9 やっぱり・・・



 琉のヒトリゴトのような疑問に健一と皐月が目を丸くした。
「え・・・? 琉、なんて言ったの、今?」
「だから、三角カンケイとはいかなるものか、と」
「・・・どうしたの?」
 騒がしい食堂で、異常なほど遠い目をした琉を相手に健一は顔をしかめた。
「琉クン、正直に吐いちゃいなよ。健一はちゃんと聞いてくれるハズだよ?」
 皐月が健一の隣でいい、琉は皐月を一瞥したあとため息をついた。たかだか数日付き合っているだけで知っている顔をされたくないと思った。健一との付き合いは琉のほうが長く、若いからこそ許されるであろう無茶もしたのだ。親友と呼べば大げさかもしれない。この関係に名前なんてない。だけどそれは裏づけでしかないことも多く、そもそも議題にするべきことは他にあって今はそんなことはどうでもいい。
「・・・・・・皐月ちゃん。悪いけど席外してもらえる?」
 健一が隣に座る皐月にそう言い放った。あ、怒る。琉がそう思ったのも束の間、皐月はにっこりと笑って席を立った。その裏に燃え上がるような怒りを隠して。大丈夫かこの二人。追い詰められたときほど余計なことを考えてしまう。
「健一」
「ん?」
 皐月の姿が見えなくなったのを確認し、琉が口を開くと、テーブルに肘をつきながら健一は琉の言葉を待った。
「おまえ、皐月ちゃんの昔の彼氏、知ってる?」
「・・・知ってるわけ、ないだろ?」
「もしそいつが品行方正で完璧な男だったらどうするよ?」
「・・・別に」
 健一は興味なさそうに水を飲み干した。期待を裏切るような返事に琉は身を乗り出した。
「別にっておまえ! 愛はあるのかよ? 皐月ちゃんのことちゃんと好きなのか?」
 琉のその言葉に健一はグラスを静かにテーブルに置き、琉を見据えた。
「・・・あのさ。俺、おまえにそんな説教される筋合いないよなぁ? 昔おまえが何をやったなんて俺、全部覚えてんぞ。・・・好きなのか? 好きに決まってるだろ。それで満足かよ?  おまえは今まで何人の女に好きだって言ってきたよ? 好きだけじゃおさまり切れないんだよ。自分がどんな『好き』だという感情を持っているかなんて分からなくて・・・、おまえはそれを自信持って言えるのかよ!?」
 健一が、キレた。
 その棘のような言葉ひとつひとつ、今までであれば流せたものを琉は全て痛みとして受け止めざるを得なかった。それは素直に罪という形で容赦なく琉を責めた。そう、間違っていた。若いからって許されることではなかった。
 里菜に出逢って、里菜を好きになって、忘れかけていた。全てゲーム感覚で遊び狂っていたあの頃。どこかで自分は女に好かれていると自覚していた。それを誇りにも思っていたし、それさえあれば寂しくないと思っていた。女のほうも遊びだと分かっていたからこそ軽いノリで付き合ってみたりした。だけど、彼女たちのなかで全員が遊びだったなんて証拠はなく、傷つけていないとは言い切れなかった。
 人間性を疑われるような出来事全てに蓋をして、今まで涼しい顔をして里菜に接してきたことを今になって琉は恥じた。
 普段穏やかな健一がキレたのを今までも何度か見たことあったが、琉がこれほどダメージを受けたのは初めてだった。琉は目も合わせることも出来ずに、俯いたまま「ごめん」とつぶやいた。そんな自己満足な謝罪で、過去が変わるならどれだけ楽だろう。
「・・・・・・琉」
 そんな琉を見て、健一は低い声でつぶやいた。
「いい加減にしろよ」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・俺はそこまで熱くなれる相手に出会えたおまえが心底羨ましいよ」
 意外な健一の言葉に、琉は顔をあげた。目が合うと健一は面白くなさそうに整った顔を歪めた。
「レンアイなんて、相手がいないとどうにもならないし・・・、好きだって思ってもそれが本当に恋愛ってモノに繋がるのかすら分からなくて・・・、おまえはどうしてそれが分かるんだ?」
 逆に質問されてしまい、文句のひとつを言いたかったが、琉の中には先ほどの反省の余韻が残っているせいでただ首を横に振ることしか出来なかった。
「・・・俺だってそんなこと分からない」
 ただ確かなのは感情という名の熱だった。それが自分自身を焦がし、心に激しい症状をきたす。ずっとその熱が琉の心の中で燃え続けていた。そこにはきれいなドラマが繰り広げられるわけではなく、見えない影に怯えて嫉妬をすることもある。まさに今の状況だ。
 たかだか十九年近く生きてきただけで、他人の心が読めるようになるわけでもなく、誰かを大切にする方法なんて分からない。分からなくて当たり前だったのだ。なのに勘違いをしていた。か弱い里菜一人くらいなら簡単に守れると勘違いして、ヒーローを気取っていた。
「さっきの質問に答えてやるよ」
 健一は言った。
「皐月の元カレがどんな奴であろうと関係ないね。今は俺が皐月の彼氏って奴なんだし、そこに責任ってものを持つしかないだろ?」
 それを聞いた琉は小さく笑った。


 夕方、数学準備室であるクラスの宿題のチェックをしていると、ドアが開いた。
「失礼しまーす」
 どこか懐かしい声だと思って里菜は顔をあげた。
「・・・七岸さん!」
「里菜先生、お久しぶり!」
 ドアの前に立っていたのは私服姿の七岸優子だった。彼女は琉と同じクラスの委員長であり、琉ともクラスメイト並みに仲がよかった生徒だった。そして、琉の里菜への気持ちに気付き、あえてそれを琉本人に指摘した唯一の人間とも言える。
「驚いたわー。どうしたの?」
「友達と一緒に遊びに来たんだけど、やっぱり私は里菜先生に会いたかったし」
「泣けること言ってくれるじゃない?」
 真っ黒で長かった髪の毛を短くし、ピアスが光り始めた耳がかすかに見える。そこだけは変わったけれど、あとは何も変わらない元生徒に妙に安心しながら、里菜は微笑んだ。
「・・・先生」
「何?」
「・・・もしかして、疲れてる?」
 優子の質問で、里菜の顔から笑みが消えた。数秒置いたあと、「そんなことないわ」と里菜は再び笑うが、目敏い優子に通用するわけがない。
「長野くんと何かあった?」
 突然の尋問に、予想もしていなかった名詞が出てきて里菜は声を詰まらせた。
「えっ・・・」
「あーあ、やっぱりね」
「ど、どうして・・・」
「先生には言ったことなかったっけ? 私、知っていたんだよ? 長野くんの気持ちも、先生が授業中に長野くんを気にしているのも。長野くんはそれどころじゃないって受験頑張っていたけれど、それも里菜先生のためでしょ?」
 優子が二人の関係を疑っていたことは、琉は知っていたけれど里菜は初めて聞かされたのだ。見えない圧迫感に押されて、何も言えなかった。
 今となっては責められる関係ではない。彼がまだ高校生のときに一度寝てしまったことはやはり罪深くも思うけれど、今は恋人という関係を手に入れたのだ。だけど。
「七岸さんは、両想いより片想いのほうが楽しかったって思ったことない?」
「・・・・・・ありますねぇ」
「あたし、多分、今そんな感じなのかもしれない」
 独り言のように里菜はつぶやいた。
 恋人という関係を手に入れても、苦しいだけだった。例えるなら今までの苦しみは、相手が自分の方向に向いてくれているかどうか不安だという、どこか懐かしい感情。最近は、二人してどこに向けば分からなくなる闇雲だった。
 結局、どこまで行ってもエンドなんてない。幸せになってもそれがほんのわずかな時間で終わるような気がして、それも怖い。
 分かっていたくせに期待していたのだ。あの夜――卒業式の日の夜、琉の肌に触れて最高に幸せだと思った。涙が出るほど幸せで、きっとこれから何があっても二人で生きていけるのだと何の確証もないくせに強くなれた気がした。・・・強くなれたらよかった。
「でも先生、やっぱり両想いのほうがいいと思うな。私から見ればそんなのって両想いという願いが叶った人間の傲慢だよ」
 優子が正直に厳しい言葉を投げつけてくる。そんなこと分かっていると思った。いつだって逃げてばかりで、昔を振り返る。琉が生徒でいたあの頃が楽しかったと今だから言えるのだ。当時の苦しみなんて今の自分が百パーセント理解できるわけがない。思い出は美化されるからだ。
 センター試験のあとのあの妙な浮遊感の中で夢見た日々は、こんなものではなかったはずなのに。


 携帯電話の着信履歴とメールの受信ボックスを見て、もう四日も連絡とっていないことを知った。あの夜は月曜日、今日は金曜日。付き合い始めてからそんなに連絡を絶ったのは初めてだった。
「長野くん、聞いてください!」
 制服に着替え終わった和歌奈が今までにないほどの笑顔で話しかけてきたものだから、無視をするわけにはいかなくなり、琉は和歌奈に顔を向けた。
「何?」
「あたし、彼氏が出来ましたっ!」
 なんだ、そんなことか、と琉は座っていた椅子からずり落ちそうになった。だが、あまりにも嬉しそうに言う和歌奈を見て羨ましいとも思う。和歌奈は琉とは同い年で、近くの短大の一年生らしい。誰かに恋をしたばかりの頃はひとつひとつの出来事が衝撃的で、想いが叶う日を夢にみる。そして、それが叶ったら他に何もいらないと勝手にゴール地点を作ってしまいがちだけど、結局恋人だって他人同士で、どんなに願っても相手は自分のものにはならない。そんな暗い思考を捨てて意気揚々に話す彼女を見て、琉も自分も幸せになれた気がした。
 バイトの時間が始まって、二人はホールに出た。午後六時。
 金曜の夜でも今日は宴会予約もなく、まだ客が少ない時間帯だ。五月からのシフトが出ていて、琉はそれを眺めた。五連休のゴールデンウィーク、初日と二日目の夜はバイトが入っているが、その他は有難いことに休めそうだ。そんなシフト表を出したのは確かに里菜を思ってのことだった。何があっても里菜を好きだというのは変わりがないのだ。
「いらっしゃいませー」
 だいぶ客が入ってきた午後八時前、自動ドアが開いたことに気付き、琉は空いたグラスを持ったまま叫ぶと。
「一名・・・、なんですけれど」
「・・・一名様、ですね? 少々お待ち下さい。ただいまご案内します」
 そこにいたのは、里菜ひとりだった。一度家に戻ってから着たのか、Gパンに流行りのキャミソールの上にピンク色のカーディガンを羽織っている里菜いつもより若く見えた。琉はグラスを落としそうになりながら、正常心を保つ。
 里菜は他の店員に案内され、カウンターに一人で座った。ここは親父が集まるような居酒屋でもないし、スナックでもない。一人だなんて居心地が悪いに決まっている。
「先にお飲み物をお伺いしてもよろしいですか?」
 琉は他の店員が彼女の前に行かないうちにさっさとグラスを片付け、里菜の前に立った。里菜は光の少ない瞳で琉を見上げた。
「・・・カシスオレンジ」
 メニューも見ずにそう告げる里菜を見て、思わず琉は小さく笑ってしまった。
「好きなんですか? カシスオレンジ」
「というか、これしか飲めないんです」
 不自然な丁寧な会話で、でもお互いがちゃんと目を合わせて話したのは実に久しぶりな気がした。抱き合った四日前の夜よりもお互いを近くに感じるのは何故だろう。
 鼓動が速まる。胸がドキドキする。それはまるで片想いのときのように、だけどそれ以上に相手が自分を見てくれるって分かっているから、小さな幸福感で胸が躍る。
 琉はカシスオレンジを作って里菜の前に置いた。里菜はありがとうと微笑んだ。そんな笑顔を見ることが本当に久しぶりに思えた。最後に見たのは里菜の眠った顔だった。そこには密かに悲しみが存在していて、罪悪感でいたたまれなくなった。だけどどんな顔で里菜と一緒に朝を迎えればいいのかも分からなくて、逃げるように部屋を出た。
「こんな店じゃ、お一人だと逆に辛くありませんか?」
「・・・そんなことないです。会いたかった顔を見ることが出来たから」
 カクテルを少し飲んで、里菜は泣きそうな笑顔でつぶやいた。自分のことなんだと琉は思った。どう考えても自分に当てはまることがこの上なく嬉しくて。それが信じるということに繋がるんだと思った。
 里菜はまっすぐに琉を見つめ、小さな声で囁いた。
「今日、何時に終わるの?」
「十二時だけど・・・」
 急に、琉の彼女としての里菜の表情になり、やっぱり彼女がいないと駄目なのだと琉は思い知った。彼女を手離せるわけがない。
「少し飲んだら、店の前のカフェで待っていてもいい?」
「え・・・、でも遅いぞ?」
「明日は土曜日だし、・・・琉と話したいのよ」
 睫毛を伏せてそうつぶやいた里菜を、今すぐに抱きしめたいと思った。今度はもっと優しく触れたいと思った。
「分かった。待ってて」
 琉が答えると、里菜はにっこりと笑った。まっすぐに自分を見つめるその視線は教壇に立っているときの彼女のそれと似て、とても強い眼差しだった。それが自分だけに向けられていること、それがくだらない独占欲だとしても嬉しかった。
 好きだという感情の種類なんて分からない。健一のように難しいことを考える間もなく、感情があふれ出す。やっぱり片想いのときよりも、相手に触れることの出来る権利を得た今が、幸せで切なかった。自分をここまで狂わせる人に出会えたのだから。


      
Copyright 2006- パンプキン All Rights Reserved.
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送