8 雨上がりの交差点で



 里菜の部屋にやって来た琉は里菜を荒々しく抱いた。里菜はその怒りを包み込むかのように、抵抗せずに琉を抱きしめた。深夜二時半。
「琉・・・」
 里菜が琉の名前を呼び、その髪に触れるけれど琉は里菜に背中を向けたまま何も動じない。里菜は何度もその髪に触れ、寂しさを紛らわす。
 居酒屋の彼を見て、ずいぶんと琉が遠く離れてしまったように感じた。自分は何も変わらないままの生活を送っているのに、琉はいつも前に歩いていた。年齢という面で自分のほうが前にいると思っていたけれど、いつか追い越されてそのうち置いていかれるんじゃないかと訳の分からない虚無感に襲われた。
「・・・・・・あの男、誰」
 ずいぶんと時間が経っていたのでもう寝たのかと思っていた琉が低い声でつぶやき、里菜は慌てて手を引っ込めた。
「起きてたんだ・・・」
「俺は質問しているんだけど」
 琉が寝返りを打って里菜を睨んだ。里菜はため息をついた。
「大学時代の先輩よ。今年からN高に来て久しぶりに会ったから飲みに行ったけれど・・・、別にそれだけよ」
「里菜の大学時代の彼氏って、どんな奴?」
「・・・・・・どうして」
 突然の話題に里菜は小さく声を震わせた。もちろん琉にそれを語ったことなど一度もない。
「・・・別にそんなことどうでもいいけれど」
 そこまで言って、琉はやっと笑みを零した。里菜の首筋に触れる。
「痛い?」
「えっ」
「真っ赤」
 琉が指で触れたのは、琉が里菜の首筋につけたキスマークだ。里菜は目を閉じた。悲しくなった。こんなに近くにいるのに、確かに抱き合ったのに、琉を近くに感じない。
「もう寝るわ」
 里菜は寝返りを打って、琉に背中を向けた。背中に全神経が集まったようで、この体勢も苦しい。だけど琉の顔を見るのはもっと苦しかった。琉に聞こえないように里菜は涙を流し、鼻をすすった。


 翌朝、鏡で首を確認するとやっぱり跡は大きく残っていて、里菜はスカーフを巻いた。早朝に琉は帰ってしまった。その物音に気付いたくせに、寝たふりをしていたから挨拶はしていない。そうやって何かを誤魔化している自分を、里菜は必死に押し隠した。
 マンションを出ると雨が降っていた。余計に憂鬱になる。
「藤峰先生、おはようございます」
 学校に着き、職員室に入ると朝霞に会った。
「おはようございます」
「琉は元気ですか?」
「・・・会っていないんですか?」
 親戚なのに、と奇妙に思いながら訊き返すと、朝霞は苦笑した。
「卒業式以来会っていないですよ。親戚なんてそんなものです」
「そう、ですか・・・」
 確かに、自分も親戚にどのくらい会っていないだろう。それどころか両親にも正月以来会っていないのだ。血のつながりなんてそのくらいなものだ。朝霞と琉を見ているとそれを忘れてしまうような絆を感じていたのだが。
「琉の母親はね・・・、俺の姉ですけれど、あまり琉に干渉しない親でね」
「・・・はぁ」
 突然の身内話に里菜は眉をひそめた。何が言いたいのだろうかと朝霞の次の言葉を待つ。
「琉はそれをいい事に中学も高校も遊びまくっていましたけどね、でもきっと、どこかで寂しかったのかもしれません。だから年上のあなたに惹かれたのかな。我が侭な甥ですが、どうか琉をお願いしますね」
 朝霞の言葉に里菜はうなずき、自分の席について朝礼を待った。携帯電話を見るけれど何も届いていない。黙って出て行かなくたっていいじゃないって今頃泣けてくる。出て行く琉に気付かない振りをしていたのは自分も同罪なのに。
「里・・・藤峰先生。おはようございます」
 里菜の机の前を通りかかった影を見ると、雅人が微笑んだ。
「おはようございます。あの・・・昨日はすみませんでした」
 他の教師に聞こえないように小声で言うと、雅人は首を横に振った。
「それより、元気になったようでよかったよ」
 そう言い残して、雅人は職員室の中でも離れた場所に歩いていく。それを見て、里菜はゆっくりと息を吐いた。


 雨の日はとても不便だ。校舎から別の校舎に移動しなければならないときはとても面倒で、それを理由に授業をサボる同級生もいたが、琉はそれが出来なかった。基本は生真面目なのである。傘をさしてキャンパスを歩いていると後ろから呼ばれて振り返った。
「・・・健一か。何、どうした?」
「見てコレ、俺のカノジョ。皐月(サツキ)ちゃん」
「初めましてー、琉クンですよね? お話は聞いてまーす」
 いかにも健一の好きそうな女が健一の隣で、舌っ足らずな言い方で笑った。アイラインが濃くて、どこから目なのか分からない。でも確かに可愛い。絶対付き合いたいとは思わないけれど。昔から健一とは女の趣味が異なり、だから仲良くいろんなことを出来たのかなと今になって思う。
「コレ呼ばわりかよ」
「だからさ、琉も今度カノジョ紹介してよ」
「えっ、琉クン、カノジョいるのー?」
「いるよね? 俺に隠さなくたっていいじゃん」
 いつになく真剣な健一を見て俺は後ずさった。鞄を握り締める。
「・・・俺、次の講義行くから」
 そう言って二人を残して校舎に向かった。どうして隠してしまうのだろう。罪悪感は拭いきれない。それでもどうしても言えない。
 昨夜、いきなり手荒く里菜を抱いてしまったことにも胸が痛む。心と身体は時々別の生き物のように存在する。そんなとき、双方が琉を苦しめる。琉自身がどちら側に属するのか分からなくなるのだ。好きだという感情は確かにあるのに、言葉にしてしまうとあっけなくて物悲しい。


 午後の二コマの講義が終わり、午後五時。雨は上がっていたが、蒸し暑さがまだ残っていた。
 バイトまでまだ少し時間あるので、琉は遠回りして歩いて里菜の働く高校の前を通ってみた。正門からはちらほらと生徒が出てきて、それぞれの家に歩いていた。ほんの二ヶ月前までは自分もここの生徒で、当たり前のようにあの制服を着てあの正門をくぐっていた。卒業式のときはそれを実感していなかった。今になって懐かしいと分かった。
 少し眺めていたら、正門から見覚えのある男が出て来た。琉は慌てて目を逸らし、バイト先のある街の方向に向かって歩いた。あいにく渡ろうとする交差点の信号は赤で、琉は立ち止まる。そのとき、
「あれ?」
 背後から昨日聞いたばかりの声が降ってきた。
「君は・・・、昨日の居酒屋のバイトの子だよね?」
 琉は振り向いた。確かに相手は昨日里菜と一緒にいた男だ。確か里菜の大学の先輩。琉は怯みを見せずに彼を見据えた。
「・・・こんにちは。昨日俺は制服だったのに、よく分かりましたね」
「そりゃ、顔を覚えなきゃやっていけない職業だからね」
 相手は悪気もなく微笑む。琉は信号を見た。交通量の多いこの信号はまだ変わりそうもない。
「あんたさ・・・」
 自分の意識しない内に口が喋っていて、琉自身が驚いた。雅人も突然の琉の豹変に目を丸くする。
「あんた、今も藤峰センセイのことが好きなの?」
「・・・・・・もしかして」
 雅人も負けずと琉を見た。
「昨日も少し思ったんだけど、君は里菜ちゃんのことが好きなのか?」
 琉の質問には答えず、追い討ちをかけた雅人は勝気に笑った。先ほどとはまるで表情が違う。琉以上の豹変振りだった。
「里菜ちゃんと君なんて釣り合わないよ」
「どうしてそう言い切れる?」
「俺は里菜ちゃんの昔の彼氏を知っているからさ。彼ほどのいい男を俺は知らない。君も里菜ちゃんに惚れているならまずは男を上げることだよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 耳に届く車の小さなブレーキ音。そして流れが変わる交差点。信号は青になったのだ。分かっているのに足が動かない。アスファルトの濡れた匂いがまだ鼻について、琉は気持ち悪くなった。
 そんな琉の様子を楽しそうに見つめた後、雅人は琉の肩をポンと叩いたあと、その交差点を渡って行ってしまった。はっと我に返って琉も横断歩道を渡ろうとしたが、すでに信号は赤に変わっていた。
「・・・くそ」
 舌打ちをして、拳を握り締めた。再び車が目の前を流れ出す。


 受話器の向こうからわざとらしいため息が聞こえた。
『里菜ー、あたしから言わせてみれば、それってノロケにしか聞こえないんですけれど?』
 小夜がつぶやく向こうではテレビの音がかすかに響いていた。小夜も里菜と同じく一人暮らしをしている。その音は里菜と同じで、どこか寂しさが漂っていた。
『修羅場があってもその日のうちに彼氏来たんでしょー? 何がご不満なの?』
「べ、別に修羅場じゃないもん」
『立派な修羅場デス。しかも雅人センパイ! 奴には気をつけろよ』
「何を気をつけるの? せっかく再会したんだもん。別に元カレってわけなんじゃないし。やましいこともないのよ?」
『それは里菜の主観でしょー?』
 小夜は里菜と同じ大学に通っていたわけではないが、里菜を通して里菜の大学の友達とも交流があり、もちろん里菜の元彼氏のことも知っていた。雅人とも面識がある。
 里菜は腹が立っていた。何も悪いこともしていないのに、どうして琉は怒っているのか。もちろん自分に非があることも分かっているし、何も話していないことに躊躇いもある。だからと言って、琉だって里菜を雅人の彼女呼ばわりしたり、急に元生徒を名乗ったり、酷いことをたくさんしたじゃないか。
 学校での仕事もほどほどに、家に帰ると小夜に電話をしてさっそく愚痴をこぼした。小夜は面白そうに話を聞いていた。いつだって人の恋の話は楽しい。当事者にとっては笑えることでもなんでもないのに。
「・・・小夜」
『うん?』
「最近ね、一樹のことを思い出すの。どうしてあたしはあの手を離しちゃったのかなって、そればかり考えてしまうよ。・・・どうしよう。あたし、琉のことも大事なんだよ。もう失いたくないんだよ。なのに・・・、あたし、昔から何も変わっていないよ」
 受話器を持つ手が震えた。涙が流れて、携帯が濡れた。
 いつだって、目の前のことから逃げてしまう。苦しいことに蓋をして、違うことに走って行ってしまう。三年前、就職のことや試験のことを理由に里菜は一樹を手放した。
 そして、今は琉と向き合うことから逃げていた。あんなに憧れていた恋人という関係が、今はとてつもなく儚く思えた。
 部屋の蒸し暑さを感じて携帯電話を握ったまま、里菜はカーテンを開けて窓を開けた。まだ少し肌寒い。マンションの六階の一室だというのに、アスファルトの匂いを感じた。
 受話器の向こうから『大丈夫?』と小夜の声が聞こえて、里菜はうなずいた。
 また明日は雨になるのかもしれない。


      
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