2 軽量だから大丈夫


 残酷で愛しいものがあった。


 五月半ばの快晴の日、あたしにある出会いがやって来た。
「大芝さん、彼、今日からバイトで入った子だから、いろいろ教えてやって」
「えっ」
 制服に着替えたばかりのあたしは店長の隣にいる華奢な男の子を見た。こんな朝からバイトだというのだからあたしと同じフリーターだろうけれど・・・、あたしより若く見えた。
「加上(かがみ)知樹です、よろしくお願いします」
 制服がまだしっくり来ない彼は、そう言って微笑んだ。女に慣れているような顔つきだった。
「あ、よろしく・・・、大芝由希です。あたしも三月に入ったばかりだから分からないことたくさんあるけれど、出来る限り協力するから、頑張ろうね」
「はい」
 そう言って、彼はあたしから離れて店長の後をついていった。あたしはその姿を眺める。あたしと同い年なんて思えない、ましてや年上なんてもってもほかだ。
「加上くんって何歳?」
 仕事を教える途中で何気なく聞くと、彼の顔が引きつった。
「・・・十八です」
「へえ、あたしと同じだ。高校どこ?」
「・・・S高」
「・・・・・・・・・ふうん」
 嘘だと分かってしまった。あたしは正真正銘S高出身だ。一学年六クラスある学校で特にマンモス校というわけではない。でもあたしは彼の顔も見たことがなければ名前を聞いたこともない。これだけ整った顔であれば騒ぐ女子がいてもおかしくないはずだ。それに、もし万一あたしが見逃したとしていても、この彼の動揺ぶりはあたしを確信させていた。
 彼は歳さえもごまかしていると。でももうあたしはその話題には触れなかった。聞いてはならないような雰囲気が漂っていたのだ。
 久史とはずいぶん違うタイプだな。自らそう思って、久史のことをすでに思い出として対処できている自分に驚いた。


 あたしと久史が付き合い始めたのも、もちろんお互いそれなりに好きだったというのもあるけれど、孝則が原因だったような気もする。
 あたしの高校入学と同時に孝則は家を出て行った。孝則はずっとあたしを避けているように見えたし、その結果家を出て行くのだというのだから、あたしなりに寂しかった。
 昔は仲良く遊んだのに、いつの間に兄妹の間に溝が出来てしまったのだろう。兄を持つ他の友達は最近になってお兄ちゃんと仲良くなったんだ、などと話しているというのに、あたしたち兄妹は疎遠になってしまった。その理由すら分からなかった。
 特に何の言葉を交わすこともなく、孝則は家からいなくなった。あたしが沈んでいると、いつも久史が声をかけてくれた。元気か? ちゃんと飯食ってんのか? 一緒に学校行こうぜ。
 そのひとつひとつの久史の言葉がくすぐったくて心地よくて、普段ならばからかったりふざけたりすることしか能のない久史が優しくしてくれるとドキドキした。
『おまえもブラコン卒業したら?』
 当時の久史の口癖だった。別にあたしはブラコンのつもりではなかったけれど、久史はよくそう言った。あたしをからかっていただけかもしれないけれど。
 そんな調子で二人でいる時間が増えて、付き合い始めた。あたしの初恋は久史だった。久史もあたしのことを好きだと言ってくれて嬉しかった。ここには孝則はいなけれど、これからは二人でゆっくりと流れる時間の中で過ごしていくのだと、信じて疑わなかった。
 なのに、時間はものすごいスピードで流れ、高校卒業前にその日はやって来た。
『俺、九州のほうの大学に行くから』
 久しぶりに二人で会った日、久史は言った。あたしの目をしっかりと見ていた。
『九州・・・、ずいぶん遠いところだね・・・』
『本当は家から通えるところにしたかったんだけど・・・、センターが危なくてさ』
 大学進学を選ばなかったあたしは、久史がどれほどの志で大学に行こうとしているのが理解しきれなかったけれど、どんなに就職活動してもどこにも受け入れてもらえず、何社も何社もまわり、くたびれてしまったあたしと少し似ていた。
『由希、おまえはこれからどうするんだ?』
『・・・どうするって、そんなこと聞くの? 就職も決まらなかったあたしに、それを聞くのって残酷じゃない?』
 あたしが責めるような口調で言うと、久史はうつむいた。
『ごめん、そういうつもりじゃないんだ。ただ・・・、一緒に九州に行かないか?』
『・・・・・・・・・・・・』
 久史の言葉を聞いて、あたしは口を閉ざした。
 もし久史と一緒に行ったとしても、大学で充実した日々を送る久史を、あたしはフリーターをしながらも家でその久史の帰りを待たなければならないのか?必死に夢を追いかけている久史に嫉妬もせずに、あたしは将来のことも分からないまま久史の傍で生きていけるのか?一瞬にしてたくさんの思考が頭の中を巡った。
『・・・行かない』
 あたしははっきりと短く答えた。予想外の答えだったのか、久史は目を見開いた。
『じゃあ、どうするんだよ俺たち』
『どうするって・・・』
『遠距離になるんだぞ?』
『うん・・・・・・』
 あたしは曖昧に返事をする。遠距離恋愛なんて、出来るのかな。次にまた違う不安に襲われる。やっぱり久史について行ったほうがいいのだろうか。でも、それはどうしても出来なかった。あたしの中に小さなプライドがあった。
『由希、もう終わりにしようか』
『え・・・・・・?』
 突然の科白にあたしは顔をあげた。久史は悲しそうに目を細めた。
『悪いけれど、遠距離でも由希を思い続けるほど、俺は強くないよ』
 それだけあたしへの想いが薄いんじゃない? 昔のあたしだったらそう言えた。でもずっと昔から一緒にいて、三年間も同じ気持ちを共有してきたのだ、久史にもそれなりの寂しさや想いがあるとあたしは分かっていた。それに、あたしも久史を責められなかった。一緒に九州に行くことを拒んだうえ、やはり遠距離でも久史だけを待っていられるかどうか、あたしも不安でいっぱいだったのだ。
 残酷に思えるただひとつの真実。
『あたしも、強くない。久史のこと好きだよ、でも、ずっと一緒にいたのに離れるなんて耐えられない』
『ごめん、由希』
 久史はゆっくりとあたしを抱きしめた。不思議と涙が出なかった。ただ今は最後になるであろう久史の温もりに身を預けようと思っていた。
 こうしてあたしたちは別れた。それから一度も会うこともなく卒業式を迎え、式が終わった後、部屋で高校時代に使った教科書やノートや制服などを整理していたとき。
 涙が出た。
 この部屋にはまだ久史の影が住み着いているようだった。放課後や学校が休みの日は、あたしの部屋か久史の部屋でふたりでゆっくりと時間を過ごした。一緒に音楽を聞いたり、テレビを見たり、抱き合ったり、一緒にいる時間が長すぎた。
 時間が解決してくれるという言葉を聞いたことがあるけれど、そんなの待っていられないと思った。久史と付き合ってからずっと薄くなっていた兄の存在を思い出した。あたしは弾けたように荷造りを始めた。こんな部屋で、家でこれからも平穏に過ごせるわけがない。とにかく逃げ出したかった。
 この家よりも孝則の家のほうがバイトを見つけやすいし通いやすい。そう説得すると、親は特に反対することもなく、あたしが孝則の家に行くことを許してくれた。
 翌日あたしは行動を実行に移した。
 久しぶりに会った孝則は相変わらず無愛想であたしに冷たくて、でもどことなく儚く見えた。そして、優しかった。その優しさは、久史があたしにしてくれたものと少し似ていた。
 孝則があたしを好きだという異常さに気付いても、孝則の家から出て行かない理由があった。もし兄妹じゃなかったら。あたしもそう思ったことが幾度かあった。それでも、孝則への思いは重くはない。
 優しさがあたしの心へ浸透しようとも。


       
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