7 微妙



 雅人から一緒に飲みに行かないかと言われたとき、里菜は素直に喜んだ。雅人と喋っていると学生時代を思い出す。それでも学校は職場であり、そうそう二人で話している場合ではない。だからこそ、誘ってもらったときはとても嬉しかったのだ。
 どこがいいかと訊かれ、任せると答えたら雅人の気に入っている居酒屋に連れて行ってもらった。それこそ学生時代を思い出すようなお洒落な居酒屋で、茶髪の若くて可愛い女がカウンターまで案内してくれた。
 入っていたサークルはみんなでボーリングをしたりカラオケに行ったり、いわゆる飲み会目的のサークルだった。友達に誘われたときはあまり気乗りしなかったが、おかげで違う学科の友達も増えたし、恋人も出来た。このような雰囲気の居酒屋は当時を鮮明に思い出す。
「里菜ちゃん、何飲む?」
「あたしはカシスオレンジで」
「もしかして相変わらずビールは飲めない? この間の飲み会では飲んでいたけれど」
「仕事で飲むときは、一応飲みますけれど・・・、本当は苦手です」
「そうなんだ。じゃあ俺はジントニックにしよう」
 里菜に合わせたのか、雅人もカクテルを頼んだ。そして待つこと四分。
「お待たせしました」
 聞き覚えのある店員の声に顔をあげた。目を疑った。どうしてここに。
 その二秒後に琉が里菜に気付いたようだった。接客スマイルが崩れていくのを里菜は見た。里菜と雅人の間には何もやましいことはない。だから何も考えていなかった。例え二人きりになってもそこに男女という関係は存在せず、だからこそ里菜は今更なんてことをしてしまったのだろうと思った。何も言えずにいると、琉は再び笑顔になって言った。
「恋人限定のメニューもこちらにございますので、どうぞご利用ください」
 里菜は俯きかけていた顔を再びあげた。そして琉を睨みつける。
 あんまりだった。酷すぎる。どうしてそんなことを。だけど、この場では何も言えない。琉は店員で、仕事中で、何よりも雅人の存在が気になった。そして、さらに謎が深まる。
 別に琉を恋人だとここで言ったって、もう以前のような障害など何もないのに、どうして躊躇ってしまったのだろう。
「それでさ、俺と同い年の英語科の田中っていたじゃん? アイツがさ・・・、・・・・・・里菜ちゃん、大丈夫?」
「えっ・・・」
 雅人に顔を覗き込まれ、里菜ははっと我に返った。
「酔った?」
「いえ・・・」
「里菜ちゃんは昔から酒に強くないからなぁ」
 無邪気に雅人が笑い、里菜は俯いた。反対側のカウンターでは琉が数人の女の客と話しているのが見える。あんなに笑顔の琉なんて見たことがない。接客業なんて出来る性格だと思わなかったのに、自分の知らない琉がそこにはいた。


 学生時代の話をしてもあまり笑わなくなった里菜を見て、雅人はもう帰ろうと優しく言い出した。
「え、でも・・・」
「疲れていたんだね。なのに誘ってごめんね」
「いや・・・、あの・・・」
「また今度、疲れていないときにでも誘っていい?」
 席を立って、レジに向かう。ありがとうございまーす、と店内に声が響く。雅人の背中をぼんやりと見つめたまま歩いて行くと、レジの前には琉が立っていた。
「ありがとうございます。伝票お預かりします」
 いつまでも他人行儀の琉を見て、里菜は口許を押さえた。感情が抑えられない。
「・・・里菜ちゃん?」
 目に涙を浮かべる里菜に雅人が近づいたとき。
「―――触るな」
 レジの向こう側から出てきた琉が里菜の腕を掴んだ。
「・・・知り合い?」
 不審そうな顔をして雅人が里菜に訊いた。里菜はうつむいたまま何も答えない。雅人は琉を見た。
「君は、誰?」
 琉は里菜から手を離して雅人を睨みつける。雅人の視線は穏やかなものであるのが癪だ。同じくらいの身長なのに、何故か見下ろされているように感じた。琉はぎゅっと拳を握って口を開いた。
「藤峰センセイの、元生徒」
「へえ! じゃあ君はN高の卒業生なんだ!」
 里菜と居酒屋の店員の意外な関係に単純に目を丸くしている雅人の横で、里菜が大きな目で琉を睨んでいた。何をされたって琉は何もしない。勝手に男と二人で飲んでいるのは里菜のほうなのだ。フォローでも言い訳でも、したいなら勝手にすればいい。
「お会計は七千五百六十円になります」
 そこで里菜は慌てて財布を出し、中から一万円札を一枚取り出した。
「り、里菜ちゃん? いいよ、俺が出すよ」
「いえ、そういうわけには!」
 里菜は一万をレジの横に置いたあと、琉の顔も見ないまま店を飛び出した。
「・・・君、本当に里菜ちゃんの元生徒?」
「里菜チャン呼ばわりなんですか? センセイの彼氏ですか?」
 皮肉を込めて言ってやると、雅人は屈託のない顔で笑った。
「ははっ、違うよ。出来ればなりたかったけどね」
「え?」
「・・・でもなれなかった。里菜ちゃんには大学内の違う男のことしか見えていなかったからね」
 顔をしかめる琉には気付かないのか、雅人はふっと視線を落とした。
 もう声も出ない。皮肉どころか、店員としての普通の会話すら出来なくて、ただ呆然と雅人の背中を見送った。


「里菜ちゃん!」
 雅人が里菜の後を追ってきた。里菜はどこに向かうわけでもなく、ただぼんやりと歩いていた。
「里菜ちゃん?」
「・・・・・・・・・・・・あ」
 急にあの夜を思い出した。とてつもなく断片的に、そして、琉の手の温もりを思い出した。思えばあれが始まりだった。
「せめて割り勘ね」
 そう言って、千円札を四枚握らされる。
「さっきの男の子、生徒だったんだって? 挨拶しなくてよかったの?」
「・・・・・・はい」
 ぼんやりと答えて、里菜はただ街のネオンを眺めた。
「里菜ちゃん、どうして」
 横で低い声でつぶやく雅人に振り向く。静かにその続きを聞いた。
「どうして一樹と別れたんだ?」
「・・・・・・・・・・・・」
 里菜は雅人の顔を見上げた。とても真剣なその顔つきと再び聞いた懐かしい名前に、少し戸惑う。
「・・・就職先がね」
「うん?」
「就職先が、バラバラだったんです。彼は実家が東北でしょう? 実家に帰りたがっていたの。でもあたしはここに残りたかった。彼にしがみつきたくなかったし、あたしもそれどころじゃなくて・・・・・・」
 里菜は千円札を財布に入れて、小さく笑った。
「今日はありがとうございました」
「いや・・・」
 里菜のわずかな笑顔に雅人ももう何も訊けず、二人は無言で駅に向かい、お互い別れた。電車の中で窓に映る自分の姿を見て、里菜は目を瞑った。
 一樹への想いすら思い出してしまって、胸が苦しくなった。


 バイトが終わって携帯を開くと、里菜からメールが来ていた。

  ごめんなさい。話がしたいです。バイトが終わったら電話ください。

 それだけだった。彼女が酔いつぶれていたときの謝罪は、なんだか心温まるものだった。しかし今は、それどころか余計に心臓が熱を持ったかのように震えて、怒りが込み上げる。
「長野くん、これから暇ですか?」
 着替え終わった和歌奈がミュールのかかとを鳴らして高い声で言った。
「・・・なんで」
「梅田さんがバイト上がりの人たちでこれから飲みに行こうって。行きましょうよ、長野くんがいないとつまんない」
「別に俺がいなくたって・・・」
 そう言いかけたが、先ほどの里菜を思い出して再びイライラした。
「行くよ」
 こっちだって勝手にやってやる。電話なんてしてやらない。


 数ヶ月前までは、片想いしているようだった。いつだって一方通行で、そういう不安があった。だけど、やっとお互いに教師と生徒という呪縛から逃れられて、堂々と街を歩けるというのに、不安はなくならなかった。
 どうにかプライドを捨てて、皮肉を込めて「元生徒」を演じてみたけれど、それでも胸の中はすっきりとしない。里菜に睨まれても、何もおさまらなくて。・・・じゃあどうすればこのイライラから抜け出せるというのだろう。この微妙な空気から、そして中途半端な自分の気持ちから。
「長野くん、飲んでますかー?」
「飲んでるよ」
「まだまだ足りないんじゃない? すいませーん、ビールひとつお願いします!」
「いや、俺、もうこのくらいでいいですから!」
 もうとっくに真夜中を過ぎているというのに、居酒屋はまだ賑わいを失くさない。店員にビールを注文する梅田に琉は声をあげた。
「私、知ってますよ、長野くん」
「なんだよ?」
「今日かウンターに座っていたカップルの女の人、すっごい気になっていたでしょー?」
「はっ?」
 唐突な和歌奈の科白に琉はビールを噴出しそうになった。
「な、なんで・・・」
「あ、アタシも見たよ。ああいう女が好みなの?」
 梅田も和歌奈の言葉に便乗して笑った。鋭すぎる。的確だからこそ何も答えられず、琉は他にもっと人がいればと願った。店長などはまだ店に残っているし、厄介な女や大人しい男に囲まれて今更居心地が悪くなる。
 もう一度携帯を取り出して見た。メールが届いている。慌てて開いてみたら、健一から明日の講義についての内容で気落ちした。怒っているくせに期待している。馬鹿みたいだ。
「俺、帰ります」
「えー、なんでー?」
 やられキャラがいなくなる寂しさからか、残念がる梅田たちを見て琉は席を立った。
「親が心配しますので」
「何、家厳しいの?」
 さすが、高校時代の友達とは違って知り合ったばかりの人間の新鮮な反応。琉の嘘に気づくどころか、それ以上誰も何も言えなくなるその様子に琉は笑って、金を置いて店を出た。
 人通りの多い夜道を歩きながら、携帯電話を握り締める。いつもと同じ方法で里菜の名前を検索し、しかし時間が時間なのでメールをした。

  今日はもう遅いので、また後日連絡してください。

 こんな酷いやり取りを恋の駆け引きだと世間では言うのだろうか。連絡を求める返事にまた連絡してください、なんて、喧嘩を売っているようだった。
 今日はこのまま眠ってしまおう。そうすればきっと、このイライラもおさまる。そう思ったとき、メールが届いた。琉は目を疑った。

  いま会いたい。

 ただその一言の文字に、琉はため息をつく。なんて勝手な女なのだ。だけど、どこかで喜んでいる自分がいるのも確かなのだ。揺れ動きやすい人の心は微妙すぎる。
 行き先は変更だ。琉は里菜のマンションに向かって早足で歩き出した。


      
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