遥と付き合い始めたのは一年半前の夏の終わり。 高校生なのに一生懸命に働く彼女はとても魅力的であり、何よりもいい表情を持っていた。忙しいファミリーレストランのホールでも、彼女は常に接客を頑張っていたし、失敗してもすぐにはめげずにさらに上を目指して頑張っていた。 彼女に告白されたとき、確かに俺は思ったのだ。彼女だったら愛してやれる。俺も幸せになれるだろうと。
遥が高校を卒業したとき、遥は進学はしないと言った。しかも就職も見つからないからこのままバイトを続けると言ったとき、俺は嬉しかったが、内心戸惑った。 なぜだか分からない。それは俺の心の中にある醜い感情の警告だったのかもしれない。 「孝則と離れたくないし。こうなったらどこで働こうが同じだし、慣れているバイトだったら気が楽だしね」 遥はその先にある未来まで見つめて話していた。俺も彼女と同じ先を見つめていたかった。でも出来なくて、そんな自分が悔しかった。 なぜこんなにも遥とのズレを感じてしまうんだろう。彼女を裏切ることも出来なくて、大切にしたくて、何も言えずにそのまま俺は遥の隣で遥の目線に立っているつもりでいた。 遥のことは好きだった。彼女を可愛いと心から思った。一緒にいれば安心できた。だけど何が足りないのか知ってしまった。 愛したい気持ちは充分にあるのに、遥に対する激しい欲望は自分でも恐ろしいほどに感じなかった。彼女を抱いても、心はなぜか空虚で、満たされることはない。 俺の中に根付いてしまった醜い感情は、どんなに彼女を愛しても残ったままだ。俺が抱きたいのはただひとりだけ。
限界だった。 彼女の笑顔を見るたびに心が痛んだ。彼女が俺のことを信頼する眼差しで見つめるたびに、罪悪感に溺れた。 「好きな人がいるんだ」 急な別れを宣言する言葉。一瞬遥は喧嘩をしたときのような顔つきになったが、それ以上俺を責めることもなく、すんなりと別れを受け入れた。笑顔で、ごめんねと謝っていた。謝らなければならないのは俺のほうなのに。 「好きな人と上手くいくといいね」 彼女の言葉に俺の心は重くなる。ずっと彼女を裏切り続けてきた罪から俺は解放されることはないだろう。 俺が想う女と上手くいくはずはないのだ。
一人で暮らすマンションは、2DKだが少々古いため、割と安い家賃で住まわせてもらっている。実家は近くにあり、そこから仕事に通えないこともないが、俺は逃げるように家から出てきた。 遥の残像をまぶたに映しながら、水溜りを踏まないように雨の中を歩く。マンションの前に着くと、傘をたたみ、ポストを覗いた。 俺の部屋があるフロアでエレベーターから降りると、そこに長い廊下がある。そこから見える俺の部屋のドアの前に人影が一つ見えた。 泥棒だったら困る。事件には巻き込まれたくない。なんだって俺の部屋の前なんかにいやがるのだ。俺は躊躇いながら少しずつ足を前へ出して歩く。 人影が顔をあげた。すぐ目の前の道路沿いに立つ街灯に照らされる顔。 「あ、孝則!」 俺の胸が打たれたのとその声が発されたのは同時だった。 「由希・・・、おまえこんなところで何しているんだ・・・?」 「急にごめんね。訳はちゃんと説明するからさ、中に入れてよ」 久しぶりに見た由希は、昔と変わらない顔で笑って言った。
言わば由希は俺の妹である。 「あたし昨日が高校の卒業式でさぁ、あたしを雇ってくれるところなくって、仕方ないからフリーターするの。バイト先、家より孝則ん家のほうが近いからあたしをここに置いてよ」 遠慮なくソファーに座り、強気な態度で由希は言う。 「俺にそんなことする義務はないだろう。おまえと一緒に暮らすなんて真っ平だね」 「そう言わずにさ、ここはひとつ妹の頼みを聞いてよ。あ、ちゃんと家賃は入れるよ? それにお金を貯めて、ちゃんとまとまったお金を作ったらひとり暮らしする。それまで仲良くしようよ」 コーヒーを淹れながらしかめ面をする俺に臆することもなく、由希は勝手に今後のことまで語る。 「ねえ、孝則! 一生のお願いだよ!」 「・・・おまえの人生はいくつあるんだよ」 由希と暮らすなんて冗談じゃない。何のために俺が実家を離れて暮らしているのか、これでは意味がない。 「お願いだからさぁ・・・」 ピンポーン。妙なタイミングでチャイムが鳴り、俺は由希を放ったまま玄関まで歩き、ドアを開けた。 「はい、どちら様ー・・・」 「宅配便でーす。印鑑をお願いします」 「え・・・?」 やたら大きな段ボールだ。何の荷物だろう。通販など注文した覚えもない俺は箱の上に貼られた伝票を覗き込む。差出人は大芝由希。 「おい、由希! この荷物は何だよ!!」 宅配便の若いお兄さんを無視して、玄関から俺は大声で叫んだ。 「お兄ちゃん、そんな大きい声出したら近所メーワクだよ!早くハンコ押して押して」 トタトタと走って来ながら、由希は満面の笑みで言う。何がお兄ちゃんだ畜生! そう呼んだことなんてほとんどないくせに。 宅配便のお兄さんを困らせるわけにも行かないので、俺は渋々印鑑を押し、その荷物を受け取った。 俺は嘆息しながら由希を睨む。 「おまえな、いい加減にしろよ」 「だってもう荷物届いちゃったし? お母さんたちも許してくれたし、いいでしょ? よかった、荷物が今日中に届いて。あたしシャワー浴びてくるね。あ、ご飯は食べてきたからいらないから!」 段ボールのガムテープをビリビリ剥がしながら、何の罪もない顔で由希はジャージやタオルを持って、さっさとユニットバスに駆け込んでしまった。 文句を言う相手もいなくなったので、俺は空腹を満たすためにため息をつきながらキッチンへ向かった。
三十分後、由希は長い髪の毛をタオルで拭きながらリビングに入ってきた。さっきは一つに結んでいたから分からなかったが、その髪はとても長く伸びていた。小学校や中学校の頃はいつもショートカットで男勝りだったのに、髪の毛ひとつで変わるから女は怖い。 「いい匂い」 俺がテレビを見ながら作ったチャーハンを食べていると、軽いメイクを落とした顔で無邪気に由希は笑う。 不覚にもその笑顔に一瞬見とれてしまい、俺はつい口を開いた。 「食うか?」 「え? あたしの分も作ってくれたの?」 「いや・・・、食べてきたって言うから作ってねぇけど・・・、俺の食べかけでよければ」 しどろもどろ言う俺に、由希はふっと笑った。 「ありがとう。でも遠慮しておく。夜遅いし、本当にご飯食べてきたから」 先ほどのように挑戦的な笑顔ではなく、少し儚げな笑い方に、俺はドキリとする。 「孝則、あたし眠いんだけど、ソファーで寝ていいかなぁ?」 「あ、じゃあ、俺のベッドで寝る? 俺はまだ起きているし、布団が余分にないんだ」 「・・・なんか孝則優しくない?」 「俺はいつも優しいよ」 調子狂って俺は笑う。 「やっぱり、いつもと違う感じ」 怪しそうな目で俺を伺う由希は急にいたずらな表情に変わる。 「一緒に寝る?」 「ば・・・馬鹿言うな。ほら、さっさと髪乾かしてこないと風邪ひくぞ。俺はシーツ換えておくから」 由希のその言葉は冗談だとしても心臓に悪い。思わず声が裏返ってしまったが、気付かれていないだろうか。 洗面所に向かう由希の後ろ姿を見て、俺は再び大きくため息をついた。 兄妹だから質が悪い。由希にはこれっぽっちも悪気などないのだろうけれど。俺の中には醜い感情が潜んでいる。どうしようもないくらい、心がぐらぐら揺れていて、理性を保つことだけでも精一杯だ。 俺が心から欲しいと思うのは、由希ひとりだけ。
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