それは日常のつながりのなかの、突然の科白だったように思う。 「好きな人がいるんだ」 小雨の降る寒い冬の日だった。いつものバイトの帰り道で、マフラーを巻いた彼が静かに言った。一瞬何のことが分からなくて、私は間抜けな顔で彼の顔を見つめてしまった。 「・・・遥(はるか)?」 「ごめん、ちょっと待って・・・、わけわからない。好きな人って、私・・・じゃないの?」 彼のその言葉はあまりにも信じがたいものだった。私は愛されていると当たり前に思っていたから。 「ごめん・・・」 「・・・いつから?」 私の声が低く険しくなるのが分かった。許せないのは彼ではなくて、むしろ無知で幼稚な自分だ。情けなくて冷たい風が濡れかけた瞳に染みる。 「ずっと、前から・・・」 「何よそれ・・・、他に好きな人がいたのに私と付き合っていたんだ?」 歩道の真ん中で私たちは立ち止まるけれど、言い合いにもならなかった。お互いどこかで諦めていたのかもしれなかった。もう私にも彼を責めるほどの情熱が一瞬にして消えてしまったし、明日からの生活を考えると面倒なことはしたくなかったのだ。 たとえ心を偽ってでも。 「本当ごめん・・・」 「・・・もう、いいよ。気付かなかった私も馬鹿だったしさ、・・・明日からもバイトあるじゃん?」 どこか苦笑したような表情で、私は仕方ないよって笑う。傘を持つ手に力を込めた。 「私さ、まだ高校の頃にここでバイトし始めて、わかんないことばっかりで、でも孝則(たかのり)に色々教えてもらってずっと続けること出来た。まだ制服着てた私が好きって言ったときも、孝則はちゃんと答えてくれて、すごく嬉しかった。ありがとね」 風になびく長い髪の毛を傘の持たない手で押さえながら、私はうつむいたまま言う。 「遥のことも好きだったよ・・・。じゃないと付き合おうなんて思わないし・・・。でも、どうしても忘れられない人がいる。・・・ごめんな」 「・・・孝則は優しすぎるんだよ。もっと自分に我が儘になるべきなんだよ」 私は手袋をはめた右手を彼に差し出した。彼も少しはにかんだように笑って、右手を出して私の手を握った。布越しでも分かる、孝則の温度。もうこれは私の物ではない。 「じゃあ、また明日ね。大芝さん」 もう孝則って名前で呼ぶ必要もなくなる。 「好きな人と上手くいくといいね」 私が大人びた科白を吐くと、彼は困ったように笑った。それは私のわざとらしい科白に対するものだったのだろうけど、どこか苦しげに見えたのは私の気のせいだったのだろうか。
孝則と別れてから急に足が鉛になったかのように、身体が重くなった。 さっきまでちゃんとにっこり大人な笑顔で孝則と別れることが出来たのに、今では冷たい空気も心にヒビを入れているみたいで、胸が痛い。 孝則に告白したのは、まだ私が高校生だった頃、一年半前のこと。遊ぶ金欲しさに飲食店のバイトを始めたはずだったのに、いつの間にか孝則に会うことだけを考えていた。高校卒業してもバイトを続けて、私の未来には当然のように孝則が存在していた。 孝則は私より二つ年上で、私がバイトを始めた頃はもう従業員になっていた。だけど、彼は私はただのバイトだと言わなかったし、私がそれなりに仕事を上手くこなしたら、心から褒めてくれた。彼は枠に当てはまった私を見なかった。いつも私自身を見つめてくれた。 なのに、今まで続いていた大切な日常はこうも簡単に壊れてしまうのだ。 上を向くと街灯に反射した雨がまぶしくて、私は目を細めた。涙が一粒溢れ出た。 外が暗くてよかった。そして、雨が降っていてよかった。私が泣いていることは誰にも気付かれずにこのまま家へ帰れる。私は歩く足を速めた。 孝則は一度も嘘をつかなかったし、一度も私を泣かせることなかった。すごく優しくて、頭を撫でてくれる彼の大きな手のひらが大好きだった。こんなに私は贅沢をしていたのだ。 一度きりの裏切りくらい許してあげなきゃ、私は人間として廃れてしまう。無理やり心の底でそう言い聞かせた。
コートの袖で涙を拭いながら、一人で暮らしている安いワンルームマンションの前にいつもと同じように歩いていくと、階段下大きな物体が転がっていた。 屋根に入った私は傘を閉じて、その物体を覗き見る。低い気温のせいで、吐き出す息が白く震える。 「・・・・・・え?」 傍には誰もいないはずなのに、思わず声を洩らしてしまった。 そこにいたのは、物ではない。人間だったのだ。 「ちょっと・・・、何? どうしたの?」 古いアパートの階段下の電球はもう使い物にならず、私はその人間の顔もよく見えない。耳をすませると、微かに息が聞こえる。生きている。 「大丈夫・・・ですか?」 よく目を凝らすと、その影は全体的に華奢だった。女の子なのだろうか? 私はそっと触れてみる。そして、小さく悲鳴をあげて思わず手を離してしまった。 冷たかった。服は雨で濡れていた。よく考えれば当たり前だった。ちょっとした屋根があるとはいえ、こんなところにずっといたら、すぐに雨風で濡れてしまう。しかもこの低い気温のなか、このままだとこの人は死んでしまう! 私は慌ててその身体をゆすった。 「ねえ、大丈夫!? こんなところで倒れてたらやばいよ!!」 私は必死になって、叫んだ。すると、小さく呻いた声が聞こえた。まだほんの少し意識があると思ったそのとき、私はその手を肩に乗せ、階段を上って行っていた。
よく考えれば、救急車や警察を呼べばよかったのかもしれない。 どうしてそうしなかったのか分からない。あまりに慌ていてそんな常識も見逃していたのかもしれなかったし、もしかしたら私の心のどこかで直感したのかもしれなかった。私が何とかしなければ駄目なのだと。
どこにそんな力があったのだろう。二階の部屋に着くなり私は電気も付けずにその身体をベッドに寝かせた。そして、電気をつけたとき、初めて私は声をあげるほど驚いた。 そこに眠っていたのは、まだ高校生くらいの少年だった。茶髪の髪の毛はびっしょりと濡れていて、白い肌は青ざめていた。私は躊躇したあと、そっと彼の頬に触れてみた。 「熱いっ・・・」 私は慌ててキッチンに行き、冷凍庫から氷を出して袋に入れ、持ち出したタオルと一緒に彼の額にくっつけた。 彼は綺麗な顔をしていた。睫毛の影が頬に映っている。どこから来たのだろう。もしかしたら両親は必死に探しているのかもしれない。 今になって、自分は大変なものを拾ってきてしまったのだと痛感した。
裏切りのあとには、また新しい道がある。 このとき、私の心の中にはもう孝則はいなくなっていて、ただ彼のことを知りたかった。
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