好きなの? 遥さんのこと。その言葉がずっと鼓膜の近くで鳴っている。
あの夕方、早足で帰る俺を、遥は息を切らしながら必死に追いかけてきた。 「知樹・・・、待ってよ、知樹・・・!」 パンプスの音が静かな夕方の住宅街に響く。俺は一度大きくため息をついた後、振り返った。 「・・・何?」 「何って・・・、どうして先に行っちゃうの?」 やっと俺に追いついた遥は、泣きそうな顔で俺を見上げた。それを間近で見ただけでやりきれなくなる。 「・・・ごめん」 言葉を失って、俺は歩く速度を落として、遥と並んでアパートに向かった。その間、二人は話すこともなく、気まずい沈黙を作っていた。
部屋に着いて、電気をつける。遥はソファに座って借りてきたDVDを眺めていた。 「遥、夕飯何食う?」 「あ、私が作るよ・・・、今日は知樹のほうが遅かったんだし」 「・・・結局一緒になってしまったけれどな」 俺が苦笑すると、遥も釣られたようにほんの少し笑って見せた。昨日まで一緒に暮らしていることに不自然を感じさせないほどに楽しい毎日を過ごしていたのに、それがまるで夢だったかのように今は重たい空気が流れてしまっている。それもそうだ、あんな修羅場に居合わせてしまったのだから。 だけど、それで関係が崩れるって一体何故だ? 俺たちは恋人でもなんでもない、別に遥が男と何をしていようと、俺がどの女と会っていようと関係ないはずだ。それでも、少なくとも俺はどうも面白くない。 久しぶりに遥が鳴らす包丁の音に耳を傾けながら、ただ悶々と考えていた。それでも答えは導けない。 遥は野菜炒めを作ってくれた。それを食べながら、ついに聞いてしまった。 「あの人、遥の先輩って本当?」 「本当よ」 俺の疑いに遥は柔らかい口調で穏やかに笑った。 「私、高校の頃からあのファミレスで働いているんだけどね、そのときからいた大先輩。今はもう従業員だしね」 「ふうん・・・」 「それより、あの子・・・・・・」 ・・・知樹の先輩なんでしょ? とか、知樹の彼女じゃないよね? とか、俺は少し傲慢な科白を予想したが、簡単に裏切られてしまった。遥の言葉の続きはこうだった。 「・・・本当に、孝則の妹、なのかな」 「え?」 俺は当然その言葉に驚いて、遥をただ呆然と見つめた。遥はいたって真面目に俺を見ていた。その真面目さが奇妙で、俺はただ笑うしかなかった。 「何言ってんだよ。大芝さんはお兄さんと暮らしているんだって俺に言っていたよ?」 「・・・そう。だけど・・・」 何かを言いたそうに遥は俺を見るけれど、諦めたのかその後黙々と箸を動かした。 伏せた長い睫毛、白い肌、今日はいつもよりも表情が豊かではない分、不健康に見えた。本当は分かっている。今すぐにでもその細い身体を抱きしめて、他の男のことなんて考えて欲しくない、その気持ちが独占欲に満ちていることくらい、気付いている。 でもどうしようもなかった。その夜、俺たちは別々に眠った。久しぶりに感じるソファの硬さに、俺は何度も足掻いた。
その翌日、大芝さんからの衝撃的な言葉を受けて、ショックを受けたのは言うまでもない。 遥があの孝則という男と昔付き合っていただと? 昨夜、遥はそんなこと一言も言っていなかったではないか。無性に腹が立った。バイト中も、ずっと上の空だった。ミスをするような過ちはなかったにしろ。 夕方、バイトの高校生たちと入れ違うように俺はファーストフードを後にし、早足で帰った。 「ただいまっ!」 前のりになりそうになりながらも靴を脱ぐ。部屋の電気がついていたのは確認済みだ。 「おかえりなさい」 玄関のすぐ前にあるキッチンで、遥は微笑んだ。その笑顔を見るだけで俺は苛立った。 「・・・知樹? どうかした?」 さすがに俺の異変に気付いたのか、遥は心配そうに眉を寄せて俺の顔を覗き込んだ。俺の肩が震える。何故そんなに無防備に近づくのだ。俺の額に触れようとする遥の手を思いきり振り払った。 「・・・触るな!!」 狭いキッチンで響いた俺の声。遥を畏縮させるには充分な声だった。手を振り払ったパチンという音と共に、静けさが待ち構えている。 「・・・・・・・・・・・・」 遥は涙ぐんだ目で俺を見上げた。俺は、遥の手に触れた右手を強く握った。・・・そうじゃない、こういうことがしたかったわけじゃない。でもなんだかイライラしていたのだ。今になって、冷静が押し寄せて、どっと後悔してしまう。 それでも、俺の中にはもう一人の俺がいる。今すぐにでも遥を自分のものにして、めちゃくちゃにしてやりたいという途方もなく汚れた願望。それこそ遥を裏切る行為になるというのに。 「・・・・・・なさい」 先に沈黙を破ったのは、遥の震えた声だった。 「ごめんなさい・・・、私・・・、何かしたかな・・・」 口許に手を当てて、目を見開いて、泣くまいと必死に堪えている、その姿はとても痛々しくて俺は遥から目を逸らした。 「・・・違う。ごめん、俺が悪かった・・・」 「知樹はいつもそうだよ。自分から折れて・・・、私の話を聞いてくれるばっかりで、知樹は何を思っているかなんて、いつも話してくれないじゃない」 遥の言葉に俺は驚いた。自分のことなのに、指摘するまで気付かなかった。何も言えずに遥を見つめていると、遥の目からついに熱い涙が一滴零れ落ちた。 「ああ・・・、こんなだから、駄目なのかな私・・・」 「いや、違うから、本当に、俺が・・・」 そこまで言いかけて口を閉ざした俺を、遥は泣きながらも強い眼差しで俺を見た。 「・・・知樹が、何?」 強い口調だった。ここではなんだし、と、料理途中の遥の手を握って、俺はリビングに入った。遥に続いてソファに座る。二人用だけど、俺も遥も華奢なのか、充分余裕があった。 「ねえ、知樹。何を言いたかったの?」 「あ、あのさ・・・」 頭が混乱する。色々なことがありすぎて。お互いこうして見つめ合って真剣に話をしたのはいつ以来だろう。ああ、そうだ。俺がこの家を出て行こうとしたとき以来だった。あれからずっと二ヵ月も平和に過ごしてきたのだと思うと、それこそ奇跡だった。 「昨日の男・・・大芝さんの兄貴と、付き合っていたって、聞いたから・・・。すごいイラついてしまって・・・」 俺が、言葉をつなぐようにゆっくりと話すと、遥は首をかしげた。分からない、とでも言うように。更に腹が立ったが、俺はぐっと堪えて、その代わりにもうひとつの言葉を投げた。 「なんで昨日、言わなかったんだ?」 俺が訊くと、遥は不思議そうに顔を歪めた。 「なんでって・・・、そんな昔のことを今更持ち出しても仕方ないじゃない。今は関係ないもの」 冷めた口調だった。さっき泣いていた女と同一人物とは思えないほどの、冷酷な表情だった。俺は多少ぞっとしたけれど、それでもこの話題をやめるつもりはなかった。このままではいつまで立っても煮えきれない。 「あの男のこと、好きか?」 「・・・昔は好きだった。あの人がいなくなったら生きていけないんじゃないかって思うほどにね。でもあの人に捨てられても私は生きていられるの。なぜだか分かる?」 話の主旨が変わってしまったようだ。俺はうんざりしながらも首を横に振った。そんな話はどうでもいい。昔の男を好きだという遥なんか知らない。いらない。聞きたくない。 すると、遥の口からとんでもない言葉が飛び出したのだ。 「あのね、知樹と・・・寝た夜にね、私、孝則が女と歩いているところを見ちゃって、その女は確かにあの妹だったの」 飛躍の繰り返しがどこまで続くのか。兄妹が並んで歩いていたって別におかしくないじゃないか。すると、遥は俺の手を掴み、訴えるように俺を見た。 「どう見ても兄妹なんかに見えなかった。孝則はずっと好きな人がいるって言っていたの。あの子が私が付き合っている頃から好きだった女なんだって思ったの、そういう雰囲気だったの。・・・私の言っていること、分かる?」 「・・・・・・少しは」 本当は嘘だった。これっぽっちも分からない。でも俺は肯定する以外方法が見つからなかった。遥の潤った瞳に抗えなかったのだ。 遥もきっと混乱しているに違いない。もしかしたら、遥が一番自分の言っていることを理解していないのかもしれない。俺は頭の端でそんなことを考えていた。遥は一度大きく深呼吸をして、再び俺を見た。握られた左手が汗ばんでいる。でも不思議と嫌ではなかった。 「・・・今でもあの夜のことは思い出せないけれど、私は後悔していないよ。それだけで、私は、救われるの」 遥と暮らしていく上で、あの夜の話題はタブーだった。 あの夜・・・、遥が酔って帰ってきて、俺の顔を見るたび泣き出した。それはもう、子供がおもちゃを取り上げられたような泣き方で、その慟哭さと言ったら酷かった。俺はただ抱きしめて静める方法しか思いつかなかった。遥の目は虚ろで、今にでも消えてしまいそうな白い顔をしていた。それでもどうにかこの現実に居合わせようと、遥は俺の背中から手を離さず、そして一言。抱いて、と。絶対本人には言えない事実を、俺はぼんやり思い出す。 今でも心を痛めるであろうその話を、何故今になってし出すのか。すると、俺の考えを読んだかのように、遥は俺を見てふっと笑った。 「あの日、私は孝則を見て絶望を覚えた。だけど、知樹がいたから救われたの。知樹がいたから、私は孝則に振られても毎日を過ごせた。・・・分かる?」 「分からないよ」 俺は言い放つ。 「結局、何が言いたいんだ?」 「私も分からない」 かぶりを振って、遥は息をつく。俺もあわせてため息を吐いた。 「でも、知樹に抱かれたっていう事実が、私の糧になっているの。ねえ、これって何かな」 そんなの俺が聞きたい。正直、俺の遥に対する気持ちだって分からないのだ。それより複雑な遥の心なんて理解できるものか。これこそが噂のオンナゴコロなのだろうか。 繋がれた遥の手から緊張が伝わってくる。どうしてこんな話になってしまったのだろう。遥の昔の男の話からこんな、俺たちの曖昧な関係にまで話が発展してしまうなんて。 それでも、話の時間軸が今になり、遥の視線が俺に向けられただけで、俺はひどく安心してしまった。 遥の瞳から再び涙が溢れ、熱い液体が俺の手に落ちた。どうして泣いているのだろう。どうして俺は分かってあげられないのだろう。先ほどと違う感情に包まれる。俺は震える右手を差し出して、遥の頭に触れ、それを俺の胸に当てた。くっついたそこから遥の息遣いを感じた。 「知樹の心臓の音が聞こえる・・・・・・」 こんなときに何を言っているのだろう。俺は苦笑しながらも、うん、とうなずいた。 「当たり前だよ、生きているんだから」 「うん、そうだよね・・・」 遥は鼻をすすり、少し笑ったようだった。 「知樹に抱きしめられるの、好き」 「うん?」 「すっごく安心するの。こういうのって、何なのかな。おかしいよね、付き合っているわけじゃないのに」 俺は遥の頭を撫でながら、瞳を閉じる。確かにおかしい。だけど、とても自然のことのようにも思っていた。何も答えられずにいると、遥はつぶやいた。 「これが恋だったらよかったのに・・・・・・」 その言葉を聞いた瞬間、俺の鼓動は高まった。何を言い出すのだ。そんなことは言わないで欲しい。今になって気付いた想いがあった。いや、本当はずっと前から分かっていたことだった。敢えて認めなかっただけで。 「遥、あの男のことがまだ好きなのか?」 「・・・分からない。でも前ほどじゃないよ、きっと。だって知樹がいてくれるもん」 少し甘い声。惑わされてしまう。そんな、そんな期待させるようなことを言われると俺は。 「・・・じゃあ、俺のものになれよ」 暴走が止まらなくなる。
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