ファミレスで働く俺は必ず土曜や日曜が休みだというわけではなく、不定期に毎週二日の休暇をもらっている。また、ファーストフード店でバイトする由希も同様だった。 その俺たちが、ある朝に挨拶を交わしたとき、お互い今日が休みだと知って驚き合った。 「二人で休みなんて初めてだね」 パジャマ姿で由希は笑う。まだその笑顔には陰りが見えるけれど、敢えて気付かないふりをする。一度拒まれたら、もう何もできなかった。もう一度拒絶されることを考えると怖いのだ。 由希の言うとおり、二人で同じ日に一日中休めるなんて期待すらしたことがなかった。馬鹿みたいだけど、俺は運命を感じてみる。 俺は目玉焼きを上手い具合に半熟に焼き、それを皿に乗せながら由希に言ってみた。 「由希、今日二人でどこかへ行かないか?」 駄目もとで提案した俺の誘いに、由希は多少驚きながらもあっけなくうなずいた。 「いいね」 曇った表情で由希は笑った。
湖に行きたい、と由希は言った。俺は近辺にある湖を考え、地図を持って二人で車に乗り込んだ。 職場へは徒歩通勤のため、車を運転するのはこういう機会を作らなければ滅多にない。由希が助手席に座っているというだけで心拍数が上がる。叶うはずがないと思っていた夢のひとつが、今こうして現実になったのだ。 俺はアクセルを踏み、車が発進した。 移動の間、由希は何も話さずずっと窓の外を眺めていた。俺もその沈黙に気まずさを感じることなく、むしろ居心地の良さを感じていた。まがりもなくオレ達は兄妹なのだ。 運転最中にふと由希の横顔を盗み見ることに小さな幸せを感じていた。
湖のふもとに着くと、俺たちは車から降りた。 都会にはない、汚れていない空気が風に乗り、その度に周囲の木々の葉がざわざわと音をたてて揺れている。湖の水面では大量のかもと数羽の白鳥が浮かんでいた。 「こういう・・・喧騒のない世界ってすごく新鮮だよね」 俺の横で、長い髪を風になびかせながらふと由希はつぶやいた。俺に言っているというより、ひとりごとにも聞こえた。 「湖って、大きな力が働いているようで、あたしたちなんか簡単に飲み込まれそう・・・」 今度は最後に俺を見て、そう思わない? と由希は言う。俺は何も言わずにただうなずいた。それを見た由希はふっと唇の端を持ち上げたように笑った。 「本当に、あたし驚いているんだけど」 「何?」 「孝則って、昔からそんなに優しかったっけ?」 鋭い突っ込みのように思えた。俺は目線を漂わせながら必死に何かを答えなければと思う。視界の端でカモが笑っているように見えた。 「あー・・・、だってさ、反抗期の男が妹にベタベタ優しいほうが可笑しいだろ?俺も大人になったんだよ」 「そう・・・かもしれなけれど、でも」 長いまつげを伏せて由希は静かに言う。 「あたしが最近ずっと元気なかったことに気付いてもしつこく干渉しないし、でもいつも守られているみたく思ったから」 そう言ったと思ったら、急に由希はしゃがみ込み、俺はその動作について行けず、あたふたと遅れて俺も由希の前にしゃがんだ。 「由希・・・?」 うつむく由希の顔を覗くようにみるけれど伺えない。足元の砂がじゃり・・・と音をたてた。由希の肩は震えていた。 「由希・・・、泣いているのか?」 「―――あたし」 俺の言うとおり由希は静かに泣いており、下を向いたままポツリポツリと話し始めた。 「あたし、最低なんだよ。あたしは、家から・・・逃げてきたの」
俺は由希の細い肩を抱こうと試みようとするが、拒絶を恐れ、ただ優しく撫でて由希の話を聞いていた。 「孝則はもう家を出ていたから知らないけれど、あたし高校の三年間、久史と付き合っていたの」 「久史って・・・、あの久史か?」 「うん、隣に住んでいる久史だよ」 そうか、と俺はひとりごちる。俺の想いを引き出した二人の恋は、俺の知らない間に実っていたのだ。 「でも、別れちゃったんだ・・・」 「どうして」 「久史ね、九州の大学に行くの。遠恋は出来ないって言われた。お互いを束縛しあうだけだから、もう別れるしかないねって」 「そんな・・・、それは違わねえか? ひどくないか?」 俺は唇を噛んだ。由希は俺の顔を見て、違うの、と言う。 「久史が悪いわけじゃないよ。久史が言うことすごく分かるんだ。あたしたちずっと一緒に居て、近くに居すぎて、ちょっとでも離れると駄目になるの、分かっていたから・・・」 由希は細い声で訴えるように言った。 確かに久史の言うことにも一理ある。二人の間には俺には分からない絆やわだかまりがあるのかもしれない。それでも・・・。俺は自分勝手に思う。 俺だったら離れていても由希を忘れないし、実際会わなかった数年間忘れることが出来なかった。 「あたしも分かっている。でも別れて、会わない日が続いて、ああ本当に別れちゃったんだって実感したら寂しくて、あたし耐えられなくて・・・。あたしの部屋も家も久史との思い出がいっぱいあって、部屋にいるのも辛くて、あたしは逃げ出してきたんだよ・・・」 「だから俺の家に来たのか?」 俺の問いに、由希はコクリとうなずいた。
俺たちは並んで湖の周りに沿ってゆっくり歩いた。 「孝則に会ったの久しぶりだったよね」 「そうだな。俺が高校を卒業したときに家を出てから三年か・・・。その間に俺はほとんど実家に帰らなかったしな」 「お父さんもお母さんも寂しがっていたよ?」 誰のせいだと思ってるんだ、と俺は心の中でつぶやく。俺も由希と同じ、由希から逃げたくて家から逃げてきたのだ。由希を責められるはずがない。 でも今は、手に入れられないと分かっていても由希が隣にいることが嬉しいのだから不思議だ。 「あたしがバイトを始めた日にね、久史が来たの」 先ほどの話題に由希が変えた。バイトを始めた日と言えば、俺が迎えに行った日ではないか。確かにあれから由希は様子がおかしかったけれど、ただ慣れないバイトのせいだと思っていた。 「バイト先に、久史が?」 「うん、お客として、久史の男友達と一緒に。あたしはそのときレジにはいなかったけれどちょうど久史の姿を見ちゃって、情けないけれど心乱れちゃって・・・、それからずっと失敗の連続・・・」 前髪を掻きあげて、由希は自嘲する。そして、俺を見た。 「孝則が優しくてびっくりしたって言ったよね?」 「・・・ああ」 「でもあたし、本当はどこかで期待していたの。誰かに優しくしてもらいたいって思っていたの。あたしはそういう女なんだよ」 再び涙を流して由希は自分を責めるように言うけれど。 俺としてはこれほど嬉しい話はない。由希が俺に優しくしてもらえることを望んでいたというのなら、俺はいくらでも優しくしてやる。由希が望めば何だってしてやる。だから・・・。 途方もない願いが思わず零れそうになる。愛することを許して欲しいと。 「孝則と一緒に暮らして分かったことがあるの」 歩いていた足を止めて、由希は俺に向かって言った。由希に見つめられ、俺の背中には妙な緊張感が走る。 「ありえないって何度も思った。でも否定すればするほど本当のことに思えて・・・。もし本当だったら孝則が可哀相だってあたし思う」 「・・・・・・何」 「さっき言ったでしょ? あたしは孝則が思うような女じゃない」 「・・・・・・・・・・・・」 俺の横の湖では、ここに来たときから変わらない自然の音に満ちている。時折湖で水の跳ねる音が聞こえる。 俺は生唾を飲んだ。何かを言おうとするのに、全神経が何か得体の知れないモノに支配されているようで動かない。ただ心臓だけがドクドクと音を立てて鳴り響き、背に冷や汗が流れていることだけを感じる。 怖いのに、由希の瞳から目を離せなかった。その瞳には、由希自身が見つけてしまった真実がみなぎっているようだった。 俺が支配から解放されようとしたそのとき、由希は無表情にはっきりと言った。 「孝則ってあたしのことが好きだよね」 風が音をたてて、俺の中にある感情の一部を持ち去った。
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