10 解釈の違い


 熱にうなされていた。


「孝則ってあたしのことが好きだよね」
 予感が的中した。由希の瞳は物語っていた。もう確信していた。今更言い訳を並べても仕方ないと思った。
 俺はうなずきもしないまま、由希をただじっと見つめる。すると、由希の眼力が急に弱まったようだった。
「・・・・・・・・・・・・馬鹿みたい」
 流れていた涙をぬぐって由希はつぶやく。
「兄妹で何やっているのあたしたち、馬鹿みたいだよ」
「・・・うん」
 俺は天を仰ぐように空を見た。責められることには慣れている。だけど・・・、由希の言葉に心がずんと重くなる。それこそ馬鹿みたいだ。
 あれほど後ろめたさや恐怖を感じていたくせに、いざバレてみると俺の心中は意外なほど穏やかだった。十年分の想いはそれほどまでに大きくなっていて、もう俺一人では抱え込むのも限界だったのだと知る。


 その日、由希は実家に帰ると言い出し、俺は湖から実家に向かった。俺たちが住むマンションから車で二十分の場所に実家がある。
「お父さんは仕事でいないと思うけれど、お母さんにだけでも会っていけば?」
 実家の前に着き、助手席から降りようとする由希は俺の顔を見ずに言った。
「こんな親不孝の俺が会ってどうするんだ?」
 俺が低い声で言うと、由希の顔はこわばった。そのまま何も言わずに車から降り、家の中へ入っていった。


 帰った部屋はがらんと静まり返っていた。朝までいた空間と同じはずなのに異質なものに思えた。
 由希。
 一緒に過ごした時間は一ヶ月。長かったのか短かったのか自分でもよく分からない。でも由希とはもっと昔から二人でいたような気がするし、ずっと続くと思っていた。俺の罪を彼女に知らせるつもりはなかった。
 由希。
 心の中で何度も叫んだ。
 微笑んでくれた気がして夢中で手を伸ばすと、由希が消えた。夢だった。


 少し寝て、身体がだいぶ楽になった。今朝は三十九度を越える熱があり、仕事を休んでしまったけれど、もう熱も今朝ほどないだろう。
 俺はゆっくりと起き上がる。ふと、ベッドの傍に置かれてあるビニール袋を見つけた。
「何だ?これ・・・」
 今朝までこんなものはなかったはずだ。俺は目覚まし時計を見た。現在午後七時八分。
 もしかすると、誰か来たのか? 袋の中は、俺が風邪のときに好む飲食物ばかり入っていた。
 一体誰が? 遥はもう合鍵を持っていない。
 鼓動の音が全身に響く。まだ完治していない身体にとって少しつらい。だけどみじめな期待をしてしまう。俺は鍵がかかっていないドアに気付くこともなく、玄関を出て車に飛び乗った。


 昨日はどんな気持ちでこの家を見たのか、今は思い出せない。ただ由希の背中を呆然と見送っただけのような気もする。
 実家のチャイムを、俺は数年ぶりに押した。はあい、とスリッパの足音と同時に聞こえる声。俺が家を出てからの三年の間に電話で話したことはあっても、その声を生で聞いたのは本当に久しぶりだった。
 ガチャリ、とドアが開く。
「あら・・・、孝則・・・」
 驚愕しながらも由希とよく似た表情で微笑む、以前より少しだけ老けた顔。
「急にごめんね、母さん」
 俺が申し訳なく言うと、母は懐かしそうに目を細めた。


 リビングは昔と何一つ変わっていなくて、俺の心を和めた。
「・・・由希は?」
 声を潜めて言うと、かすれて俺は咳払いをしてしまった。母はコーヒーを淹れながら俺に顔を向ける。
「ずっと部屋にこもっているのよ。何があったのか話してもくれないわ。あなたたち、喧嘩でもしたの?」
「・・・・・・・・・まあ、そんなところ」
 由希と話せないのなら何のためにここに来たのか分からない。
 由希。
 俺は二階につながる階段に目を向けた。
「ちょっと俺、由希の部屋に行ってくるよ」
 優しくうなずく母を確認してから、俺は階段をのぼった。


 慣れた足取りで廊下を歩き、由希の部屋の前に立った。震える手でノックをする。
「由希」
 呼ぶと、ドアの向こうで何かが動いた気配がした。
「帰ろう、由希」
 俺は両手を強く握り締めて必死に言った。
 返事はない。それでもこのまま終わるわけにはいかない。
「ごめん・・・、俺はこんなだけど、由希を傷つけないし、絶対大切に出来るよ。俺は由希の兄貴だったことも、痛いほど分かっている。勝手に俺が・・・、・・・好きになってしまっただけで、おまえを巻き込むつもりはない。ただ、昨日のように由希の話を聞いてやったり、またおまえと過ごしたい。それだけなんだ」
 俺の声はどんどんかすれて言った。また熱が上がっているのかもしれない。
 ドアの向こうには由希がいる。鍵などないので、開けようと思えばすぐに開けられる。でも俺はそうしなかった。
「帰ろう、由希」
 祈るようにつぶやいた。日中陽の当たらない廊下は肌寒い。 好きだと、何度思ったことだろう。痛む心に気付かないふりをして、何度愛しいと感じただろう。
 でも今はそんな想いさえ邪魔に思えてくる。一ヶ月前までは同じ空気を吸うことさえ苦しいと思っていたのに、今は隣にいて欲しいと強く思う。
 再会した後に離れて初めて知った。誰にも許されなくていい。想いが報われなくていい。ただ由希が傍にいるだけで、俺は小さな幸せを見つけることができる。たとえそれが一時期のモラトリアムなのだとしても、俺は願ってやれる。そう、俺は兄として、妹である由希の幸せを。
 心から欲しいという想いは嘘ではない。でも、言葉にしたように由希を巻き込みたくないし、傷つけたくないのだ。その代わりに、俺は由希と繋がっていられる。
 俺の気持ちがこのドアの向こうにどれだけ伝わったか知らない。しかし、ふとドアが勢いよく開いた。
 中から飛び出てきたのは、涙で顔を汚した由希だった。
「窒息するかと思った・・・・・・っ!!」
 嗚咽交じりの消えそうな声で由希は小さく叫び、俺のセーターを強く握って泣いた。
 俺は開きっぱなしのドアの向こうを見た。カーテンで閉め切られた暗い部屋。ああそうか、と俺は遅れて思う。この密閉空間は久史との思い出でいっぱいだから。一番由希が逃げ出したかった場所だったから。俺は静かに由希の頭を撫でた。
 本当はきつくきつく抱きしめたかった。そう出来ないことが悔しかった。だけど俺たちは一生兄妹という絆で結ばれている。鎖のような大切な糸を、俺は離したくない。今はこの想いをそう解釈できるようになっていた。


「夕飯くらい食べていけばいいのに。もうすぐお父さんも帰ってくるわよ?」
 時計は午後七時四十一分を指している。夕食の準備をしながら母はそう言うけれど、俺は断った。
「明日は俺も由希も仕事があるんだ」
 母は残念そうにするけれど、やはり俺は親不孝という負い目から一緒に食事する気にはなれなかった。
 俺たちが車に乗るときも、母はわざわざ外に出て見送ってくれた。
「一度はどうなるかと思ったこともあったけれど」
 運転席の横の開いた窓に顔を寄せて、母はこっそりと言う。
「あなたたち、相変わらず仲がいいのね。昔みたいだわ」
 冗談っぽく笑う母に、俺は曖昧に返事した。
「じゃあ行くから。親父によろしくな」
「たまには二人で帰ってきなさいね」
 最後に母の見送る姿をバックミラー越しに見た。


 エンジン音が響いている。
「今、何を考えている?」
 助手席のほうを見ないで訊ねると、隣で由希は大きくため息をついた。
「後悔してる!」
 涙を流していた数十分前とは打って変わり、由希は仏頂面で言う。
「もう二度と孝則に会わないって思っていたのに、一日も持たなかった。情けないよ! ・・・・・・・・・でも」
 内心ビクビクしながら聞いていると、急に由希の口調が静かになり俺は由希を見た。
「・・・でも、孝則が迎えに来てくれて、少し嬉しい。あたしは同じように孝則を好きにはならないけれど、あたしなりに大切なんだよ? あたしも孝則と暮らしたり、一緒に時間を共有したりできるのが楽しいと思うし、幸せだとも思う。久史のことで辛かったときも、孝則が何も言わずに傍にいてくれたから、これからきっと乗り越えられるんだと思うよ」
 皮肉ではない、由希の本当の言葉と感謝に泣きそうになってしまった。前方からやって来る車のライトが眩しくて、俺は目を凝らす。
 そんな俺を見たのか、再び由希は態度を変えて言った。
「物心ついたときから孝則のこと名前で呼んでいたけれど、これからはお兄ちゃんって呼べばいいんじゃないかなっ」
「・・・・・・・・・由希、それは物悲しい以前に、気味が悪いからやめろよ」
 げっそりと呆れる俺に、由希はいたずらな笑顔を浮かべていた。
 俺の罪を由希は責めない。それどころか隣でまた笑ってくれる。きっとそれだけでは物足りなくなる日が来るだろう。だけどせめて今は、このささやかな幸せを感じていたい。


 その後、俺は自分の勘違いぶりに呆れることとなる。
「孝則ってば、鍵開けっ放しで危ないよ。もっと用心してよ」
 俺が風邪をひいたときに色々買ってきてくれたのは遥だった。こんな関係になっても、以前と同じように優しくしてくれることに、改めて感謝している。
 時間は流れ、ついに四月を迎えた。日本特有の新しい一年が始まろうとしている。俺たちの中でも何かが始まり、何かが変わるのだろうか。
 俺の由希に対する想いは今年も変わらないままなのだろうけれど。
「好きになったら駄目な相手っているのかな」
 ある昼下がり、俺が遥の隣でつぶやくと、遥は真剣な表情で言った。
「どうかな・・・。でも私は今も孝則が好きだよ。駄目って分かっていても好きなときは仕方ないじゃない。これからも私は孝則を好きな気持ちを忘れない。他に大切な人が出来ても、思い出は消せない。恋ってそういうものだと、私は思うんだ」
 そう語る遥の瞳の中には、俺ではない誰かが潜んでいるように見えた。
 遥の言葉で、またひとつ救われた気がした。早く忘れたいと願いながらも、俺は由希を忘れることは一生ないのだと悟った。―――それがきっと恋っていう奴だから。


 同棲生活。一緒に暮らして、初めて気付くことがある。初めて感じる想いがある。
 傍から見れば何の変哲もない生活の一端に過ぎないのかもしれない。だけど、俺たちは知っている。
 その生活で、これから手に入れるであろう大切なものが何であるのかを。


第一部 fin.



      

    (第一部あとがき) 
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