6 零れる液体


 流れる景色にため息をついた。新幹線で東京駅から西へ、約五時間。こうなることは、あの時携帯電話を閉じたときから分かっていた。
 あたしは初めて給料をもらったときに買った腕時計を見つめる。博多駅まであと十分。あたしのため息はますます重くなる。胸が、ドキドキする。この高鳴りを名付けるとしたら。
 例えば、今にも落ちそうなつり橋で男女が出逢ったときに、そのスリル感や不安の高鳴りを恋だと勘違いするという話があるように、心臓の鼓動なんてなんの説明もつかない。あたしですら分からないこの気持ちを抱えながらあたしはこれから新幹線を降りるのだ。そう考えると嫌になってくる。だけど、どうしても来たかった。


 博多駅を降りて、九州内で走っている路線に乗り換える。あまり関東とは変わらない気候、そういえば九州はあたしが小学生のときに家族で旅行に来た以来だと気付く。あの頃、孝則もまだ小学生で、一つ一つの小屋があるような少し変わったホテルに泊まったり、当時はまだめずらしかった室内の温水プールに行ったり、あたしは生まれたときから孝則をお兄ちゃんなんて呼んだことがなかったけれど、何よりも孝則は自慢の兄だった。
 そんな思い出をめぐらせているうちに新幹線が止まる。新幹線の線路の端。人々が慌てて降りるのに続いて、あたしはゆっくりとホームに出た。手荷物はコムサのミニボストンだけ、それで充分だ。
 いくら東京に慣れていても、日本五大都市に入る駅に来ればその圧倒を直に感じる。それでもしどろもどろしているような格好悪い真似はしたくなくて、冷静な表情を作って颯爽と歩いてみせる。
 そして、乗り換え口で三枚の券を自動改札に通したとき。
「由希」
 三ヶ月ぶりの声があたしを呼んだ。


「博多まで来てくれるなんて思わなかった」
 あたしが静かに言うと、彼はただ笑った。
「俺って優しいから」
「そうだね、全然変わってない」
「ちょっと何、素直なおまえって気持ち悪い」
 さりげなくあたしの荷物を手に取る彼に、あたしは顔を向けることが出来ない。
「久史」
 ただ次のホームへ歩きながら、あたしは彼を呼んだ。
「元気だったの?」
「おう、おまえは?」
「・・・・・・大学、楽しい?」
 次に立ったホームは、新幹線とは随分と違っていた。大きいのは変わらないけれど、そこを吹き抜ける風が時折涼しくて、何故か切なく感じた。長い時間新幹線内の乾いた空気にさらされていた瞳に染みて、涙が出そうになった。
「久史、やっぱりあたしが荷物持つ」
「いいよこのくらい、俺は手ぶらだし」
「だって、あたしもう、彼女じゃないよ?」
 あたしが言うと、久史は困ったようにただ笑っただけで、でも鞄を手放そうとはしなかった。その大きくて骨っぽい手があたしに触れたことがあるんだと思うと、妙な感じがした。確かにその事実は否めないのに、遠い昔過ぎるからだろうか、現実味を帯びない。
「おまえ、今はタカ兄の所にいるんだって?」
 あたしと同じように、久史も質問に困ったらスルーする。同じ悪い癖。ちなみにタカ兄とは孝則のことで、孝則は久史にとっても兄貴存在のようだ。血は繋がっていなくても、昔から一緒に遊んでいたのだ、そういう感覚を持っていてもおかしくはない。
「うん、バイト先から近いし」
「バイト、何やってんの?」
「・・・ファーストフード店」
 バイト初日に孝則が友達と来ていて、あたしは思わず隠れてしまった、そんな昔のことを思い出してしまった。あの頃あたしの頭の中は久史ばかりで、何をやっても駄目な毎日だったのに、いつの間に久史はあたしの中から静かに消えていったのだろう。
「おまえの営業スマイル見てみたい。いらっしゃいませーどのご注文をー? ええと、由希チャンのスマイルをゼロ円で!」
「あたしより、孝則のスマイルが気になるよあたしは」
 相変わらずからかい口調で、しかも少し古いギャグを飛ばす久史にあたしがそう返すと、久史は静かに笑った。
「由希、まだ行ったことないのか? タカ兄の店」
「ないよ、行ったら笑いが止まらないよきっと」
 ホーム内で音楽が流れ、電車が止まりドアが開く。あたしたちは並んでそのドアをくぐった。電車内は無駄にクーラーが効きすぎている。
「タカ兄、元気にしてるか?」
「うん」
 再び流れる景色を眺める。こんなに日本は広いのに、どうして電車から見る景色はどこも似ているのだろう。それとも、それを見分けられないあたしに欠陥があるのだろうか。
「うんって・・・、おまえ、もっと言う事ないのか?」
「・・・もっと。って、何?」
 ガタンゴトン、ガタンゴトン、電車に揺られていても久史の声はそれに負けない。声が大きいわけではないし、もちろん他の乗客に聞こえるほどでもない。ただ迫力があるのだ。あたしの耳にしっくりと当てはまる。
「おまえさ、・・・俺のところに、来る?」
 突然、何の前ぶりもなく久史は真面目に言った。その声で、真面目に言われると、心臓が痛くなる。それでも、この動揺を悟られないようにあたしは窓の外を見つめる。
「・・・何、言ってんの? もう終わったことをいつまでも言うのやめようよ」
「先に、もう彼女じゃないとか言ったの、おまえじゃん」
「だけど・・・、だからって・・・、」
「あのさ、タカ兄は昔と変わったよ」
 まるで孝則のことを何でも知っているかのように、久史は言う。
「・・・え?」
 あたしは思わず久史を見上げた。久史の瞳は今でも変わらず綺麗だった。変わらない人間なんていないよ。そんな理屈さえ通用しないほど、久史は昔からずっと変わっていない。
「もしかしたら孝則に会ったり・・・した?」
「まさか。タカ兄が家を出てから音信不通だけどな。でも、なんとなく分かるんだ」
「何を」
 ガタン、ゴトン。リズムが崩れる。雑音が入る。次の到着駅を知らせるアナウンス。それに紛れるかのように、久史は言った。
「タカ兄は、おまえに惚れているんだ」


 三ヶ月ぶりに携帯電話の着信音とともに久史の名前が表示され、ついあたしは孝則との気まずさから逃げたくて、何の書置きもなく逃げてきてしまった。別に永久に逃亡するつもりはない。四、五日、長くても一週間、孝則の前から姿を消せばそれでいいのだ。だからって、どうしてこんなことになっているのだろう。
 どうして知っているの。電車のドアが開いて、少し湿気を含んだ風によって空調を乱されたなかであたしはただそればかりを唱えていた。
「男のカンって奴だよ」
 あたしの思考を読んだかのように、久史は静かに言った。
「あれだけ俺たち三人は一緒にいたんだ。そのくらい分かるよ。俺に敵意が向いていたことくらいね」
「敵意?」
「そ。大事な妹を奪われまいとね。奪ったけど」
 あどけなく笑う久史を見ても、あたしは笑えない。
 そんな昔から孝則は、常識はずれの想いを持っていたというのか。あたしなんかのために?そんなこと馬鹿げている。
 あたしは返事もできずに、再び整いだしたリズムに耳を傾けた。人生はこんな風にうまくいかない。いつだって心臓の鼓動は乱れっぱなしで、今でさえ孝則のことが頭を離れない。
「由希、なんで急に黙るんだ?」
 三十分近くの沈黙を破って、久史が言った。
「・・・何も返す言葉がないからよ」
「やっぱり、おまえもタカ兄のこと知っていた?」
「・・・というか」
 そこまで言って、あたしは自分が言おうとしていたことがいかに不道徳的であるかということに気付き、口を閉ざした。
 好きだって、言われた。だけど、言わせたのは、あたし。
 きっとあの時、湖で追求しなければ、孝則は一生言わなかっただろうと思う。孝則はそういう人間だ。その後だって、決して自分の思いをぶつけたりなんかしないし、彼を受け入れることができないあたしでさえ受け入れてくれた。
 本当のあたしは、孝則が思うような女じゃないし、そんなに純粋でもない。再会したときの孝則の優しさには驚いたけれど、そのぬるま湯のような居心地のよさにあたしはその優しさをいつしか自分の物のように思い、利用してしまった。いつだってあたしは逃げてばかりだ。
 久史ももうこれ以上何も追及しなかった。あたしたち兄妹の異常さには気づいているのだと思う。出逢ったばかりの加上くんや、それに、孝則の元彼女にも気付かれているのだ、あたしたちのこと両親より知っている久史が、何も知らないはずがない。
 それもひとつの優しさなんだと思った。でも、孝則とはほんのりと違う。こうして会えば、それが手に取るように分かった。久史のそれは、昔のあたしはきっちりと受け止められた。全身全霊で、それらをひとつも逃さないように、大切に出来た。だけど、孝則からもらう優しさは不安定で、心地よいくせにどこか怖い。だからいつもあたしは、指と指の間から取り零してしまうのだ。穴の開いたビニール袋から液体が零れ落ちるかのように。


 電車から降りると、ムンとした空気が漂ってきた。蒸し暑くてあたしは顔をしかめる。ここが、久史が暮らす街。
「おまえ、もうホテルの予約したのか?」
「ううん、これからするつもり」
 今まで貯めていたバイト代や幼い頃からのお年玉を全部財布に入れてきた。お金を貯めていつか孝則の家を出る、なんて宣言したことあったけれど、今はそんな気になれない。それがいいことだとは思わない。だけど、どんなに気まずくたって、逃げていたって、あたしは孝則から離れることを想像するだけで息苦しくなる。
「ならさ、俺ん家来る?」
 先ほどとあまり変わらない唐突さと科白の内容に、あたしは同じように驚くのだから本当に嫌になる。
「二度も同じこと言わせる気?」
「じゃなくて、ホテル代もったいねえじゃん。それに、期待しているところ悪いけれど、俺はもうおまえを抱けないよ」
 期待なんかしていないけれど。久史があまりにも神妙に言うせいで、怒る気も失せた。あたしももう、久史に触れたいとは思わない。確かに好きだったのに、三ヶ月前までは好きで好きで、離れていくのが苦しくて、だから孝則の家に逃げたというのに。
「・・・じゃあ、なんでさっき、俺んとこ来るかって、聞いたの」
「それは・・・、タカ兄が・・・」
 あたしの質問に、久史は言いにくそうにした。駅内を歩く速さが増し、あたしは久史よりも短い足をパタパタと鳴らす。
「タカ兄がおまえのこと好きで・・・、おまえだって」
 唾をごくりと飲み込んだ。何を、何を言い出すのだろうか。あたしは必死になって、久史の半袖の裾を掴んだ。
「ホテル代、もったいないから、久史ん家いくから、あたし」
 科白の続きなんて言わせない。あたしの声が高く駅の構内に響き、人々の中に溶けて消えた。
 景色が涙で滲む。
 久史はうなずき、あたしが恐れることはもう言わなかった。


       
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