり素敵な人だったから・・・、今でも話せることが嬉しいし、何よりも私には・・・」
 そこまで言って、遥は俺を見た。
 遥は両手で俺の頬を掴んだ。そのまま額をくっつける。静かな吐息が交わる。こんな愛情の表し方があるのだと知った。
 後付け、なんて出来ない。俺が間違っていた。この気持ちを適当にあしらうくらいなら、きっと手に入れたいなんて願わない。こんなにも遥に執着しない。ただ交わりたいだけだったら、こんなまわりくどいことはしない。昔のようにそこらの女を捕まえればいいだけの話だった。
 だけど、今はそんな考えにも及ばない。ありえない。遥以外だなんて絶対に。
 お互いの鼻がかすれる、くすぐったさに遥が笑う。唇が触れそうで触れない、このもどかしささえ愛しい。
「私は、知樹を手放せない。傍にいたいと願うのは、私のほうなんだよ。そんな私に知樹が愛想を尽かすのは目に見えているもの」
「そんなことしない!」
「未来のことなんて分からないよ」
「じゃあ、分からないなら、賭けてよ」
 俺は必死になって言った。
「分からないなら、信じてよ。俺にとって、誰よりも遥が一番だと」
 遥の涙が再びこぼれる。そんなわけない。遥の細い声が聞こえたけれど、知らない振りをしておく。
 そのまま、遥の涙を指で拭って、ただ抱きしめていた。服が邪魔だとも思ったけれど、それよりもこの体勢を崩したくなかったし、遥の言う繋がりが何なのか分かってきた。
 恋人と呼べるほど確かな関係ではないけれど、恋人以上の絆が俺たちの間にはあるのだと遥は信じたいのだ。それなら、まず俺はそれを与えてあげなければならない。
 身体を重ねても伝えられないもの。
 不思議な感情が生まれてくる。きっと名づけられようのない思い。俺たちは長い間抱きしめあったあと、そのまま抱き合うことはなく同じ布団のなかに潜った。たった一日ぶりの温もりなのに、俺は懐かしさを覚えた。
「知樹」
 眠りに就く前に、遥は涙目で俺を見た。
「何?」
「・・・ううん、なんでもない。呼んでみただけ」
「何だよ、それは」
 俺が苦笑する横で、遥は切なそうに顔をゆがめた。
「何か言いたいことがあれば聞きますけれど?」
「だって、矛盾しているって、知樹思うよ。きっと怒るよ」
「いいから、言えって」
「・・・あのね」
 その上目遣いは俺を唆しているのだろうか。悪気がないのだから余計タチが悪い。理性を手放さないようにしながらも、俺は遥に耳を傾ける。
「ギュって、してくれる?」
「・・・・・・・・・」
 子供っぽい言い草と、頬を染めてどこかしら色っぽい遥のギャップに俺は頭がクラクラする。そして、口許には笑みが零れる。
「ほらー、やっぱり笑うじゃん」
「誰も笑わないって言ってないよ」
 怒らないで欲しいと言ったり、笑うなと言ったり、ワガママな姫だった。少なからず俺には好意は向いているのだ、それを確かなものにしたくないだけで。勝手にそう解釈させてもらい、俺は遥の華奢な身体に腕を回した。
「これでいかがでしょうか、お姫様?」
「うん、ありがと」
 そして遥は目を閉じた。さっき襲われかけたくせに、なんて無防備なんだろう。切ないのは俺だ。それでも、今の幸せを俺は忘れない。


 翌日バイトに足を運んだら、大芝さんは欠席だった。
「困るんだよねぇ」
 店長がぶつぶつと文句を言った。
「今月のシフトは完成してしまっているというのに、急に今日から一週間休ませてください、だもんなぁ。もう駄目かなあの子は」
 駄目って何が。店長の言葉を直接受け止めていたわけではないけれど、その声をキャッチしてしまった俺は、胸のざわめきを感じた。なんだろう、この感じは、嫌な予感がする。まるで未来を予想するような感覚。
 ベテランの店員さんが店長をなだめるのを聞きながら、俺はレジに向かう。入ってくる子供連れの主婦に「いらっしゃいませ」と笑顔を向ける。
 それでも、この妙な気配は消えずにいた。


 夕方になり、俺がファーストフード店の裏口から出ると、見覚えのある人影が立っていた。
「あ、君・・・」
 向こうも俺に気付いたようだ。俺は軽く会釈して、そのまま通り過ぎようとした。そのとき。
「あ、待って!」
 彼は俺の腕を掴んだ。
「由希の・・・後輩だよね。俺のこと覚えている? 由希の兄だけど・・・」
「覚えてますよ、孝則サン?」
 俺よりも身長の高い嫌味な野郎は、今日はあの日よりも少しやつれていて落ち着きがない。
「ああ、そう・・・、あの、由希は、今日バイトには・・・」
「大芝さんは休みでしたけれど」
「・・・そうか」
 まさか一緒に住んでおきながら、彼は大芝さんの行動を把握していないのだろうか。まあたかが兄妹だ、あまり干渉しあっていないのかもしれないけれど。そこまで思った俺に問いかかった言葉は、予想を超えるほど驚くものだった。
「君さ、ええと・・・か、か・・・何だったっけ?」
「加上ですけれど」
「ああそうだよね、ごめんね、加上くん、由希がどこにいるか、知っている?」
「・・・・・・・・・」
 俺はあっけに捕られて、彼を見ていた。いくら干渉していないからって・・・。
「家に、帰っていないんですか?」
「そうだな、しかも、携帯は拒否されているし、・・・嫌な予感がするんだ」
 まるで行方不明だと言わんばかりに、彼は言う。
「・・・警察とか、相談したほうがいいんじゃないですか?」
「いや、それはまずい。そんな大事(おおごと)じゃないから」
「どうしてそう言い切れるんですか。世の中にはそこらじゅうに事件が転がっていますよ」
 俺は、それと隣り合わせの生活をしていたからよく分かる。昔の何人かの知り合いの女が蒸発した理由が、駆け落ちだなんて簡単な理由で消えたわけではない。
「だけど、違うと思う・・・。それに、たぶん由希は、東京には、いない」
 どこか儚そうに彼はつぶやいた。独り言のようだった。
「あの日、俺と喧嘩・・・みたいなものをしたから。君と、由希と、遥と、三人で居合わせてしまった日」
「・・・・・・・・・・・・」
「俺は、君と遥の関係に、いまいち釈然としないところもあるけれど、俺たちはまだ会うべきじゃなかったんだ」
 何が言いたいのだろうか。どうして俺が責められるような瞳を向けられなければならない?俺は必死になって、彼を睨んだ。
「俺はあんたみたいに遥を泣かせたりなんか、しない」
 そう言ってやると、思いのほか彼は悲しそうに笑った。
 釈然としないのは俺だった。なんだか掴めない奴だ。もう六月も十日が過ぎるというのに、空はまっさらだ。俺は青空に目を向ける。夏至が近いせいで、六時過ぎても日は沈まない。
 不穏な動悸は治まることを知らないようだ。


      
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