孝則が風邪をひいた、と聞いた。 昨日は孝則が休みの日だった。もう春とはいえ、暖かくなったと思えばまた寒くなるような不安定の日々のなかで、風邪をひくのは珍しくもない。 一人暮らしの孝則のために何か持っていこうと私は思った。風邪のときにひとりぼっちなのはとても寂しいことだと知っていたから。 というのは建前で、私は家に帰りたくなかった。
「あと数日したら出て行こうと思う。一ヶ月もありがとな」 二日前の夜、知樹はそう言った。私は数センチ先の知樹の瞳を見つめた。 そんな、まだここにいていいのに。急すぎる。まだココロの準備ができていない。でも・・・そもそもどうして準備をする必要があるのか。ただ元の生活に戻るだけなのだ。 何も言えなかった。何も言い出せなかった。 知樹のことを思うと、これが一番いいんだと自分を納得させるだけで精一杯だった。十五歳の彼には、未来があるのだ。
久しぶりに訪れたマンションのエレベーターに乗り、孝則の部屋までなれた足取りで歩く。夕方という時間のせいで賑やかな外とは違い、マンションの中はしんと静まっていた。 バイト帰りに孝則の好きな物を買い出して来た私は、袋を持っていない手でチャイムを押した。合鍵は当然のことながらもう返してある。数秒たってもドアの向こう側に気配は感じられなかった。 私はため息をついた。もう彼女でもなんでもない私がこのドアの前で立っているなんて変だと分かっている。でも私は孝則のことが心配で、孝則も私のことを大事だと言ってくれている。ただ一番好きではないだけで。 何気なくドアノブに手をかけてみた。 「あ・・・、開いた・・・?」 なんて不用心なのだ、玄関のドアには鍵がかかっていなかった。私は恐る恐る中の様子をうかがってみる。 「お邪魔しまーす・・・。孝則ー?」 見慣れた廊下は静まり返っている。駄目だと思いながらも、私は靴を脱いでリビングに向かった。しかし、リビングには誰もいない。 私はその隣にある寝室に目を向けた。気配で分かった。孝則は寝ている。 そっとドアを開けると、案の定孝則が眠っていた。呼吸をするのが苦しそうだった。私は孝則の額にそっと手を当ててみる。 「熱、高いな・・・」 ―――あの雨の日の光景が脳裏に浮かんだ。あの時と同じ空気に惑わされそうになった。私は慌てて首を横に振り、買い物袋からスポーツドリンクを出して、枕元に置く。 他にも孝則が風邪をひいたら必ず食べたがった物があったが、この状況では起こさないほうがいいと私は判断した。 孝則の寝顔を眺める。それだけで胸が苦しくなる。 「・・・・・・・・・・・・っ」 ふと、孝則の唇が動いた。うなされているのだろうか。 「孝則・・・? どうしたの?」 「・・・・・・由・・・希・・・・・・・・・」 わずかだけどはっきりと聞こえた。愛しそうに誰かを呼んだその声を。 女の名前だと思った。その瞬間、この部屋に孝則以外の誰かの気配が現れた。確かに今ここにいるのは私と孝則だけなのに、この部屋には残されたもう一つの影が消えていないことに私は気付いた。 孝則と手をつないでこのマンションに入っていった彼女を思い出した。私は慌てて立ち上がる。 「帰らなくちゃ・・・・・・っ」 もうこの部屋さえも私を受け入れてはくれないのだ。そんな単純なことにも気付けないなんて私は馬鹿だ。 決して自分とは調和できないその空気から逃げるように、私は鍵のかかっていない玄関を飛び出した。
アパートの前で立ち止まって、自分の部屋の窓の明かりを確認し、安堵してから階段をのぼる。この瞬間がすごく怖い。でも確認しないまま部屋に帰るなんてもっと出来ない。私はこれから毎日のように怯えながら帰路を辿るつもりなのだろうか。 「ただいま」 玄関のすぐ前のキッチンに知樹は立っていた。 「あ、おかえり」 ドキドキする。安心感ゆえに脱力して、立っていられなくなりそうだ。 「知樹・・・・・・、まだ出ていかないよね・・・?」 声を絞り出して言うと、知樹は困ったような顔をする。 「元々この部屋は遥の部屋なんだから、そんなに寂しがっていたら駄目じゃん?」 そう言われたら、もう何も言えない。 色々な感情が混ざる。私はぼんやりと知樹の斜め後ろから、知樹の料理する手を眺める。今日の夕飯はシチューらしい。 「もうすぐで出来上がるから、座って待っていていいよ」 知樹の優しい言葉に泣きそうになった。 出来上がったシチューとサラダがテーブルに運ばれ、私と知樹はソファーの前に並んで座った。シチューからはなめらかに湯気が立っている。 私はうつむいた。これからもこの先ずっとこうしてご飯を作って欲しいと、時代錯誤のプロポーズめいた科白が頭に浮かんだ。 「遥、食べないの?」 私の顔をうかがうように知樹は言ったけれど、私は顔をあげられない。私の頬に熱い涙があふれて流れた。 「遥・・・、なんで泣くの」 静かな声で知樹は訊く。でも私は首を横に振って口を硬く閉ざした。 行かないで。出て行かないで。ずっとここにいて。そんなこと言えるはずもなく、私は下を向いたまま時間が過ぎるのを待つ。 「遥・・・」 知樹の声色が変わった。 「前と同じ・・・、どうして何も言わないんだよ? 俺はどうしていいか分からないよ」 髪を触れられてわたしは顔を赤くした。あの夜のことは未だに思い出せないけれど、体中に熱がこもる。 きっと知樹は私の言いたいことくらい分かっている。でも私たちは固執している。私は孝則がまだ好きで、知樹はこの部屋にいては駄目だと思い込んでいる。 私は孝則に対する気持ちを知樹には抱いていない。でも知樹の存在はこの部屋に浸透していて、大切で必要なのだ。 「・・・・・・・・・ないで」 「何? 聞こえない」 「行かないで」 ついに言ってしまった。涙で汚れた顔を構わず知樹に向けた。 知樹は目を見開いていた。数秒の沈黙のあと、知樹は口を開く。 「・・・言ったじゃん。ここはもともと遥一人の部屋なんだよ?」 「でも私には知樹が必要なの。お願い、ここにいて」 一度堰を切ったように言ってしまうともう言葉はおさまらない。まるで我が儘な子供のように泣く四歳も年上の私に、知樹は嘆息する。 「あのさ、遥・・・。俺が今まで何をしてきたか知っているだろ? 例えばこの思春期の俺が」 急に知樹は私の手首を強く掴み、ソファに私を押し倒した。乱暴に二人分の体重を受け止めたソファは軋んでいる。 「・・・俺が、今後こういうコトをするかもしれないだろ?」 「・・・・・・・・・・・・」 私は特に抵抗することもなく、知樹の顔を下から見上げるように覗き見た。 「知樹はしないよ」 少しばかりのショックで涙は止まったけれど、私ははっきりと言った。 「・・・だから、どこにそんな保障があるんだよ? しかも俺たちは前科持ちだぜ?」 手首にこもる力が強くなるけれど、私は臆さない。 「だって、こういう脅迫は知樹の得意技だもの。私を脅してこの部屋に住み着いて。そしてまた私を怯えさせて出て行くつもりなんでしょ」 「・・・・・・・・・」 今度は知樹が口を閉ざした。手首にかけられた力が途端に緩くなる。そして知樹は私から離れて身体を起こした。 「すげー・・・な」 罰が悪そうに、知樹は整った顔を歪めた。 「俺だって自分のことも分からねぇのに、なんでおまえは分かるんだ?」 「分かるよ。一ヶ月も一緒に暮らしたんだよ」 私は乱れた髪を整えながら言う。 「一緒に暮らすってそういうことだよ。知樹だって、この部屋嫌いじゃないでしょ?」 「・・・・・・・・・好きだよ」 知樹は、今度は乱暴ではなくそっと私を抱きしめた。 「俺ってなんでこんなに信用されてんの?」 「・・・だって、一度も私の嫌がることしなかった。信用してしまうよ」 「・・・・・・それが苦しかったりするんだけど」 「何のこと?」 「いや、なんでもない」 曖昧に答えて、私の頬にキスをする。 「せっかく出て行こうと覚悟を決めていたのに、出て行けなくなるじゃん」 「行かないで」 はっきりと懇願する私を、知樹は再び抱きしめた。 「分かった。行かない。遥が出て行けって言うまでここにいる」
その夜冷めたシチューを食べた後、私たちはひとつのベッドに潜り込んだ。 「なんか、こういうのいいね」 私が枕に頭を静めながら言うと、隣で知樹が笑った。 「そう?」 「うん、なんだか同棲みたいじゃない?」 「・・・考えが甘いよ。同棲ってのは・・・」 不意打ちで、知樹は私の唇に口付ける。 「・・・こういうコトをしたりするんじゃねえか?」 「そ、そうかな・・・」 顔が赤くなるのが自分でも分かる。胸がドキドキする。私は唇を押さえて、高鳴る心臓に気付かないふりをして言う。 「おそろいのパジャマを着て、一緒にこうやって眠ったりできればいいよ」 「何ソレ、ただの新婚じゃん」 そんなくだらなくて穏やかな会話をしながら眠りに就く。 世の中から見た私たちの関係はとても奇妙なものだろう。もしかすれば私は犯罪者なのかもしれない。 だけど、それでもいい。私たちは必要としあっている限り、この日々を求めていくのだ。そして、この生活は、日々に新しい何かをもたらしてくれるだろう。
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