10 明日も明後日も、その次も。



「そういえば数日前、この前居酒屋にいた里菜ちゃんの元生徒って男の子に会ったんだけど」
 何の前触れもなく雅人が言い、里菜は思わず声をあげてしまった。
「え!?」
 偶然すれ違った放課後の学校の廊下、いくら騒がしいからとは言え、里菜のその声は響き、そこにいた生徒から注目を浴びた。それらが去ると、口許を押さえてうつむいていた里菜はもう一度雅人を見て、訊き返した。
「・・・会ったって・・・、どこで?」
「学校の前。そういえば彼、どうしてこんなところにいたのかな。大学生? この辺に大学なんてないし、居酒屋からも離れているのに」
「・・・・・・・・・」
 里菜は息を飲み込んだ。自分に会いに来てくれたのだと都合のいいことを考えた。まだキスマークが消えない首を隠したスカーフに触れた。
「何日前くらいですか、それ」
「えーと、火曜日だから・・・、三日前?」
「・・・・・・・・・・・・」
 だって連絡が来ないままだ。来たなら来たって言えばいいのにどうして。
「なかなか面白いね、彼」
「・・・何を話したんですか」
「宣戦布告ってとこかな。俺も悔しかったし」
「・・・・・一樹のこと、喋ってませんよね?」
 里菜は激しい剣幕で聞いた。何あの二人ー仲いいねー、遠くで女生徒が二人、面白そうにこっちを見ていた。雅人は里菜を促して誰もいない国語準備室まで入った。それでも里菜の表情は変わらない。
「・・・どうして、里菜ちゃん」
「やめてください!」
 里菜は叫んだ。やっと合点がいった。だから彼は荒々しく訊いたのだ。――里菜の大学時代の彼氏って、どんな奴?
 予想もしていなかった里菜の怒りを目の当たりにして、雅人はたじろいだ。
「お願い・・・、やめて、あの子はまだ若いの・・・傷つけないで」
「里菜ちゃん・・・、君は無茶苦茶だよ。彼の気持ちを知っているのか? でも居酒屋で彼が話しかけても無視をしたのは里菜ちゃんだよね・・・?」
「だって・・・」
 里菜はつぶやく。しばらく間を置いて、深呼吸をして覚悟を決めた。
「彼は、あたしの恋人なんです」


 約束の十二時を少し回ったところで、息を切らして琉が走ってきた。
「ごめん、遅くなって!」
「ううん」
 里菜は読んでいた本を閉じて立ち上がった。二人で立ったまま向かい合って、二人して唸った。そんなタイミングさえ可笑しくて、二人して笑った。
「・・・どこに行こう? どこかお店入る?」
「里菜はどうしたい?」
「あたしは・・・・・・」
 琉を見る。一ヶ月前よりも薄着になり、シャツ一枚の間から見える鎖骨とか、喉仏とか、こんなにも正直な自分に呆れさえした。だけど、それはとても寂しかったりもした。ゆっくり話がしたいというのも事実だった。困って里菜は琉を見上げる。
「・・・何、その目。誘ってんの?」
 冗談まじりに琉は苦笑した。途端に里菜の右目から涙が零れ落ちた。琉は慌てたように目を見開き、何よりも驚いたのは里菜自身だった。
「里菜・・・」
「だって・・・、寂しかったよ・・・」
 慌てて手で涙を拭い、里菜は自分で呆れたように笑った。その笑顔がとても切なくて、琉は眉を寄せる。抱きしめたい。今すぐにこの小さな身体を抱きしめて、ずっと守ってあげたいのに。だけどそれは里菜を傷つけることにも繋がるのだと、もう琉も知っていた。
 二人はカフェを出て、夜の街並みを歩いた。金曜日の深夜十二時半。まだキャッチの黒服は大勢いて、街角に立つ水商売の女が輝いて見えた。二人は結局先ほどとは違うカフェに入り、あまり人がいない禁煙コーナーの席に座った。
「火曜日、学校の前で田村先生に会ったんだってね」
「・・・・・・タムラ先生?」
「前、あたしと一緒にいたあたしの大学の先輩」
「ああ、アイツ、タムラっていうの?」
 思えば名前すら知らなかった。そのような相手に馬鹿みたいに嫉妬していた。大人である彼が眩しかった。琉は動揺を隠すようにコーヒーを飲む。
「嫌な思い、させてばかりでごめんね」
 先にそれを切り出したのは里菜だった。
「先輩は、本当にただの友達なのよ。・・・でも琉が嫌だって言うなら、もう二人では出かけない。あと・・・、昔の彼氏のこと、だけど」
 昔の彼氏。そのフレーズが出てきて琉は顔をしかめた。里菜はそれに気付いたけれど科白を続ける。
「・・・理解して欲しい。彼がいたから今のあたしがいるの。思い出は消せないわ。・・・琉だって、今まで付き合った女の子のこと、忘れられないでしょう?」
「・・・・・・・・・・・・」
 里菜には言えない。忘れてもいいくらい里菜のことが好きだなんてただの綺麗事な気がした。こんなに誰かに夢中になったのは初めてだなんて、言ったら里菜はどんな顔をするだろうか。琉は震える唇を持ち上げた。
「・・・俺は、今までろくなレンアイ、して来なかったから。・・・・・・こんなダサい自分、知らなかったから。だから、」
 どうしてこんなに震えるのか。震えの止まらない手をテーブルの下でぎゅっと握って、琉は里菜の顔も見ずにつぶやいた。
「だから、里菜を束縛してしまうかも・・・。そんなときは怒って欲しい。・・・ごめん」
 一度でも誰かを本気に好きになったことのある里菜には絶対に勝てないと思った。きっと里菜は自分よりもずっといい男を知っている。それでも自分を選んでくれた。応えてくれた。その奇跡のような出来事に胸が震えて、琉は頭を下げた。
「琉・・・・・・」
 里菜は琉に顔をあげるように促した。琉はゆっくりと里菜を見た。
「あたし、今は琉が一番好きよ。・・・当たり前でしょ?」
 何度目かにある里菜からの愛情の言葉。それさえ今は一番胸に響いて、涙で視界がにじんだ。琉は慌てて瞬きをし、その涙を取り払う。
「・・・それで? タムラ先生は何か言ってた?」
「うん・・・、琉の気持ちに気付いてたって、すごいね。だから言っちゃった。彼はあたしの恋人ですって」
「え?」
 今までだったら絶対に言えなかった二人の関係を、里菜が親しい先輩に告白したことに琉は驚いた。そして、同時に嬉しさが胸を込み上げる。
 里菜も自分で信じられないという風に笑った。
『彼は、あたしの恋人なんです』
 里菜が小さな声でつぶやいたとき、雅人は戸惑いながらも理解していた。
『やっと頭の整理が出来たよ。矛盾ばかり感じてたから。・・・彼は火曜日、君に会いに来たんだね』
 雅人はそれ以上何も言わなかった。隠していた里菜を責めることも、もう一樹の話題を持ち出すこともせずに、ただ謝った。
『余計なことして悪かった』
 それを思い出し、里菜は琉を見た。
「先輩、謝っていたわ」
「うん・・・」
「それと、琉にもっと男を磨けって」
「・・・了解デス」
 素直に従っている琉を見て、里菜は意外なものを見てしまったと目を細めて笑う。その声につられて琉も笑った。


「ゴールデンウィーク、里菜は休みある?」
「うん。初日はちょっと学校に行くけれど、あとは全部休みよ」
「俺も、初日と二日目はバイトだけど、あとは休みなんだ」
 琉が言うと、里菜は嬉しそうに目を細めた。帰りのタクシーの中。繁華街を出れば外は静かで、タクシーの運転手も甘い雰囲気漂うカップルに口出しはしない。
「どこか行く?」
「あー・・・、でも俺、まだそんなにバイト代溜まっていなくて。だから日帰りでどこかに行ったり、デートをしよう」
「いいわね」
 そういえば、まだ二人は恋人らしいデートというものをしたことがなかった。どこかで人目を気にしていた。だけど、琉が高校を卒業して一ヶ月。そろそろ時効だ。
「それでさ、夏になったら俺、だいぶ貯金が増えていると思うから、旅行に行こうよ」
 琉が目を輝かせて言うものだから、里菜はその無邪気さに嬉しくなった。そうやって、次の季節の二人を考えてくれる琉を愛しく思った。
 きっとこれからも、二人でいる限り、お互いを思って喧嘩をしたりすることもあるのだろう。自分の未熟さを呪って潰れてしまいそうになることもあるかもしれない。二人でいれば強くなれるわけでもない。だけど、お互いの存在が自分を強くも弱くもする。それを糧に、明日からも生きていければいい。いつだって隣にいてくれる存在ではないけれど、こうして無条件に会って、話をしたり抱き合ったり出来ればいい。片想いなんかじゃ絶対に出来ないこと。彼はあたしの恋人、彼女は俺の恋人。それはそういうことだ。
「・・・本当に泊まっていかなくていいの?」
 タクシーが里菜のマンションの前に着き、里菜は琉に二千円渡して琉の顔を覗き見た。琉は首を縦に振った。
「うん、今日は帰るよ」
 深夜二時。疲れていても里菜に触れたい気持ちはもちろんある。だけど、今はこの気持ちを大切に家に持って帰りたいのだ。だって明日もある。明後日もある。未来がある。いつでも会えるのだ。
「そう・・・。じゃあ、おやすみ」
 里菜はそう言ってタクシーを降りた。琉がその姿を見届けようと目をあげると、首に巻かれたスカーフが目に入った。
「里菜」
 ドアを閉じようとした里菜に琉は声をかける。里菜はその声に気付き、車内に顔を寄せた。
「何・・・?」
「今度は優しくする。だからそのときにキスマーク、付け直していい?」
 イタズラ顔で小さく言うと、里菜は顔を赤らめて馬鹿、と言った。それがとても可愛くて、やっぱり別れたくなくなるけれど、今度こそ挨拶をしてドアを閉めた。
 タクシーは琉の家に向かって走り出す。
 家に帰ったら母は起きているだろうか。まさかそれはないだろうけれど、もし明日、どうして今夜遅くなったのか訊かれたら、気まぐれに里菜の存在を明かしてみよう。あまり興味を示さないかもしれないけれど、それでもいい。
 そして、明日学校に行ったら健一に今日のことを謝って、里菜のことを告白してみようと思った。どんな顔をするのか想像つかない。健一のことだから分かってくれそうな気はする。だけどやっぱりすぐには理解してくれないかもしれない。それでもいい。
 誰がなんと言おうと琉と里菜は恋人。それだけが揺ぎ無い事実。とても脆くて儚いその関係を、ずっと大切にしていこう。
 学校とバイト、そして里菜を繋ぎとめられたことに対する安堵感、全てに心地よい疲労が襲って、琉はタクシーの窓に寄りかかって目を閉じた。


あとがき       
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