四月一日。世の高校生は春休みでも、教師は忙しい一日である。昨日までの時間が昨年度と変わり、新しい一年を迎える。 整理した机のうえを綺麗にし、荷物を持って新しい机と移動したばかりだ。里菜は一年生の副担任を務めることになった。 「荷物少ないですねぇ、藤峰先生」 頭上から声が降ってきて、振り向くと朝霞が立っていた。 「あ、おはようございます、朝霞先生。そ、そういえば朝霞先生って・・・」 「ええ、僕は今年一年三組の担任になりました。一年軍団として、今年一年よろしくお願いします」 「こ、こちらこそ!」 あどけない笑顔を向けられて、里菜は深々と頭を下げた。彼は里菜の秘密を知る、唯一の教師だった。なぜなら彼こそが琉をアドバイスした張本人、琉の叔父だからだ。 緊張した里菜の態度に朝霞は少年のように笑う。こんなところが生徒に人気のある秘密なのだろうと、里菜はちゃっかりと観察していた。どことなく琉に似ていると思うのはやっぱり欲目という奴だろうか。
朝礼が始まって校長の話を聞いたあと、この四月からこの学校に就任するという教師が紹介された。その中で里菜は知った顔を見つけた。 「田村雅人(たむらまさと)です。よろしくお願いいたします」 数人の中に混じって頭を下げる彼を、里菜は驚いた表情で見ていた。
「まさか里菜ちゃんがこの学校にいたなんて」 雅人も驚愕を隠さないまま笑った。 「久しぶりですね」 「そうだな、俺が卒業してから会っていないから、三年ぶりだな。里菜ちゃんもすっかり先生っぽくなったじゃないか」 懐かしいその呼び名に里菜は微笑む。昼休み、近くの弁当屋で買ったものを二人で芝生で食べていた。 雅人は里菜の一学年上の先輩だった。専攻は国語。同じサークルに所属しており、たくさんの思い出を共有する。 「でも雅人先輩、学校では里菜ちゃんって呼ばないでくださいね」 「ああ、ごめん。どうしても里菜ちゃんが昔のままに思えてしまって」 「失礼だなぁ」 「藤峰センセイこそ俺のこと雅人先輩って呼ばないでくださいよ?」 いたずら顔で言う雅人を見て、里菜も慌てて口許を押さえた。今までの呼び方を変えるのは、難しくて気恥ずかしい。 「・・・一樹(いちき)は、元気?」 今までのノリとは違う、少し控えめで低い声で、雅人は訊いた。久しぶりの名前を聞いて、里菜の心臓がドクンと鳴る。 「あ、あの・・・、別れたんですよ、卒業のときに」 「え!?」 それは里菜に再開したときよりも驚いた声で、雅人は里菜を見つめた。 「君たち、このまま結婚するんじゃないかっていうくらい仲良かったじゃないか。俺、里菜ちゃんの苗字が変わっていないことに驚いたくらいだぞ」 「・・・すみません」 別にここは謝るべきところではないのだが、なんとなく里菜は謝ってしまった。二年よりも前の思い出を儚く思い出す。 「・・・・・・そろそろ戻りませんか」 里菜は立ち上がり、職員室に戻るように雅人に促した。雅人ももう何も訊かなかった。
その頃。 「琉ー、入学おめでとー!」 卒業式と同じノリで、健一が見慣れないスーツ姿で琉の肩を叩いた。 「だからおまえもだって」 「サークルか部活に入るの?」 健一の両手にはたくさんのチラシがあった。入学式が終わると、会場の外ではたくさんの勧誘がある。人懐こい健一はどうしても声をかけられやすく、全てのチラシを受け取ってしまったのだろう。健一曰く、どれが運命か分からないということだ。それは女に対しても同じ科白を健一は述べる。 「俺はバイトに励むよ」 「バイト!? もしかしたらもう始めてる?」 「ああ、一週間前にな」 「何やってんの?」 「ホスト」 「ええっ!?」 「・・・嘘だよ、居酒屋。ありがちだろ」 「う、うん・・・。びっくりしたぁ・・・。琉だったらホスト似合いそうだし。そのスーツもすっげー様になっているし」 ほんの冗談で言ったつもりなのに、本気に受け止められてしまったこっちがびっくりだ。そもそも、リクルートのスーツとホストのスーツはまるで違う。琉は健一の純粋さに笑って、周りを見渡した。 明日からはキャンパスで大学生活が始まるのだ。
夜からはバイトだ。まだ入ったばかりで、行くまでがとても辛い。だけど行ってからはそれなりに働ける。実は初めてのバイト経験なのだが、金を稼ぐという目的があるだけで何でも出来るし何でも我慢できる気がした。 制服に着替え終わった後、時間まで事務所で待機していると、女性用の更衣室からやはり制服姿の女が出て来た。 「あ・・・」 琉を見て、彼女は頭を下げた。 「おはようございます。は、初めまして、私、山本和歌奈といいます。昨日入ったばかりで・・・、よろしくお願いしますっ!」 「あ・・・、俺も一週間前に入ったばかりだから・・・、同期って奴かな・・・」 「あっそうなんですか!? じゃあ一週間先輩なんだ?」 彼女――和歌奈はほっとしたように笑った。一週間先輩って何なんだ。同期でいいじゃないか。そんなことを琉は冷静に考える。 「・・・俺は長野琉です。よろしく」 「はい! あ、あの・・・、お仕事大変じゃないですか? 私カクテルなんて覚えられないんですけれど」 「でも居酒屋だから覚えなきゃ駄目だろ。コレ、もらった?」 琉は和歌奈に昨日店長からもらったプリントを見せた。それには各カクテルの名称とオーダー名、そして作り方が記されていた。 「こんなのあるんだ?」 「店長に言ってもらうといいよ。こういうマニュアルがないと覚えきれるはず、ないし」 「そうですよね。ありがとうございます」 そこでやっと琉は山本和歌奈というアイデンティティを認識する。背は低めで黒目がやたら大きい。イマドキな女の子で、いかにも一般男子が好きそうな顔をしている。特に健一とか。背が高めで見た目がクールな里菜とは全く違うタイプだなと琉は思う。
まだ琉はカクテルを作ったりすることは出来ないが、この一週間で覚えた料理名とオーダー名のおかげで、どうにかホールで接客は出来るようになった。 若者が集まるこのお洒落な居酒屋では、カウンターに座った客とはコミュニケーションをとるのが基本らしく、オーダーをとりながら琉は女性客二人に何気ない言葉をかける。これがなかなか難しい。 「バイトさんなんですかぁ? もしかして学生さん?」 「ああ、ハイ・・・、そうです」 いつの間にか話題は自分のことになっている。これでは意味がない。それでも元々口数の多くない琉にとって接客は難しすぎた。でもキッチンは人が足りているのだ。この条件で働き始めたのだし、店長はいい人だし、すぐに辞めるような真似だけはしたくない。 ぎこちない笑みを浮かべながら、琉はため息をついた。
ぐったりしながら暗い帰路を辿る。午後十一時半。ようやく自宅に戻る。 持っている鍵で玄関のドアを開けると、ちょうど母親に出会う。 「あら、おかえりなさい。今日は帰ってこないかと思ったわ」 「バイトだったんだ」 「何のバイトだったっけ?」 「・・・居酒屋」 この答えを何度返しただろうか。さらに疲労度が増す。この女は放任主義というより、ただ単に自分に興味ないのではないかとさえ思う。 部屋に入ってベッドに座り込み、鞄から携帯を取り出す。一通のメールが来ていた。
入学おめでとう。あたしも今日から一年の副担だよ。お互い新生活頑張ろうね☆
里菜からのメールに、少しだけ癒される。それでもまだ足りなくて、琉は思わずボタンをいくつか押した。そして、受話器を耳に当たる。 何回目かのコール音で、相手は出た。 『もしもし、琉?』 「あ、夜中にごめん。今メール見たんだ」 『今日もバイトだったの?』 「うん。すっげー疲れた」 『いい加減どこの居酒屋なのか教えなさいよー』 「嫌だ。だって里菜、絶対来るだろ?」 琉は笑って、カーテンを開けてベッドの横の窓の外を見た。蛍光灯がついているせいで、窓には自分の姿が映る。カーテンを閉めて、ベッドに座りなおした。 『じゃあ・・・、おやすみなさい。明日から頑張りなさいよ』 「教師ぶるなよ。センセイも頑張って」 わざと意地悪く言うと、里菜もごめんごめんと言って笑う。本当は毎日会いたい。一緒に暮らしたいと何度か思った。だけど、今はこんなひと時も幸福だと思う。 「おやすみ、里菜」 少し名残惜しくなりながらも、琉は電話を切ってベッドに潜り込んだ。
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