「行ってきます」 無表情で由希は、二日目になるバイトに出かけた。 バイトが辛いのかと訊ねたら、やはり首を横に振るだけで、由希は何も答えない。そういう性格なのは承知している。しかし、もっと俺を頼ってくれればいいのにと、言わば独占欲のようなモノが心で沸きあがっている。 昔にもこういうことがあったなと、と俺は朝食の皿をキッチンに運びながら思う。
職場に着くと、ロッカー室の前で小林に会った。 「おはよう」 「おはよう。あ、大芝さ、おまえ昨日携帯忘れて帰っただろ」 「あーそうそう。別に支障ないからそのまま帰っちまったけれど。・・・って、あれ?」 俺は置き忘れたはずの机を見渡すが、携帯電話はどこにもない。 「携帯ならおまえの彼女に渡しておいたぞ」 「彼女?」 「何言ってんだ、榎木さんだよ。まだ届けてもらってないのか?」 少々不審そうに小林は言う。 「え・・・、いや・・・」 しどろもどろに答えて、俺は逃げるように更衣室から出た。遥と別れたことが未だに職場の人間にバレていないことを知り、半分ほっとするような、胸が痛むような複雑な気持ちになる。 慌ててシフト表を見ると、遥も朝から出勤になっている。これでまたひとつ彼女に嫌な思いをさせたのかと思うと、申し訳なくなる。 「おはようございます」 絶妙なタイミングで、背後からその声は降ってきた。まだ心の準備が出来ていない。返事にためらっていると、彼女はあっけなく携帯電話を鞄から取り出した。 「ケータイ、忘れるなんてドジですね」 何を思っているのか分からない表情で遥は笑う。俺は遥の手から携帯を取って、早くこの場から逃げたいと切に願う。 「遅くなってごめんね。本当は昨日渡そうと思って、孝則の家に行ったんだけど」 「けど、何?」 一番触れられたくなかった話題のくせに、追求せずにはいられなかった。俺の動揺を見抜いたのか、遥は意味ありげに俺を見た。 「何かやましいことでもあるのですかー?」 「あのさ・・・、おまえ何なの、最近」 「私は孝則と仲良くしたいの。それに、そっちこそ何なの。私に隠す必要ないでしょ。よかったじゃん、上手くいって」 「・・・何が?」 「彼女と」 「・・・カノジョ?」 本日二度目になるこの会話、今度こそは相手に見当がつかない。遥に家まで来られたってことは何かを見られたのか? いや、まさかそんな・・・。 考えてはならないはずの相手が脳裏に浮かぶ。 「その調子じゃまだ告白してないんだ? 長い髪で、小柄で・・・、孝則のオモイビトでしょ?」 遥のまっすぐな科白が痛い。心なしか遥の目が腫れて見える。俺は慌てて目を逸らした。 逃げたい。だけどそれは許されない。それほど俺の裏切りは彼女を傷つけたのだとしたなら、俺はどうすればいい? 「半分正解ってトコロかな」 俺が答えると、遥は困ったように笑ったがそれ以上何も言わずに俺から離れて行った。 本当は正直に話したかった。それは確かに俺の想い人で、長い間好きだった女で、今は一緒に暮らしていて、そして・・・、俺の妹だということを。 しかしやはり言えなかった。俺だって遥を嫌いではないのだ。その遥をこれ以上傷つけたくなかったし、何よりも、遥に軽蔑されることに耐えられるはずがなかった。
あの日―――由希を初めて好きだと思った日のことは昨日のことのように思い出せる。 俺と由希は昔からどこにでもいるような普通の兄妹で、幼い頃は喧嘩をしながらもよく一緒に遊んだ。その頃隣の家に住む久史(ひさし)という奴も一緒だった。 久史は由希と同い年だったが、男同士ということもあってか俺とも仲良く、物心ついた頃には幼馴染みとして三人でよく遊んだものだった。今思えばやんちゃなことばかりしていた。 多分、由希の初恋は久史だったはずだ。俺から見ても分かるほど、由希のぎこちない想いは表れていた。由希が八歳で、俺が十一歳の頃の話だ。 しかし、久史は相当やんちゃなガキで、由希の気持ちに気付くはずもなかった。 あの日もいつもと同じ光景だった。いたずら好きの久史は由希をからかったりいじめたりする。そして由希は赤くなって泣きそうな顔のまま俯くのだ。 しかしその日、俺は気付いてしまった。その瞬間の久史の後悔する顔に。久史の由紀へのからかいは幼さゆえの愛情そのものだったのだ。上手く伝えられない気持ちにもどかしさを覚えて、つい思っていることと正反対なことを言ってしまう、その気持ちは男の俺にも分かった。 しかし問題が生じた。そのとき、俺は自分の中に潜んでいた異常な気持ちに気付いてしまったのだ。 いつの間にこんなことになったのか、俺は俺が分からなかった。ただ信じたくなくても、由希を誰にも渡したくないという独占欲と、久史に対する敵対心は姿を消してくれなかった。 その日は由希の顔も、親の顔さえも見ることが出来ず、夕食も摂らずにただ部屋の窓から空を見ていた。 なぜこんなことになってしまったのだろう。どうして俺と由希は兄妹なのだろう。 今になって思う。俺の初恋は由希で、その想いは今も続いている。
それから俺は中学生になり、三歳も年下の、しかも実の妹ばかり見ていても仕方がないと思い始め、さらにモテ始めたことにも調子に乗って様々な女と短期間ずつ付き合うようになる。 家には帰りたくなかった。由希には出来るだけ会わないように生活をし、毎日のように夜遅くまで遊んでいた。 付き合った女は数知れない。しかしどれも長続きしなかった。女心をという以前に、人間の痛みすら知らないまま数々の経験をこなしてきてしまったのだ。 その代償のように、由希は俺を煩悩させるような女へと変貌を遂げていく。学校の女は何も言わなくてもついて来るのに、俺は由希に手を出すことさえ出来ない、その距離感がもどかしくて切なくて、何度も他の女を掻き抱いた。 高校に上がってからやっと、俺は由希じゃないと何も満たされることがないのだと実感する。そして、今まで傷つけてきたであろう女達の痛みを知り、さらに心の闇となって俺の異常な想いを支配した。 由希が中学生になってまもない頃、ある日の朝由希の様子がおかしかった。当時俺は高校一年、自分の気持ちにもある程度整理できていたし、自分をコントロールする術も身につけていた。 『由希、どうかしたか?』 長い間由希を避けてきた俺が自分から声をかけたせいか、由希は躊躇ったように俺を見上げた。 『・・・・・・・・・え?』 『元気ないだろ?何かあったのか?』 俺の問いに由希は少し考えたようだったが、何も言わないまま首を横に振った。 『・・・なんでもない』 『なんでもないって顔じゃないだろ?』 『孝則には関係ないじゃない!!』 鋭い視線を投げつけて、由希は玄関で靴を履き、乱暴にドアを閉めて家を出て行った。 ―――関係ない。取り残された俺の耳の中でこだまするように、由希の声が響いていく。 こんなふうに由希が俺を怒鳴るなんて今までなかった。これは罪の報いなのだろうか。俺が由希を好きになってしまった時点で、もう昔のように由希と話すことさえ許されないのだろうか。 後になってから、そのひ由希は久史と喧嘩していたのだと久史本人から聞いた。きっと由希の心には俺の入り込む余地なんて最初からなかったのだ。
「お仕事中に物耽け顔、いけませんねー」 遥の声に我に返った。遥は俺の背中にトレイをぶつける。 「あ、ああ、ごめん」 「まだお客さん少ないから、ボーっとしたくなるのもわかるけれどね」 客席を見渡すように、遥は俺の隣に立った。 「春だからかな、切ないね」 ガラスの窓から見える昼前の外の景色は陽気で、店の外を歩く人の格好はもう春めかしい。何気なく聞いた遥の科白にふと疑問を覚え、俺は遥を見た。 「切ないって、何が?」 「孝則のココロと私のキモチ」 「・・・遥も?」 キリキリと心臓が痛む。俺は思わず訊き返した。すると遥は俺の目を見た。 「知ってる? 私、孝則に話しかけるの、すごくドキドキする」 「・・・なんで」 「それを訊いちゃうんだ?」 遥は長い睫毛を伏せるようにして苦笑した。分かっているくせに、と責められているような感覚に陥る。 俺は由希に対してだけではなく、遥に対する罪もあるのだ。多分遥の俺への思いも憎しみもまだ消えてはいない。 好きだったのは本当だ。一年半も付き合えた女は遥だけだ。それでもどうしても俺は由希じゃないと駄目だった。自分でも泣きたいほどに、どうしようもないほどに。 「俺、おまえのこと嫌いになったわけじゃないし、俺も仲良くした行って思うけれど・・・。やっぱり俺たち、自然に話したりするのはまだ早いのかな」 「・・・・・・・・・私も分からない」 ポツリと吐いた俺の言葉に、遥の声は悲しそうに響いた。
夜仕事から帰ると、ソファで由希が無防備に横たわっていた。 俺は嘆息して、由希の肩を叩く。 「由希・・・、こんなところで寝たら風邪ひくぞ?」 「・・・あ、孝則。おかえりなさい・・・」 眠そうな目でノロノロと起き上がった由希は、目をこする。 「由希、飯は食ったのか?」 「ん・・・、いらない。あたしもう寝るね。シャワーは明日の朝に浴びるから」 ふらふらよろつきながら、ベッドがある部屋へ歩いていく。 「由希!」 何も言おうとしない由希に苛立ちを覚えて、俺は由希の細い腕を掴んだ。由希は目を覚ましたのか驚いたように大きな目で俺を見る。 「あのさ・・・、何かあったのか?」 俺が言うと、由希は口許を綻ばせた。 「孝則には関係ないよ」 言い方は違っても、それは昔と同じ俺を拒む言葉だった。俺は思わず掴んだ手を離す。そのまま由希は微笑を残して、寝室へと入っていった。 一度は修復できたと思われた俺と由希の仲は、未だにあの頃と同じで、この距離感はどうにもならないと思った。切ないのは春のせいではない。
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