ひどい頭痛で目を覚ました。 私は目を開けることもできずに頭を押さえる。これはなんだろう。ただの頭痛にしてはひどすぎる。風邪でもひいたのかもしれない。私は自嘲した。そうだ、風邪をひいたのだ。布団を被ってもこんなに寒い。もっと体を温めて寝なくては。 そう思って、いつもと違う布団の感触に気付き、私は無理やり目を開けた。 「・・・・・・・・・嘘」 目に映ったのは信じられない光景だった。まず私が目にしたのは、私自身の白い腕、そして、恐る恐る横に目をやると。 「・・・嘘。嘘でしょ」 脱力したように私はつぶやく。 隣にはお約束のように、知樹が眠っていた。狭いベッドの上で日に焼けた肩を布団から出して。 「そんな馬鹿な・・・・・・」 いくら私が孝則と別れたばかりだからって、恋愛感情などない男、しかも年下の少年にさっそく手を出すなんて考えられなかった。想像もしたこともない。だいたい年齢不詳の知樹にそんなことをしでかしたら、それでこそ私は本当に犯罪者になってしまいそうだ。 私はガンガンと鳴り響く頭を抱えながら、昨日のことを思い出してみる。
昨日もいつもどおり私はバイトに行った。昨日の私の勤務時間は昼前からだったので、朝はゆっくりと知樹と掃除をしたり洗濯をしたりした。 知樹は風邪を治してから、よく家事を手伝ってくれた。キスをしたのはあれっきりで、私たちの奇妙な関係はそのまま変わる事もなく、むしろ私は当初よりも知樹といる時間に安らぎを感じていた。 夜になれば一緒にテレビを見て笑い合い、その後は私はベッドで、知樹はソファで寝る。ワンルームなのになぜこんなに上手く生活を送っているのかわからない。だけど、私にとって知樹が鬱陶しくなったことは一度もないことは事実だった。 言っていたとおり知樹はそれなりの金額を所持しており、家賃の半分を出してくれると言った。私がそのお金はどうしたのかと聞いても、はぐらかすばかりでまだ答えを聞いていない。 「俺もそのうちバイトを始めなきゃな」 午前十一時、私が玄関でパンプスを履いていると、背後から知樹がそう言った。 「知樹が始めたいっていうならいいけれど。今はしなくたって困らないじゃない? むしろ家でご飯作ってくれていたら私はすごく嬉しいし」 「遥が作ったほうが上手いのに?」 目を細めて笑う知樹に、私は行って来ますと手を振り、ドアを閉める。 私は知樹のことを何も知らない。歳も住所も何もかも。知っているのは名前だけ。確かに彼の整った顔を見たときは名前を知りたいという感情に襲われた。でも今はそれだけでは足りないような気がした。私と知樹を結ぶものがとても不安定に思えるのだ。 こうして、私がバイトで家を出るときに「行ってらっしゃい」の一言を言ってくれる知樹との関係が揺れるのは耐えられないと思った。もうしばらくは平穏な心を持って暮らしたかった。
仕事に入るのは昼時の一番忙しい時間帯だった。 忙しさに負けずに、私は声を張り上げる。この仕事が天職だとは思っていない。だけど、私なりに私らしく頑張ろうと思っている。昔孝則に言われたことを今でも忠実に守っている。だから今日も笑顔で客と接する。 孝則と話すことはまだ出来ていなかった。今までのように話したいという願望はあるのだ。だけど、どうしても身体が拒んでしまっていた。彼が私に何か言おうとするたびに、私は避けるように目を逸らしていた。 しかしどんな関係になっても私は孝則といる時間が好きなのだ。午後三時頃、やっと客の波が収まったとき、私は客席から見えない死角でその影を見つけてしまった。 柔らかい表情でメールを打つ孝則の姿。 このひとは私にそんな顔を見せたことがあっただろうか。体内の中で湧き上がる激しい嫉妬心に襲われそうになりながらも、私はやっと孝則と話すことに成功した。 私はもうこのひとの彼女じゃない。特別な扱いをされない代わりに、私にとってももう彼は特別ではない。 そう思うと、急に心がふっと軽くなった。嫉妬心は言葉へと変化する。 もっともっと私を痛めつけて欲しい。これ以上ないほどに私を傷つけて欲しい。孝則が幸せな顔をすればするほど、私は孝則のことを忘れられるのだと思った。そうすれば、孝則が私を捨てた理由が見える気がしたのだ。 他の女のためなんかではなく、私のために別れたのだと。甘い幻想に酔いたかったのかもしれない。
従業員室にあるシフト表を見ると、今日の孝則は午後六時に仕事を終えることが記されていた。従業員である孝則が夕方に帰るなんて珍しい。 しかしそれ以上たいして気にも留めず、私は自分が午後七時に仕事を終えることを確認して、学校帰りの学生で賑わい始めた仕事場へと戻った。 夕方の仕事は昼間よりも楽だった。学生たちはいくつかのメニューとドリンクバーを頼めば、もうそれ以上は何も注文してこないからだ。私も高校生の頃はよくこうやって友達同士でファミレスに何時間も居座ったものだった。 そこで私は知樹を思い出す。表情によって大人っぽさも子供っぽさも曝け出す彼は、それでもまだ幼さを抜け出せていない顔立ちをしている。まだ十五、六歳だろうか。高校はどうしているのだろうか。それより親は・・・。考え出したら途方もなくなる。 知樹のことが心配なくせに、私は知樹との生活を失いたくないと考えてしまっているのだ。 「榎木さん」 レジの近くにいると苗字を呼ばれて、私は振り向いた。 「あ、小林さん?」 彼はこのファミレスの従業員で、確か孝則と同僚だった。 「どうしました? 何か用でも?」 「あ、いや、あのさ、コレ・・・」 「コレ・・・?」 私は小林さんが差し出した物を見つめた。見覚えのありすぎる携帯電話。 「あ、孝則・・・、大芝さんのですよね」 「ああ、やっぱり彼のかぁ。さっき僕が更衣室覗いたらロッカーの前にコレが落ちていて・・・。さっき帰ったばかりの大芝のかなって思ったんだけど」 そう言って、小林さんは腕時計に目をやる。 「でももう彼が帰って時間経ってしまったし、よかったら榎木さんが届けてくれないかなぁ」 「私が・・・、ですか?」 拍子抜けしたような声で訊き返し、私はまじまじと小林さんを見てしまった。 「だって君たちの仲なら頼めるかなと思ってさ」 「・・・・・・・・・」 このひとは気付いていない。私と孝則が別れたことに。 一年半も付き合っていたのだ。店の人間から見れば、私と孝則の仲は公認となり、このふたりが別れるなんて思ってもいないだろう。 だけど、この数週間で私と孝則は何回話したというのだ。私用で喋ったのは今日が久しぶりになるほど、私たちの関係は疎遠になってしまったというのに。 そんな空気の読めない小林さんに身勝手な嫌悪感を覚える。 「分かりました」 しかし断るわけにもいかず、私は懐かしい孝則の携帯を手に持った。温もりがよみがえって涙が出そうになった。
午後七時に仕事を終えた私は、早歩きで孝則のマンションへ向かった。とにかく嫌な仕事は早く終わらせておくことこの上ない。 コレ忘れていたでしょ? 本当に馬鹿なんだから。そそっかしいのは変わらないね。 そんな会話が出来たら嬉しい。もう昔のようにはなれないけれど、付き合い始める前の私たちにはなれる。だから私は孝則の幸せを願おう。幸せになって、と。 頭の中で孝則に出会ったらなんて言おうとシナリオを作る。ときめく恋を楽しむ少女でもないのに、心が跳ねていた。きっと孝則は笑ってくれる。ごめんごめん、携帯忘れたことにも気付かなかったよ。うわ、それって本物の馬鹿だよ? しかし、私の幸せな妄想はそこで途切れてしまった。孝則のマンションの前。マンションに入っていく二人の後ろ影。幸せそうに手を繋いで・・・。 孝則。 その場に佇んだ私は声にならない声で叫んでいた。だけど、それは空気に溶け込んでしまい、幸せなオーラを出す孝則の耳に届くはずもない。 隣にいる小柄な女の子。私と同じくらい歳の子が孝則の隣を歩いて笑っている。誰なの。そこは私の場所だったのに。 私は孝則の携帯電話を握り締めた。孝則が幸せになれば私も幸せだなんて嘘だ。そんな綺麗な心を持っているなら、私は孝則をこんなに好きにはならない。こんなに簡単に孝則を忘れられるはずがない。 私は二人に背を向けて無我夢中で走り出した。
自分の考えの甘さに怒りを覚え、傷つきたくないとばかり思っていた自分に呆れを感じる。 今日だけは家にも帰りたくなくて、私はその辺の居酒屋に入ってお酒に手を出した。何もかも忘れてしまいたかった。 苦い酒を一口飲むごとに孝則の幸せそうな顔が脳裏に映し出される。あれは私のものじゃない、あの女のものなのだ。どうして私じゃないの。私の何が駄目だったの。 あの日に戻ったようだった。絶望に浸されていた。私は一人で歩いていけるほど大人になりきれていないのに。
「あ、おはよう」 不意に隣から声が聞こえて、私はビクリと身体を震わせた。昨日のことを思い返しても、心に痛みが残るだけで何ひとついいことなどない。それどころか、私の記憶は消えてしまっている。 この頭痛は二日酔いだろうか。 私は目を覚ました知樹を極力見ないようにして、布団で身体を隠す。 「私たち、やったんだ?」 「・・・覚えてないんだ?」 驚愕を表情に表して、知樹は言った。 「・・・どっちから誘ったの」 「その言い方すっげぇ露骨で傷つくよ」 「だって・・・!」 「言っておくけれど、俺から手を出さないのはルールだろ」 「・・・・・・・・・・・・」 じゃあやっぱり私が寂しさのあまりに知樹に泣きついたとでもいうのだろうか。そんなこと私が許さない。許したくない。 私は宙を見つめる。天井の模様をこんなにしっかり見たのは初めてだ。沈黙に耐え切れなくても、それでも知樹の顔は見れない。 「俺は昨日もご飯作って待っていたんだよ? なのに何の連絡もしないで・・・、真夜中になってやっと帰ってきたと思ったら酒飲んでるし。何言っても聞かないし、話さないし」 私は少し顔を持ち上げて、知樹の背中越しにあるテーブルに置いてあるスパゲッティを見つけた。 昨日の夜のことなんて思い出せない。私は私のことしか考えてなかった。寂しくて寂しくて寂しくて。私はこんなにも孝則が好きなんだって思い知らされて、だけどその現実に目を向けられるほど強くなれなくて。 「遥」 知樹は低い声で私を呼んだ。 「昨日もそうやって泣けばよかったのに」 その科白で私はようやく知樹の顔を見ることが出来た。知樹の瞳は私に呆れているわけでもなく、怒っているわけでもなく、優しくて私を受け止めてくれるようだった。 「一人で抱えこんで痩せ我慢して・・・、そんなふうにされたら俺は何をすればいい?」 そう言って、知樹は長い指で私の頬をつたう涙を拭う。 今になって分かった。私は泣きついたわけではない。心の隙間を埋めてくれる場所を探し求めて彷徨っていたときに、知樹は救いの手を差し伸べてくれたのだ。 とっさに私は知樹に抱きついた。シングルベッドが軋みを立てた。 「ごめ・・・っ、ごめんね・・・。・・・・・・ありがとう」 泣くのはもう最後。その代わり我慢しない。私たち一緒に暮らしているのだから。記憶の欠落が証になる。 知樹は静かに私の頭を撫でていた。知樹の左胸に耳を当てると鼓動が聞こえた。
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