今日からバイトが始まるのだと、緊張気味の顔つきで由希は今朝慌てて家を出て行った。 俺の感情とは裏腹に、ゆっくりと時間は過ぎて三月ももうすぐ終わろうとしていた。
俺が働いているのは巷にあるいわゆるファミリーレストランだ。平日の昼間はサラリーマンや暇そうな子連れの主婦で席はいっぱいになる。 「いらっしゃいませ!」 忙しさの微塵も表さない明るい声。遥だ。数日前に風邪で休んでいたが、もう体調は大丈夫なのだろうか。俺は空いた皿を運びながら無責任にそんな思考が頭を巡る。 いくら同じ職場だからとは言え、避けることも避けられることも可能だった。もう何日遥と話していないだろう。 「お水を二番テーブルに運びます」 話したことといえば業務上のことだけ。思ったよりも遥は落ち込んでいないようだ。 ・・・と言うのは、やはり俺の思い上がりなのだろうか。自分でも最低だとは思うけれど。
「明日からバイト?」 それは昨夜、風呂上がりに突然聞いた話だった。由希は意思を固めた表情でうなずく。 「俺そんなの初めて聞いたぞ」 「だって今初めて言ったんだもん」 「なんでそんな急に・・・」 「本当はね」 リビングにあるソファーに座ったまま由希は静かに言う。 「あたしが仕事に入るのはもっと後だったんだけど・・・、急に人手が足りなくなってしまったらしくって」 「・・・別に仕事なんかしなくたって、俺の稼ぎでどうにか二人分くらい食えるよ?」 俺がぼんやりと思ったことをそのまま言葉にして言ったら、由希は怪訝な顔をして俺を見上げた。 「何言っているの? それじゃ、あたしがここにいる意味ないじゃん」 苦笑して、由希はもう寝ると言い、元々俺の寝室だった部屋に入って行った。 ここにいる意味なんて。俺は閉まったドアをしばらく茫然と見つめていた。 ここにいる意味なんて、なくていい。ただ俺の傍にいてくれたら何でもいい。もし俺が由希の兄ではなく、また由希が俺の妹でなければ、そう言えたのだろうか。 そんな思考こそ意味がない。俺は自嘲した。
午後三時にもなると、嵐が去ったように忙しさが半減する。客席からは見えない柱の隅で、俺は暇の隙を見計らって制服のポケットから携帯電話を取り出した。アドレスを表示させて、メールを打ち始める。
俺も今日は夕方で終わらせてもらうから、帰りにそっちに迎えに行くから一緒に帰ろう。
「誰にメールですか、大芝さん?」 メールを打つことに没頭していた俺は、突然の声に方を震わせた。 「うわ・・・、びっくりした・・・っ! ・・・・・・遥?」 コンマ後には相手に驚く。今まで話しかけるタイミングすらくれなかったくせに。 「仕事中はメール禁止、ですよね?」 「建前はな。でも客席から見えなければいい。みんなやっているじゃないか」 分かっているくせに、遥はいたずらな表情で俺を見上げる。昔のように、わざわざ丁寧語を使って。一体何のつもりなのだ。 「カノジョにメール、ですかぁ?」 悪意があるとしか思えない遥の言葉に少し反応を示してしまい、一瞬動作が固まる。それを見抜いたのか、ますます遥は可笑しそうに笑った。 「そうなんだ?」 「・・・・・・嫌がらせか、おまえは」 「別に? でも、それならまだその好きな人に何も言っていないんだね」 気付いたときにはもうふざけた表情はそこにはなくて、ただ遥は切なそうに微笑んだだけだった。 「うまくいくといいねって、私言ったのに」 「・・・・・・俺は振ってしまった奴とそんな話題で盛り上がりたくないよ」 心臓を握り掴まれた気分で俺が低い声でつぶやくと、遥は何かを言いたそうに唇を動かしたが、結局何も声にはなっていなかった。 「じゃあ、俺は仕事に戻るから」 戻ってもどうせたいして仕事はないとは分かっていながらも、気まずい空気に身を置きたくなくて、逃げるように遥に背を向ける。俺はずるい。 「私と別れたことを無駄にしないでよ!」 背中にそんな必死な声を浴びて、俺は驚いて振り向いてしまった。真剣な顔をした遥と目が合った。 付き合っていた間ほとんど我が儘を言ったことがなかった遥が、そうやって感情に身に任せて叫ぶなんて珍しかった。 「ごめん」とも言えずにやっぱり俺は遥に背を向けることしかできずにいる。 遥の想いは俺よりも超えていて、俺の由希への想いは叶えられない。世の中はどうしてこうもうまくいかないのだろう。それでも俺は自分の心に嘘はつけなかった。
由希に対して過保護だとも思う。俗に言えば俺はシスコンで、由希から見れば俺など口うるさい兄に過ぎないのかもしれない。 だけど、由希はああ見えて不器用なのを俺は誰よりも知っているつもりだ。高校時代に一度もバイトをやってこなかった由希がバイト先で上手く仕事をできているのか、気になって仕方がない。 いつもは閉店まである仕事も途中で放り出し、俺は急ぎ足で由希が働くファーストフード店へ向かう。普通の入り口から入ると、俺の職場と同じように「いらっしゃいませー」と明るい声が響く。 カウンターより向こう側にいるはずの由希の姿を捜すが見当たらない。そのまま何もしないまま店の中でうろつくわけにも行かないので、俺はコーヒーだけを頼んで入り口から近いテーブルに座った。とりあえず店内にいることをメールで伝えておこうとしたが、携帯電話が見つからなかった。途中で落としたかと少し慌てたが、よく思い出してみれば着替えたときにポケットから出した際にロッカー室にある机に置いたままだ。しかし由希には店内に入ることは前もって伝えているし、今夜一晩くらいなくても支障はないだろうと俺はそのまま座っておく。 そして周りの様子をなんとなく伺ってみる。学校帰りの学生や、カップルで店内は混んでいて騒がしく、俺の神経を緩やかに撫でていく。人々の楽しそうに話す声は嫌いじゃない。だから高校の頃にしていたバイトをそのまま本職にしたのだけれど。 しばらく待っても状況は変わらず、俺は腕時計を見た。デジタル時計は18:47と表示されている。確かに終わる時間は午後六時だったはずなのに。 そう思ったとき、近くにある自動ドアが開いた。 「孝則!」 目を真っ赤にした由希が俺を呼んだ。俺はすぐに席を立ってコーヒーが入っていた紙コップをゴミ箱に捨て、由希の元へ駆け寄った。今は何も言わないまま、由希の背を押すようにして外に出た。
「遅くなってごめんね」 俺の隣をゆっくりと歩きながら由希は言う。 「どうした?」 「え?」 「何があった?」 どうにか自制心を保ちながら、俺はそれだけを投げつけるように問う。由希は一度俺を見上げたが、口を硬く閉じたようにして何も言わないでいる。 「由希」 俺は呼んでみるけれど、俯いたまま歩く由希の表情は見えない。 そこで俺は思ってしまう。やはり由希はまだ幼くて、どこか傷つかない場所で生きてほしいと。それが間違った考えだと分かっていても、思わずにはいられない。由希には世界の汚い部分を知ってほしくないし、苦しい思いで泣いて欲しくもない。俺のこの気持ちが、社会へと成長していく由希をどんなに汚しているかも知っている。 俺は最低だ。 「孝則・・・、あたし」 しばらく無言で歩いたあと、狭い歩道で由希はポツリと言葉を落とした。 「あたし、仕事頑張るから」 「・・・・・・うん」 「ちゃんと働いて、お金貯めて、一人暮らしできるように頑張るから」 「・・・・・・・・・」 頑張らなくていいよ、とここで言ってしまえば兄失格だ。こんな状況でそんな無神経なこと言えるはずない。一人暮らしという単語は、静かに俺の心に突き刺さるようだった。 やがて道は俺達の住むマンションに向かって狭くなっていく。こうして俺が由希と並んで帰路を辿る日々はいつまで続くのだろうか。 「孝則ってさ・・・」 さっきの会話の続きのように由希が言った。 「あたしのことよく理解しているよね」 「・・・おまえ、俺を何だと思ってんの?」 今更なことに、俺は苦笑して由希を見た。さっきまで弱々しい顔をしていた由希は、少しいつものような強気な表情を作って俺を指差した。 「オニイチャン、だからね」 「・・・・・・・・・。うん、その辺の男よりはおまえのこと解っていると思うけれど?」 指された細い指を握って俺は言う。由希はふっと笑った。 「そうだね」 その顔は家族の前では絶対に見せないような神秘的なものに思えて、俺は思わず手で持った由希の指に口付けをしそうになってしまった。 しかし、これも自制心で止めてみせる。一緒にいればいるほど、由希のちょっとした動作は巧妙な手口に思えて惑わされているような気持ちになる。 そのまま俺は由希の人差し指を握ったまま、マンションへ入って行った。
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