6 クロスプレー



 大学生活がこれほど暇とは。
 もちろん理系である琉はそれなりに授業を詰め込んだし、時間割を工夫しても休みのある平日は出てこない。だけど、高校時代は朝の八時から夕方の四時まで毎日のように授業が埋まっていて、帰ってからも予習や受験勉強に追われ、塾に通う日もあった。ところが、大学は授業のない時間もあるし、曜日によっては朝九時くらいまで寝ていられるし、午後三時ごろに解放される日もある。
 だけど、どんなに暇でも里菜に会えるわけではないので、琉は時間のある限りバイトを詰め込んでいた。
「琉ー、俺カノジョ出来ちゃったかもよ」
 学食で昼食をとっていると、唐突に健一がそんなことを言い出した。あまりに唐突過ぎて、琉が口の中に入れたご飯を飲み込むまでその意味を考えたほどだ。
「・・・カノジョ? いつの間に・・・、どこで出会ったんだよ。まだ四月だぞ?」
「サークルだよ。すっげー可愛いんだ。今度紹介するね」
 男にしては可愛らしい顔立ちをした健一がそんなことを言っているのを見ると奇妙にも思うが、琉は適当にうなずいた。高校時代、健一がどの女と一番長く続いたのか思い出しながら。
 健一はサッカーのサークルに入っている。
「琉はどうなのさ? バイトは? 出逢いないの?」
「別に・・・」
「昔は俺と一緒にイロイロ悪さした仲じゃんかー。なんでそんなに淡白なんだよ」
「人聞き悪いこと言うなよ! 俺はもうテキトーなことやらないの」
「・・・もしかしてさぁ、琉って好きな女の子でもいるの?」
 またしても健一の唐突の発言に、今度は琉はご飯を喉に詰まらせそうになり、慌てて咳き込んだ。
「図星!? 図星!?」
 ・・・誰かこの小動物をどうにかしてくれ。心の中で叫びながら、琉は水を飲んだ。
 もし健一が大学で知り合った友達であれば、ちゃんと答えられる。俺の彼女の名前は藤峰里菜という名前で年上だと言える。だけど、なんとなく言えなかった。信用していないわけではない。こう見えても健一は口が固いし、琉を裏切ることはしない。だけど、言えない。それがなぜだか分からなくて、琉は何も答えないまま席を立った。


 金曜の夜は忙しい。
「カウンターに二名様入りまーす」
「いらっしゃいませー!」
 何度聴いたか知れない決まり文句を言いながら、琉は二人の女をカウンターに促した。
「あっちの広いテーブルは駄目なんですかぁ?」
「申し訳ございません。あちらは今夜は予約席となっておりまして・・・」
 女の大きな目に睨まれても、もう琉は畏縮しない。苦手だった営業スマイルで、ただひたすら詫びる。バイトを始めて一ヶ月、必死になって身につけた接客業という技だった。
「ただいま春のキャンペーンもございますので・・・」
「オニーサンのおススメはー?」
 マニュアルどおりに客に説明していると、ふとそんな言葉が聞こえ、琉はいぶかしげに顔をあげた。
「こちらの菜の花の・・・」
「今度オネーサンたちと遊ぼうよー」
「・・・・・・・失礼します」
 琉は笑顔を絶やさないまま厨房に入った。ここはホストクラブじゃねーんだよ逆ナンするな! ため息をつきながら歩いていると、苦笑が聞こえた。振り向くと「一週間後輩」である山本和歌奈がいた。
「大変ですね、長野くん。私が飲み物のオーダーをとってきますね」
「・・・すみません」
 琉は和歌奈が今まで作っていたカクテルをそのテーブルに運んだ。
「長野くん狙いのお客さんが増えたのねー。店長が喜んでいたわよー」
 その様子を一部始終見ていた先輩である梅田が面白そうに笑っていた。彼女は大学三年生で、このバイトももう三年目を迎え、ベテランである。
「分かっているならどうにかしてくださいよ」
「お店が考えるのは売り上げ、だ、け。そんなに嫌ならもう少しモテないような努力をしてみたら? この色男」
「はぁ? そんなこと言われたことありませんし!」
「自覚なしって一番卑怯よね。というか、公害。犯罪。存在自体迷惑。でもアタシ、そうゆうの好きよ。よかったらアタシの彼氏になる?」
「嫌です」
「はっきり言うわねー傷つくわー。年上女は嫌いってか?」
「仕事してくださいよ、梅田さん」
 琉が睨みつけると、梅田は肩をすくめた。悪気はないらしい。悪い人ではないのだけど、そのノリにはついていけない。琉は戻ってきた和歌奈から伝票を受け取り、本日一番厄介なテーブルのカクテルを作った。


 忙しい金曜が終われば土曜日だ。土曜日は学校も休みだ。例外でなければ琉も里菜も休みである。
 金曜の夜は自宅で死んだように眠り、午前十時に起床して携帯電話を握り締めた。ア、カ、サ、タ、ナ、ハ行のアドレス帳を開き、電話をする。
 コール音が妙に多い。眠たい目をこすりながら、琉があと十コール数えたら切ろうとぼんやりと考えていたとき、
『・・・・・・はーい』
 聞いたことのないような声が電話に出て、琉は飛び起きた。慌てて着信相手を確認するが、間違いない。ハ行から検索した藤峰里菜。
「センセ、どうしたの、その声」
『琉ー? センセーって呼ばないでーって言ったでしょー?』
 妙に気だるい声。普段の里菜からは想像も出来なくて、琉は眉をひそめた。


 里菜は二日酔いだった。琉が先日渡された合鍵で里菜の部屋に入ると、里菜はベッドの上に倒れていた。
「どれだけ飲むとそうなるのかな・・・」
 ため息を漏らしつつ、琉は冷蔵庫から水を取り出し、グラスに注いで持ってきた。
「ほら、とりあえず起きて水飲めよ」
「頭痛ーい・・・起きれなーい・・・」
「・・・・・・・・・・・」
 琉はグラスを枕元に起き、ベッドに座って里菜の身体を起こした。寝起きの彼女の身体は熱を持っていて、ドキリとした。
「ほら、水」
「んー、ありがとー」
 琉からグラスを受け取り、里菜は一気にその水を飲み干した。聞こえる喉の音。琉は里菜から目を背けた。
「・・・俺、帰るわ」
「えー、なんでー?」
「退屈だし」
「ここにいてよ」
「昼間から酔っ払いを襲いたくないし」
 勢いとノリに任せて言うと、里菜は琉を見上げた。その瞳が男を誘惑するということを彼女は分かっていない。この無自覚こそが犯罪だ。
「琉ー」
「なんだよ」
「・・・してもいいよ? あたし今、超気分いいし」
「俺が嫌なの」
「だってあたし、あんなに楽しく飲んだの久しぶりだったのよ?」
 琉の言葉にただヘラヘラと笑いながら、グラスを琉に渡し、再び枕に頭を沈めて里菜はつぶやいた。
「いつもお酒を飲むときは嫌な気分だったの。あたしは仲がいい同僚なんていなかったし。いつも誰かの機嫌ばかり伺ったり、つまらない話聞いたり・・・。でも昨日は、久しぶりに楽しかった・・・」
 そのまま里菜は眠ってしまった。
 初めて里菜と二人になったときもこんな状態だった。里菜は酔っていて、琉はそこにつけ込んだ。何度思い返しても、あの罠は間違いだったのではないかと思う。男として、人として。あの時の里菜は酷く疲れていて、とても気持ち悪そうだった。だけど、今こんな風に幸せな酔い方を出来たのなら少しは喜ぶべきなのかもしれない。分かっているのに、複雑な気分が消えない。
 自分の知らない里菜が多すぎて、不安になる。高校の頃とは違う、確かに彼女は自分の恋人であるはずなのに。


「それにしても、長野くんって本当にすごいですねぇ」
 曖昧な表現で和歌奈が笑った。バイト前の事務所で、もうすぐホールに立たなければならない。
 結局週末は里菜とろくに話をすることも出来なかった。後で詫びのメールが来たが、別に謝られるほどのことではない。酔っ払った彼女を見るのも後々考えてみれば楽しかったのだ。自分の不安は自分の問題であって、それを彼女に背負わせるわけにはいかない。日曜日は都合が合わなくて電話も出来ず、結局月曜日を迎えてしまった。
「すごいって何が」
「本当に自覚ないんですね? 梅田さんが嘆いていましたよ。女性客が増える気持ちも分かるなー。長野くんって格好いいですし」
「・・・そういうこと、あんまり言われたことないけれど」
「それに仕事も出来るじゃないですか。私と一週間しか違わないのに、すっごい差ができている気がするし。仕事出来る男、私好きですよ」
 どうしてここのバイトの女はこう軽いのだろうか。だけど琉も昔はいい加減な恋愛しかしていなかったので、文句は言えない。そもそも和歌奈だって琉より一週間も遅く入ってきたのに、琉と同じくらいの仕事をこなせる。この世界は無自覚ばかりなのだろうか。

 それは琉がホールに入って一時間くらい経った頃、午後八時頃の出来事だった。
「カウンターに二名様入りまーす」
 和歌奈の声が店内に広がり、同時にテンポ良く「いらっしゃいませー」と声が響く。琉もカクテルを作りながらその言葉を口にしていた。
「長野くん、すみません。ジントニックとカシスオレンジを作ってもらっていいですか?」
 慌てた様子で和歌奈が厨房に入ってきた。他のテーブルからまた呼ばれているのだろう。琉も忙しかったが、その様子を見て琉は和歌奈から伝票を受け取った。事務所ではふざけていて頼りなさそうに見えても、ホールに立つと彼女はとても真剣で、それこそ仕事が出来る女に変身していた。
 頼まれたカクテルを作り、先ほど入店したテーブルにカクテルを持っていく。
「お待たせしました。ジントニックとカシスオレンジ・・・・・・」
 そこまで言って琉は固まった。自分を見上げる視線に気付き、呼吸すら止まってしまうかと思った。
 里菜がいた。自分を見つめていた。そして、隣に座るのは知らない男だ。
「・・・カシスオレンジのお客様」
「あ、は、はい・・・、あたし、です・・・」
 里菜は小さくつぶやき、琉はカクテルを里菜の元に置き、もう一つのカクテルを見知らぬ男の前に置いた。
「ご注文はお決まりですか?」
「はい」
 答えたのは男のほうだった。琉は里菜のほうを見ることもなく、伝票に言われたとおりのメニューを書き並べる。スーツ姿だけではなく声の発し方も妙に紳士的で琉の癇に障った。
「以上でよろしいですか?」
「はい」
 琉はそれを確認したあと、二人を見比べて接客スマイルを浮かべた。
「恋人限定のメニューもこちらにございますので、どうぞご利用ください」
 里菜が自分を見たのが分かる。壊れそうになるあの表情。それは知っているものだ。だけど、今は優しく出来ない。琉は伝票を持って厨房へと入った。
「さっき入店した二人、すっごいお似合いですねー。男も素敵だけど、女の人もすっごい格好いいなー。デキル女って感じ」
 違うテーブルのカクテルを作りながら和歌奈が笑った。琉は笑えなかった。
 こんなときこそ無自覚になればいい。自分の気持ちに気付かなければよかったのに、気付いてしまったこの渦巻く嫉妬心。
 それさえなければ、もっと普通に笑えた。不安に思うのは自分に自信がないからだ。里菜よりも自分のほうが年下だということがこんなに重かったなんて知らなかった。社会的に見ても自分はまだ学生で、どんなに放任されていても結局は親の保護下で守られていて、一方で里菜は立派に働いて生きている。そして里菜の隣に座っているあの男もきっと。この違いを今更ながら思い知らされた。
 だから誰にも言えないのだ。健一にさえも。そして、先ほども言えなかった。「里菜」と呼べなかった。それでも、もっと器用に振舞うことも可能だったはずだ。
「藤峰先生、お久しぶりですね。俺のこと覚えていますか?」
 こんな風に、卒業した生徒を演じるのも悪くなかった。でも出来なかった。自分が情けない存在だと自覚しているのにも関わらず、プライドだけは立派だった。
 ただの元生徒でいたくなかった。
 本当は里菜の恋人だと叫びたかったのに出来なかった。どうにもならない腹立ちをどうにかしたくて、酷いことを言ってしまった。


      
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