7 消えゆく憎悪


 朝目覚めたら、ソファはもぬけの殻だった。
 私はベッドから出て、ソファの横にあるテーブルの上の一枚の置き手紙を見つける。
『ちょっとでかけてきます』
 お世辞にも綺麗とは言い難い字で書かれている知樹の字。一緒に暮らしてもう一ヶ月になるけれど、知樹の字を見たのは初めてだと気付く。たった一度過ちを犯してしまった仲だというのに。
 知樹がいないだけで、このワンルームの狭い空間は妙に寂しく感じた。静寂が漂う部屋を私はゆっくりと見渡した。もともとひとりで住んでいた部屋で今はひとりだと何かが足り外気がするなんて、変だと思った。
「行ってきます」
 誰もいない部屋に声をあげてしまうほど、知樹に見送りしてもらうことに慣れ過ぎていた。


 従業員室の前でばったりと孝則と出くわしてしまった。
「お、おはよう」
 驚いて口をぽかりと開けたまま何も言えない私に、孝則は困ったように笑った。
「・・・おはようございます」
「元気か? 変だな、同じ職場なのに顔見たの久しぶりな気がするよ」
 孝則は笑顔でそう言うけれど、私は孝則の科白が頭から離れない。
『やっぱり俺たち、自然に話したりするのはまだ早いのかな』
 そんなこと私だって分からない。今でも私は孝則を好きだけど、あの頃のように燃え上がるほどの情熱はもう消え失せてしまった。それは一度憎しみに変わったけれど、今はその気持ちがどこにあるのか、自分の心の場所を知らないみたく分からない。
 いつまでもこの人を好きでいたって意味がないよと頭では考えている。孝則のマンションの前でふたりの後ろ姿を目撃したときに、自分の胸に亀裂が入ったような痛みを覚えたから、私はもう諦めを知ってしまった。自暴自棄になる思いで私は孝則の恋に背を向けてしまったのだから。
 知樹と暮らし始めて一ヶ月になるということは、孝則に振られてからも同じ時間が経っているのだ。とても同じには思えないけれど。
「私は、・・・元気だよ」
 小さな声でそう言うと、孝則は安堵した表情を見せた。
「・・・・・・俺は勝手だよな」
 私から視線をはずして、孝則はつぶやいた。
「勝手で、最低だ。それでも俺は遥と話すのが好きだし、遥のことが大事だ。なのにどうしてかな・・・、自分の気持ちが嫌になる。・・・ごめんな」
「謝らないでよ!」
 私は思わず声を張り上げてしまった。
 孝則は悪くない。一度でも私を真剣に愛してくれた。孝則を本気にさせられなかった私が・・・、嫉妬に狂って年下の男に慰めを求めた私が悪いのだ。
 虚しくなるから謝らないで。
 私の声に孝則は少し怯んだようだった。
「孝則、私ね、今はもう孝則のこと憎んでも恨んでもないんでよ」
 孝則は目を見開いた。
「・・・・・・・・・嘘だろ?」
「本当だよ。理由も分からないし、悲しい気持ちは残っているけれど、これだけは真実だっていえる。私は孝則を解放できる自信がある。だから孝則は私のことなんて気にしないで。私を痛めつけるなら最後まで傷つけて」
 私よりずっと背の高い孝則を見上げて言うと、孝則はますます困ったような顔をする。
「・・・おまえって、本当にイイ女だよな」
「今更後悔したって遅いからね」
 私の言葉に孝則は馬鹿と小さく言って私に背を向けて歩いて行った。私はその広い背中を見つめ続けた。
 泣きそうになる心を抑えて、私は深呼吸をした。ひとつの恋を失くすことは辛くて当たり前なのだ。悲しくなる自分を、今はもう認めてあげたいと思う。それがきっと自然な感情なのだ。


 バイトを終えて家に帰っても、まだ知樹は帰っておらず部屋の中は真っ暗だった。パチンと蛍光灯のスイッチを押す音にさえ寂しさを感じる。思えばいつも知樹は私の帰りを迎えてくれた。でも今日はいない。
 このまま知樹が帰ってこなかったら・・・?
 考えたくもないのに、一度考えると頭から離れない。そんなの嫌だ。まだちゃんとした別れもしていない。言いたいことも残っているのに。
 だけど、不自然なのはむしろ知樹がこの狭い部屋に住み着いていることであり、知樹が帰るべき家庭に戻るほうが正しいのだ。いつまでもこんな生活が続くはずがない。
 私は唇を噛んで、ソファの上に身を投げ出した。かすかに身に覚えのある温もりと香りを感じた。
 そのときドアの開く音がして、私はあわてて体勢を整える。
「ただいま」
 知樹の姿を見て、私は胸を撫で下ろす。
「よかった・・・、帰ってきて・・・」
「うん、ちゃんと帰ってくるよ。黙って出て行くなんて卑怯な真似をするなんて思った?」
「そんなこと思わないけれど・・・・・・、・・・あ!」
「何?」
 急に声をあげた私に、知樹は立ったまま訊ねる。
「夕飯作っておけばよかった・・・。今日は私のほうが早く帰ってきたのに」
「ああ、それは残念だけど、今は話したいことがあるんだ。聞いてくれる?」
 知樹の真剣な眼差しに私が黙ってうなずくと、知樹は私の隣に座った。小さなソファで私たちの身体は密接した。
 少し沈黙が流れた後、私が先に口を開いた。
「・・・どうしたの?」
 できるだけ優しく訊くと、知樹は意を決したように言った。
「俺、今日さ・・・、家に帰ったんだ」
 ―――家。聞きたくなかった単語に気付かないふりをして、私は続きを促すと、知樹はもっと真剣な目つきになって再び言った。
「家っていうか・・・、孤児院なんだけどね」
 今度は聞かなかったふりが出来なかった。私は茫然と知樹の横顔を見つめた。


 つまり知樹は親のいない子供、すなわち孤児だったのだ。
 親の顔は知らないと知樹は言った。気付いたときにはもう孤児院にいたのだと。
 成長すればするほど実感していく。親がいないという、私には想像できないその痛みを抱え、ある日知樹のその傷は開ききってしまった。
 周りの同級生は平気で親の悪口を叩き、それでも親からの援護を拒まない。それなのに何故自分にはそんな当たり前の存在がいないのだろうか。何故実親は捨てるつもりであった自分を産んだのか。どうして自分は生まれてきてしまったのか。
 誰にも必要とされない自分は何故いつまでも生きているのだ。知樹はいつもそう思っていたと言う。
「本当はさ、誰でもそう思ったりするんだよね。でも俺はそれに気付けなかった。自分の傷をふさぐことに精一杯で、すごく自分勝手で自分のことしか考えられなかった」
 知樹の自嘲するような声に泣きそうになりながらも、私は我慢して一生懸命続きを聞いた。
 『今夜も私たちに生を下さったキリスト様に感謝をしてご飯をいただきましょう』そんな感謝は自分たちに何をもたらしてくれるというのか、疑問を持たずにはいられなかった。
 知樹は悪いことはなんでもした。盗みやカツアゲは日常茶飯事だった。堕ちていく自分を自覚して、誰かに叱って欲しくて、それでも理屈立てる大人は大嫌いで・・・。グルグルとした自分でも掴めない感情に飲み込まれ、気付けば中学三年になっていた。
 高校へ行く者はその受験勉強を、就職するものは就職活動をすることが院内での約束だった。義務教育課程が終わったら、院を出なければならなかったのだ。
 知樹にとって問題はそこにあった。これほど悪いことばかりしてきた知樹を養子にしてくれる家庭があるはずもなく、ろくに中学校に通っていなかった知樹が高校を受験できるはずもなく、真面目に就活していなかった知樹が職につけるはずがなかった。
 そのときになってやっと知樹は自分の未来に絶望する。そんな頃、街でひとりで歩いていたらある女に声をかけられた。

 彼女の名前はルミと言った。ブランドで全身を固めたような、気品もプライドも高いどこかの成金の娘のような女だった。年齢を想定できないが、おそらく二十代前半だろうと思われた。
『アタシを満足させてくれたら』
 ルミは言った。金をくれると。
 なんて楽な仕事だと正直驚愕した。悲しいことに、まだ十五歳になったばかりの知樹女を抱くことには慣れていた。
 案の定、ルミは簡単に知樹による快感に溺れ、回数を重ねるごとに渡される金額は高くなっていった。知樹は取りつかれたように、ただその目的だけでルミがひとりで暮らしていた高級なマンションに住み着いた。
 しかしこの行為には愛情のかけらもないただの快楽だ。いずれルミは自分に飽きるだろうと知樹は悟っていた。しかしそれは最悪な科白で始まった。
『結婚するから、もういらない。出て行って』
 簡単に知樹は捨てられた。ゴミのように、昔記憶にも残っていない頃と同じように。
 愛していたわけではない。むしろ金のためにルミの傍にいた。だけど、こうも簡単に人は裏切ることができ、そして裏切られることもあるのだと知った。
 その夜、再び知樹は路頭に迷い、ふらふらと歩いていた。自分がどこを歩いているのかも分からなかった。
 ジーパンのポケットに入った大量の金を落とさないように、ただそれだけに気を遣っていた。
 二月終わりの冷たい雨が降る中、知樹は傘を買うことも空腹を満たすことも出来ずにいた。この金はいつかなくなってしまうだろう。薄汚れたこの金を簡単に使いたくなかったし使えなかった。
 これからどこへ行けばいいのか分からず途方に暮れた。今更孤児院に帰れるはずもない。金があっても知樹はまだ十五歳、泊まる場所を探すことさえままならない。
 足元がふらついた。目の前がぼやけた。身体を打つ雨は冷たいのに、身体の芯は火照ったように熱い。知樹は雨から逃れるためにある屋根の下に座り込んだ。
 妙な寒気と吐き気を感じた。ここはどこだろうと老朽化した電球を見つめたまま、知樹は意識を手放した。
「気付いたときには俺はこの部屋にいた。遥が俺を拾ってくれたんだよね」
 今までの話がまるで冗談かのように、知樹は綺麗な瞳を私に向け、そっと私を抱きしめた。

「ちょっと知樹・・・・・・、何するの」
「何もしないからこのまま聞いて」
 耳元でそう囁かれると、私はもう何も抵抗できなくなる。知樹がまだ十五歳だということにも驚いたが、それ以上に、知樹の声に痺れを感じる自分にも驚き呆れた。
「俺・・・、今まで人間なんか大嫌いだった。みんな死ねばいいって本気で思っていた。でも、遥に会って、遥からの無償の優しさを感じて、人間ってそんなに嫌なものじゃないって思って・・・、そしたらなんで俺は馬鹿なことばっかりしていたのかなって・・・」
 知樹は弱々しくつぶやき、私の肩に頭を乗せた。知樹の髪が私のうなじをくすぐった。
 私には知樹の痛みは計り知れない。だけど、傲慢かもしれないけれど知樹を痛みから救いたくて、私は知樹の背中に両手を回した。
 初めは好意すら抱かなかった。不敵な笑みも私を脅して陥れようとしたことも恐怖に思えたこともあった。でも時折見せる年相応の笑顔や優しさが心地よくて、いつの間にかその存在を受け入れている自分がいた。
 私は事情も知らずに知樹を傷つけいたのも知れないと思うと、心が苦しくなる。
「遥・・・、ありがとう」
 かすれた声で知樹は言った。その響きがとても嫌な感じした。これからのことを予測させるような。
「何・・・・・・、まるでお別れするみたい・・・」
 私が鼓動を抑えながら苦笑すると、知樹は顔を上げて私の目を見つめた後、目を少し閉じて顔を私に近づけた。初めてのときと同じ、何もしないって言ったくせに平気で裏切り、だけど私に不快を与えない触れるだけの口付け。そして、やはり私はあのときと同じで目を閉じることも忘れていた。
 顔を離したあと、知樹は再び私を見て、覚悟を決めたように言った。
「住み込みのバイトがようやく見つかりそうなんだ。あと数日したら出て行こうと思う」


      
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