3 絶対的、幸福論



「里菜センセー、おはようございまーす」
 職員玄関から職員室に向かっていると、一年生の女子数人に声をかけられ、里菜は微笑んだ。
「おはよう」
「先生聞いて! チカってば彼氏作ったんだよ! 女友達より男だって! どう思う先生!?」
「だからそんなんじゃないってばー」
 そのなかの一人、チカと呼ばれた生徒が顔を赤くしてうつむいた。可愛いなぁと思う。里菜はチカに目を向ける。
「女友達は一生モノよ」
「別にあたし、トモダチを捨てたわけじゃないもん」
 拗ねたようにつぶやくチカを本当に可愛いと思う。この数人はなんだかんだと言いつつ、チカの恋を応援しているのだろう。彼女達はわいわいと騒ぎながら教室のある三階に向かって階段をのぼっていった。その様子を見届けてひとり微笑んでから里菜は職員室に入った。
 あんな風に周りに祝福され、堂々とした恋がとても羨ましくも思った。


 もうすぐ一月も終わる。「行って逃げて去る」という言葉があるように、やはり三学期は特に時間の流れを早く感じる。一方で卒業式を待ち望んでいる自分もいる。そういうときばかり時計の針のスピードがもどかしく感じる。人間の心理はとても勝手だ。
 三年生には受験対策用の補習が設けられていた。里菜も数学の授業を担当している。今日は補習三日目だ。震える心臓を抑えて教室のドアを開けた。
「おはようございます」
 センター試験が終わってからもう十日経つ。早いところではもう私立大学の入試も始まっている。一度途切れたかと思われた緊張感は元に戻り、教室の中はいたたまれない雰囲気に包まれる。
 こんなことに教師が負けてはならないと里菜は動じずに壇上にあがり、出欠を取った。名簿から視線を泳がせないようにしながら一人ひとりの名前を呼ぶ。。あと二人、あと一人。
「長野くん」
 呼ぶと、いつもより低い返事が返ってくる。それでも顔をあげる勇気がない。
 もう限界に近いのかもしれないと思った。
 センター試験が終わってからどうも落ち着かない。冬休み前までは、琉が在籍する三年一組の授業も平常心をもって行えたし、目が合っても平気だった。むしろそれを幸せだと思っていた。だけど、今は目が合うのがとても怖い。その理由は琉ではなくて、むしろ自分にあることを里菜は知っていた。
 一度爆発しそうになった心が、今かと爆発できる時間を心待ちしているのだ。
 チョークを必死に握り締めて、里菜は出来るだけ低い声を出して問題の解説をした。出来るだけプリントや黒板に目を向けた。
 教室内を見れば必ず誰かと目が合ってしまう。この職業についてからもうすぐ二年になり、去年の夏ぐらいからはそれにも慣れていたのに、今のこの恐怖は教育実習のときよりも大きかった。
 ただ揺らぐばかりの気持ちを隠して、里菜は声を出す。


 数学準備室で、最近提出された一年生の宿題のノートのチェックをしていると、ドアが開いた。
「失礼します」
 入ってきたのは琉だった。琉は準備室に他に教師がいないことを確認して、ドアを閉めた。
「長野くん・・・・・・」
 彼の名を呼んだとき、思わず声が裏返ってしまい里菜は持っていた赤ペンを落とした。それは勢いよく琉の足元まで転がった。琉は視線を床に落として、長い腕を伸ばしてそのペンを拾う。
「はい」
「あ、ありがとう・・・」
 渡されたペンを受け取りながら、里菜は違和感を覚えた。冬休み以降、琉もセンター試験対策に取り掛かり来ることもなくなったが、十一月末くらいまではよくこうして質問をしにこの準備室にやって来た。他に教師がいるときも当たり障りのない会話をし、幸せな小さなひと時であった。だけど今は何かが違う。
 そう思いながら里菜は琉の手元を見る。そうだ、琉は何も持っていなかった。普通質問にくるときは、教科書や筆記用具を持ってくるはずなのに。
「・・・どうしたの?」
 里菜は椅子に座りなおして琉を見上げた。琉は突っ立ったまま口を固く結んでいる。少し睨んでいるように見えた。里菜を、というより、視界に映るもの全てを。
「長野くん・・・」
 里菜がもう一度声をかけたとき、琉はため息をついて、里菜を見た。
「あのさ・・・、センセイ、もう無理しなくていいから」
「え?」
「終わりにしたほうがいいよね。・・・まだ始まってもなかったけれど」
 琉の信じ難い言葉に、里菜はただ呆然と琉を見つめることしか出来なかった。


 今にも泣き出しそうな里菜を見て、小夜(さよ)はため息をついた。
「里菜ー、久しぶりに呼び出しておいて黙ったままっていうのはないでしょ?」
 夜のファミレス。ビールを片手に小夜はため息をついた。
「里菜?」
「・・・・・・ん、ごめん」
 里菜は小さくつぶやくと、水を一杯飲み干した。
「大丈夫?」
「・・・大丈夫、じゃないかも」
「どうしたの、何があったの? 仕事、人間関係、恋愛?」
 小夜に鋭く訊かれ、里菜は再びうつむいた。
 小夜は里菜の高校時代の友達だ。高校の友達は一生だなんて言うけれど、それは案外本当なのかもしれない。大学は別々になったけれど、今でもこうして何の理由もなく会って語り合えるのが、これでも里菜は嬉しく思っているのだった。
 小柄で派手なメイクも小夜だと派手に見えず、逆にさわやかに愛らしくなるから不思議だった。勤める学校の生徒達からクールだと言われてしまう里菜とは違って、小夜は表情も感情も豊かで、ずっと人間が出来ているように思う。
「・・・恋愛」
 里菜がそう答えると、小夜は身を乗り出した。
「え、嘘。何? あたし何も聞いていないんだけど」
「だって言ってないもん」
「言ってないもん。じゃないでしょー? 恋の報告しあうのが女の友情の証でしょー?」
「・・・・・・ごめん」
 言い訳もせずに大人しく謝る里菜を見て小夜はますます怪訝な顔をし、首をかしげた。
 言えるわけがない、と里菜は思う。高校の頃はそうやってお互いなんでも話していたし、大学の頃だってメールや電話でいちいち報告していた。別にそれが友情の証だとは思っていないけれど、二人にとってはそれが必然だった。そして何かがあったら愚痴をこぼしたりノロケで自慢話を繰り広げてきた。だけど、それもこの夏は出来なかった。
 報告には必ず相手がどんな人かを伝えることも含まれる。まさか高校生で教え子です、なんて言えるわけがなかった。
「どうしたの、何があったの」
 先ほどより少し神妙に、小夜は里菜の顔を覗き込んだ。
「相手は誰? 仕事場のヒト?」
 当然の質問に、里菜は唇を震わせる。涙が一筋流れ、ナフキンでそれを拭った。白いナフキンにはファンデーションがかすかに色づく。
「・・・生徒」
「え?」
「相手は、生徒。三年生」
 里菜がそれだけ答えると、小夜はさすがに驚いたのか口を閉ざしてため息をついた。里菜は恐る恐る顔をあげて小夜を見た。
「・・・小夜?」
「どうして言わなかったの? ・・・言えなかったのは分かるけど、あたし以外に誰に相談できるのよ?」
 眉をしかめた小夜に訊ねられ、里菜はその意外な問いにしばらく考えてしまった。そして、答える。
「・・・誰にも」
 当然だった。相談相手は小夜が一番で、小夜以外にいるはずがなかった。誰にも言えなかった。苦しかったんだと気付く。
 小夜がこんなことで自分を軽蔑するわけがないなんて分かっていたのに。
 そのあと、里菜は順を追って琉とのことを説明した。始まりはあの夏、酔ったところを助けられたこと、それも罠だったとあとで知ったけれどそれすら許してしまうほど自分は彼に魅入ってしまったこと。彼はとても優しかったこと。それゆえに守られているということ。そして・・・、急にその五ヶ月をなかったことにしてくれ、と告白されたこと。たった今日のことだった。
 小夜は黙ってそれを聞いたあと、一口ビールを飲んで里菜を見た。
「里菜は自分の気持ちを言った?」
「え?」
「相手の男の子ばかり里菜を追いかけていて、里菜は受け身を気取っていない? 教師だから無意識にそうやっているのかもしれないけれど、本当に好きなら気持ち伝えなきゃ」
「伝えたよ!」
 夏に、好きだと言った。抱かれたときも言った。覚えている。そう言ったときに彼の顔がほころんだことも。その笑顔にときめいてしまったことも、全部鮮明に思い出せる。
 だけど小夜の顔は険しいままだ。
「じゃあ今日は?」
「え?」
「別れを告げられたとき、ちゃんと縋りついた?」
「何それ・・・」
「あたしは好きなのに、って言ったの? お互いすれ違うことだってあるんだよ。こういう時期なら尚更ね」
 トータル的に考えると小夜は里菜よりも恋愛経験が多い。そんなことをぼんやりと考えながら、里菜はたった数時間前のことを思い出す。
 何も言えなかった。相手は受験生だ。琉を負担にさせることなんて出来なかった。彼がそう言うなら、そうするしかないのだろうと諦めていた。
 だけど、本当の琉の気持ちは?
「・・・分からないよ」
 里菜はつぶやく。
 相手の気持ちが分かる能力があるのなら、最初からこんな苦労しない。いろんなことを考えるけれど、それだってただの思い違いなのかもしれないと臆病になる。
 ただ今は、心の奥に押さえ込めていたこの秘密を一番の友人に打ち明けられたことに安堵していた。少し落ち着いて、やっとビールに手を出すことが出来た。ビールは少し温くなっている。
「じゃあ、確かめなくちゃね」
 小夜はそう微笑んだ。


 その夜、里菜は家に帰った後、震える手で思い切って携帯を持った。何度も見た名前を検索し、電話をかける。三コールで相手は出た。
『・・・もしもし』
 相手が里菜だと分かっている彼の声はとても低く、ぶっきらぼうに聞こえた。それでも里菜は声を出す。
「あの、長野くん? ・・・あたしだけど」
『何? 学校での話の続きなんてないけど』
「あ、あたしは、あるのっ!」
 勢いに乗って里菜は叫んだ。
「わ、ワケ分からないよ! 急にそんなこと言われたって・・・、こんなに卒業式を待っているのに・・・、あたしは長野くんが、好きなのに・・・」
 受話器に向かって話していることも忘れて、里菜は一気にまくしたてた。
 幸せにしてくれるって確かに琉は言ってくれた。今でもそれを信じたい。


      
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