そんな馬鹿な。愚か者のあたしが真っ先に思った言葉。 「由希・・・、そちらのお客さんは、誰」 一瞬にして固まった四人の間で、最初に口を開いたのが孝則だった。冷たく無機質な声に背筋が寒くなる。自分だって女を連れ込んでいるくせに。 「えっと・・・、加上くん・・・、同じバイト先の後輩、DVDを貸そうと思って」 「DVD・・・?」 なんとあたしの科白に反応したのは、孝則の隣で呆然と立っていた名も知らない女だった。そういえばこの人、加上くんを知っているみたいだった。彼がこのリビングに入った瞬間、「知樹」って呼んでいた。 「それって、スターウォーズの・・・?」 「・・・あなた、誰ですか? ここはあたしたちの家です」 何故それを知っているのかと思いながらもあたしが冷たく答えると、女は途端に泣きそうになってその場を繕うように口を震わせた。 「あ、ごめんなさい、私・・・」 「由希、彼女は榎木遥さん。俺と同じ職場の後輩だよ。それにここは俺の家だろ?」 怒っている表情で、静かに孝則は言った。あたしの隣にいる加上くんを意識しているのが分かる。「俺の家に男を連れ込むな」と言いたいのだろうか。 「ごめん、遥、彼女は俺の妹の、由希だ」 「・・・妹?」 孝則に遥と親しげに呼ばれた彼女は、目を見開いてあたしを見た。 「あ・・・、そうなんだ・・・、孝則に妹さん・・・・・・いたんだ・・・」 今まで妹の存在を知らなかったのか、放心したように彼女はため息をつく。それは安堵のため息なのかどうか分からないけれど、もっと孝則から離れて欲しい。あたしは彼女がただの後輩ではないことを気配で察知していた。 あたしは彼女の顔を見たくなくて、逃げるように寝室に行って、自分の荷物の中からDVDを取り出し、リビングに戻って加上くんに手渡した。 「あ・・・、すみません」 「いいよ、別に」 重い雰囲気の中でけだるくあたしは答える。なぜこんなに空気が暗いのだろう。なぜ誰一人何も言わないのだろう。特に、榎木遥と加上くんはお互い目を合わせようともしていない。 「じゃあ、俺、帰ります」 覚悟を決めたように加上くんは言って、孝則に会釈をしてリビングを出た。 「・・・私も帰るね、孝則。じゃあ、ええと、由希さん? 急に押しかけてごめんなさい。私、これで失礼します」 あたしを恐れていることをばれないように笑顔を作って、彼女も加上くんの後を追った。それすら腹が立った。あたしとたいして歳も変わらなさそうなのに、孝則と対等の位置にいる彼女を許せないと思ってしまった。その余裕な笑顔が特に。 結局、加上くんと彼女の関係を聞き出せないまま終わってしまった。でもきっと、昼間に加上くんがメールしていたのは彼女だと悟った。 二人が玄関のドアの音をたてて帰ったあとも、リビングは重い空気に包まれたままだった。お互い異性の人間をこの家に連れ込んでしまったのだ。 あたしを好きだという孝則と、それを黙認しているあたし。 「さっきの、誰」 お互いどうすればいいのか分からなくて、あたしは先日買い換えたソファーベッドに座り、孝則が突っ立ったままでいたとき、相変わらずな声色で孝則が沈黙を破った。 「・・・だから、同じバイト先の後輩だってば」 「それにしては若すぎないか?」 「知らないよ、そんなこと! 孝則だって女連れ込んで、馬鹿みたい。あたしが帰らなかったら何するつもりだったの」 「何だよソレ・・・、おまえヤらしい想像するなよ」 「自分がヤらしいんじゃん!」 売り言葉に買い言葉というのだろうか、なんだかとても腹が立って、言い返さなきゃ気が済まなかった。 「別に、俺は遥とそういう関係じゃねえよ」 「嘘ばっかり。すっごく親しく見えたけれど?」 「そりゃ、昔は付き合っていたけれどな」 「・・・・・・・・・・・・・」 一瞬、孝則の言葉の意味が分からなくて、何度か頭の中で反芻してみた。付き合っていた? まさかそんな。言ってはいけない言葉が口から飛び出そうになってしまった。 今あたしが何を言っても、結局は最後に孝則が発する言葉が決まってしまいそうで怖かった。その科白を聞くのは嫌ではないけれど、少しでも嬉しく感じてしまう自分が恐怖だったから。 「だいたいさ、おまえなんでそんなに機嫌悪いのか?」 孝則は嘆息しながら言うけれど、それはこっちの科白だった。でもそれを言うと、やはり同じゴールに辿りついてしまう。 孝則のほうこそどうして機嫌悪いのよ? その答えはあたし自身分かっていた。なのに、自分がイライラしている理由が分からなかった。孝則のことは分かるのに自分のことは分からないなんて。 「遥さんだっけ? 綺麗な人だね」 「そうか?」 話題を変えようと試みたけれど、根本的のところでは繋がっていて、再び気まずくなってしまう。 どうしよう。胸が悲鳴をあげているようだった。痛くてあたしは胸を押さえる。無駄な感情が溢れそうで、必死に抑える。その場にいてもたってもいられなくなり、あたしは立ち上がって寝室に向かった。 「由希、晩飯は?」 「いらない!」 叫んでドアを閉めて、ベッドの中に潜り込む。どうしてこんなにイライラしてしまうんだろう。昔の女? ふざけないでほしい。 悪い夢であるようにあたしは目を閉じた。メイクを落としていないことに気付いたけれど、この際どうでもよかった。
翌日、朝一番に加上くんと顔を合わせてしまった。 「お、おはよう」 「・・・おはようございます」 加上くんはあたしの顔を見ないようにつぶやく。 「昨日は、ありがとうございました」 「うん、彼女は喜んだの?」 「いや、だから、彼女じゃないし・・・」 下を向いたままかぶりを振られると感じが悪い。朝という時間帯も伴って機嫌の悪いあたしは、ついに言ってしまった。 「そう。遥さん、あたしの兄と付き合っていたんだって。知っていた?」 「えっ!」 過剰に反応する加上くんにあたしこそ驚いた。思ったよりも食いつきが早かった。今日初めて交わした加上くんの瞳は不安定な色で揺らいでいた。あたしはその瞳をじっと見つめた。幼さを表す丸くて黒目の大きな目だった。 「・・・好きなの?」 あたしが静かに訪ねると、彼は息を呑んだ。 「・・・何が?」 「遥さんのこと」 「・・・そんなんじゃない」 そう言って、彼は再び視線を床に落とした。特に怒るわけでも悲しむわけでもない声だった。 あたしは時計を見た。まだ職場に出るには時間がある。好奇心というわけではない。触れては駄目なことかもしれない。それでも聞きたかった。 「遥さんと、どういう関係?」 彼は特に何の反応を示さないまま、下を向いたままだ。 「・・・知ってどうするつもりだ?」 丁寧語ではない言葉を初めて聞いた。それほど精神的に余裕がないということか。 「別に。ただ知りたいだけ。気になるから」 「・・・遥は、あんた達兄妹を、本物かどうか気にしていたけれどね」 彼は歪んだ笑みを見せた。あたしは生唾を飲み込む。彼女は一体何を見たのだろう。確かに孝則とあたしの外見はあまり似ていないけれど。動揺する心を抑えて、あたしは加上くんを睨んだ。 「そんなことより質問に答えて」 「・・・そんな期待に沿えるような関係じゃないですよ。ただ一緒に住んでいるだけ」 「一緒に? 実は従姉弟とか?」 「他人ですけれど」 あたしは眉をひそめた。こんな訳の分からない関係があってもいいのだろうか。孝則のことも謎だけど、それ以上に加上くんは理解できなかった。そして、榎木遥という人間も。 孝則と別れたのがいつなのか知らないけれど、今はこんな美少年と一緒に住んでいて、それでも昨日みたいに孝則と二人で会ったりしているわけだ。更にムカムカが増加して、あたしは加上くんに背を向けた。 「大芝さん?」 「ごめん、いろいろ聞いて悪かったね。もうすぐ時間だし、着替えてくる」 廊下に出て従業員室のドアを閉めて、ため息をついた。 この胸にある気持ちはなんだろう。とても居心地が悪く感じて、涙が出そうになってしまった。 仕事が終わったらまた孝則の家に帰って、今日こそはちゃんと孝則の顔を見られるだろうか。嘘つき、と思う自分が憎い。あたしを好きだと言ったくせに。 孝則を汚いと思いつつ、何よりもそんな気持ちを抱く自分自身が汚らわしくていかがわしいと思った。 窓の外を見ると、見事な五月晴れだった。いつになったらあたし達はあの青空の下に歩いて行けるのだろう。
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