4 青天の霹靂



 琉は受話器を握り締めた。
「え・・・・・・・・・?」
 思わずそう訊き返してしまった。相手の気持ちを考えることすら出来なくて、ただ別れを告げた。胸が痛んだ。当たり前だった。
 今頃になって心臓が早鐘を打つ。
『長野くん、知らなかったの? あたし、長野くんが好きなの。好きなんだよ。勝手に終わりにしようって言われて、納得できないよ!』
 いつもの里菜からは想像できないくらい、彼女は切羽つまっているみたいに早口で喋った。受話器越しだというのに、耳が痛くなるほどに。
『・・・それとも、もうあたしのこと、好きじゃなくなったのかな』
「そんなわけ・・・・・・っ!」
 家の自室で琉もつられて大声をあげる。思わず椅子から立ち上がる。机に広げられている問題集を閉じて、ベッドまで移動して落ち着こうとベッドに座った。
「・・・そんなわけない」
 琉は固く目を閉じて、そうつぶやいた。途端に安堵したため息が聞こえ、妙な期待が胸の中を渦巻いて苦しくなる。
『あたしのこと、好き・・・?』
「あ、当たり前、だろ・・・」
『よかった・・・』
 里菜は少し笑った。
『こんな夜中に急に電話してごめんね』
「いや・・・」
『お願いだから、終わりだなんて言わないで・・・』
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 琉は体勢を直すように座りなおした。ベッドがギシリと音を立てる。
『あと少しなのに、なんだか不安になっちゃったり、信じるってことが出来なくなっちゃったり・・・、あたしはそういう感じだったけれど、長野くんはどうなの?』
「・・・俺もおんなじ」
 同じ思いを共有していたことに驚きながら、琉も笑った。
「ごめん、センセイ」
『ううん・・・』
「頑張るって約束したのに」
『頑張っているじゃない。ちゃんと知ってるよ』
 こうして二人は妙な浮遊感とどうにか折り合いをつけ、ただ一ヵ月半待つことを決めた。大切なのは信じること。
 電話を切った後、琉は机の上の問題集を広げ、あくびをしてからやっと集中力が高まる自分を自覚した。まだ心臓はうるさいほど音を立てているけれど、もう痛まない。


 そしてお互い慌ただしい日々を過ごし、三月。
 今年度の卒業式がやって来た。式のあとは式場の体育館の周りに生徒や保護者、在校生や教師で人だかりが出来ていた。
「琉ー!」
 卒業証書の入った筒を叩きながら歩いていると、健一が走ってきた。
「卒業おっめでとー」
「・・・おまえもな」
「ところで前期試験、どうだったよ?」
「まぁまぁってところかな」
 二人は同じ大学の二次試験を受けていた。数日後には結果がやって来る。
 琉は私立大学もいくつか決まっていた。それでも第一志望の大学が合格するまではやはり気持ちが落ち着かない。だけど、今日は待ちに待った卒業式だ。
「あー、三年なんてあっという間だよなぁ。俺ら、もうコーコーセーじゃなくなるんだぜ?」
 なんとなく健一の言い方が見かけとは反対に親父っぽくて琉は笑った。
「そうだな」
「俺はいろんなことあったけれど、おまえは三年になってからは何もなかったじゃないか」
「・・・放っておけ」
 健一の言葉の中にはもちろん恋愛要素が含まれており、もちろん彼は琉と里菜のことを知るわけがない。
 今朝、灰色のスーツをしっかりと着こなした里菜を遠くで見かけたけれど、声はかけなかった。今日を乗り越えれば後はなんでもいい。待ちに待ったのだ。それは二次試験の前期日程が終わったときよりも心臓が震える。気が狂うほど長かったと言えば大げさだが、でも確かにこの日を懇願していたのだ。
「あ、藤峰センセーだ」
 隣で何も知らない健一が指を差すものだから、琉はつまずきそうになってしまった。
「最後までミステリアスな先生だったよなぁ」
「・・・そうか?」
「何考えているのか分からないし。それがミリョク的だったんだろうけれどさ」
 健一の言葉を聞きながら、琉はふと笑う。本当は大声で笑いたいのをこらえているのだ。里菜は確かにそういう女かもしれない。自分も里菜と深く関わるまでそう思っていた。だけどいざ二人で話してみると、里菜は簡単に感情を表に出すし、次に言う科白もだいたい想像できる。そして、・・・本当はとても弱い。
 琉と健一が里菜を見ていると、里菜がこちらに気付いて手を振ってきた。
「長野くん、種元(たねもと)くん、卒業おめでとう」
 里菜は駆け寄ってきて、そう微笑んだ。
「ありがとー、先生」
 ちなみに種元というのは健一の苗字である。彼は噂の女教師の登場に素直に喜んでいた。
「先生、俺たちがいなくなって寂しい?」
「そうね、あなたたちはあたしの初めての生徒だったからね」
 そう言いながら一瞬里菜は琉を見た。目が合った瞬間に全ての思いを伝え、すぐさま目を逸らし、何事もなかったかのように笑う。根は正直なくせにこういう嘘は上手いよなぁ、と琉は他人事のように思い、心の中でほくそ笑む。
 伝え合った想いは同じはずだった。ただこの瞬間を迎えられたことへの歓喜。


 その日は昼からクラスで謝恩会をし、午後七時には名残惜しくも解散をした。まだ結果が決まっていない生徒も多数いたが、国公立大学の後期試験は面接や論文が多かったりするため、ほとんどの者はもう勉強漬けにならなくてよいのだ。
「琉ー、俺らこれからカラオケ行くんだけど、どうよ?」
「あー・・・・・・、俺、帰らないと、親が心配する」
「何言ってんだよ、夜遊びしても朝帰りしても今まで平気だっただろ?」
 琉の見え透いた嘘に友人達は笑い、琉も口角をあげた。こうすればたいてい笑っているように見えるから。
 本当にこれで最後なのかと疑いたくなるほど、この光景すら日常に感じてしまう。中には同じ大学に進もうとする友人もいるが、もう数年会えないだろうというクラスメイトだっている。なのに、何の感慨も受けない。
 それでも、また会えるだろうと何の確信もないのに琉は思う。
「じゃあな」
 短くそう言って、琉は友人たちに背を向けて早足で歩き出した。


 緊張した足取りでマンションに着く。オートロック。里菜の部屋番号を押すと、里菜が出た。
『今開けるわ』
 そう言って導かれるように琉は歩いていく。そういえばこのマンションに一人で入っていくのは初めてだった。そもそも訪れたのは今日で三度目だ。
 部屋のドアの前に着く。そのタイミングでドアがゆっくりと開き、中から里菜が顔を覗かせた。
「いらっしゃい」
 琉はゆっくりと足を踏み出し、部屋に入る。その瞬間。
 靴を脱ぐのも忘れて、琉は里菜を抱きしめた。里菜も必死に厚い胸板に手をまわす。
「・・・・・・・・・・・・」
 琉は何かを言いたげに唇を動かしたが、何も言葉にならない。感情は溢れてやまないのに、言葉が浮かばない。ただ脳裏を洗脳するのは、里菜に触れることが出来たというこの感触だけで。
 それは里菜も同じで、琉からの口付けを受け止めるので精一杯だった。靴を脱ぐのももどかしくて、キッチンには用意してある夕飯があるのに、もう空腹なんて感じない。ただ目の前にいる存在への渇望・・・、それ以外考えられない。
 何度もキスを貪りながら、寝室に向かって行き、里菜の身体がベッドに倒れた。それでも二人は唇を離さない。呼吸するタイミングでやっと唇を離したとき、里菜がふと笑った。お互いの距離、わずか数センチ。
「・・・なに笑ってるんだよ」
「だって・・・、可笑しいんだもの」
「何が」
「分からない」
 そう言って里菜は手を伸ばして琉の髪に触れ、またキスをねだる。
「・・・性急すぎ」
 里菜がつぶやくと、琉はますますしかめ面になった。
「仕方ないだろ。・・・ずっと待っていたんだ。半年も」
 今気付く。やっぱり半年という時間は気が狂うほど長かったのだ。他にもするべきことがあったからわざと目をそらしていたけれど、それは心にも大きく響いていた。傷に近い、だけど傷ではない。これからによっては克服できる何かだ。
「・・・センセイ」
「嫌だ。あたしはもう長野くんの先生じゃないよ。・・・里菜って、呼んで」
 琉の唇に指で触れ、里菜はつぶやく。その困ったような照れたような表情を読み取り、琉は小さく笑った。やっぱり彼女は見ていて面白い。素直なところがとても可愛いと思う。
 お互いお喋りに夢中になれるほど余裕もなくて、もう言葉を口にしなかった。耳に響くのは、布の摩擦音とか、いつもより荒い息遣い。そして時折漏れる言葉にならない声。
「里菜・・・・・・、俺と、付き合ってください」
 琉がそう言うと、里菜の顔がほころんだ。そしてため息と一緒に笑い声を漏らす。同時に快感で歪むその表情を見て、それを肯定と受け取り、琉の背中にゾクリと震えが一直線に走った。
 思う存分に彼女に触れることの幸せと快感を、琉もまた感じていた。


 携帯電話を見ると、健一からメールが来ていた。帰り際に行っていたカラオケの誘いだ。可愛い女を数人ナンパしたから来い、とのことだった。
 琉は断りのメールを送った。
「メール?」
「うん、健一から来ていたから。謝恩会のあとカラオケに誘われたのを断ったのに、まだ諦めてないらしくて」
 ソファに深く座り込んで琉はつぶやいた。
「・・・行かなくてよかったの?」
「行って欲しかった?」
「・・・・・・・・・意地悪だなぁ」
 キッチンから温めた夕飯をテーブルに運んで、里菜は口を膨らませた。肩の線より長く伸ばした髪の毛がまだ濡れていて、先ほど愛したと言うのに思わず欲情してしまいそうになる。
 あの後、二人はそのまま雰囲気に流されて眠りに就きたかったのだが、さすがに空腹には耐えられなかった。里菜のお腹がグゥとなんとも情事を忘れさせるような音で鳴り響いたときには琉は爆笑した。仕方ないのでお互いシャワーを浴びて、こうして遅い夕飯を摂っているのだ。
「でも、同性の友達は大切よ。一生モノ」
 琉の隣に座る里菜の言葉を聴きながら、琉は里菜の料理を口に運んだ。里菜にもそういう友達がいるのだろう。まだまだ知らない彼女がいて、それはとても不安だけど。
「・・・こんなつもりじゃなかったのになぁ」
「え?」
「俺も、昔は女より友達を選んでいたんだけど、って話。昔は女に対して淡白だったし、恋愛にハマるなんて格好悪いって馬鹿にしていたから」
 そんな自分が迷わず里菜の元へ来てしまうなんて。どれだけ夢中になれば気が済むのだろう。ひとりごとのようにつぶやき、後で詫びのメールでも入れておこうと琉は静かに思う。里菜の言うとおり、男同士でムサいこともあるが、それでも確かに友情はあるのだ。
「なが・・・琉?」
「ん?」
「あの・・・、遅くなっても平気なの? お家は・・・」
「全然平気。俺の家、放任主義だから。知っているだろ?」
 琉が不自然なほど平気な顔でそう言うものだから、里菜は何も言えなくなってしまった。ただ今は二人で肩を並べることが出来た幸せを噛みしめたかった。


 その三日後。
 里菜は琉からサクラ咲くというメールを受け取ることになる。
 こうして二人は新たな生活へと踏み出した。


      
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