2 温度差5℃



 通っている塾に行く途中、クラスメイトに声をかけられた。
「琉!」
 サラリーマンだらけの駅のホーム、電車の中と外の温度差にクラクラしながら琉は相手の顔を確認する。
「おう」
「『おう』、じゃねえよ。昨日何やっていたんだよ。自己採点の日だったんだぞ?」
「自己採点なんて家でも出来るだろ」
「だけどさー、いろいろサーチにかけたりしたんだよ、学校で」
 クラスメイトであり、割と親しい友人である健一の言うサーチとは、自分のセンター試験の成績における志望大学の判定を調べるというシステムだ。大手予備校などが行っており、受験生の多くがそれらをすることにより、より判定の信憑性が高まってくる。その結果を元に、受験生は二次試験を受ける大学を決めていくのだ。
「あーいいよ。俺、英語悪かったし」
「でも琉は数学とか物理とか得意だろ?挽回できたんじゃん?」
 クラスメイトと会話をしながら、様々な思考が巡る。二次試験へのこれから向かわなければいけない。すぐに私立大学の入試もやってくる。センター試験が終わったからと言って、喜んでいる暇はない。
 それでも、昨日の自分は異常だったと思う。会いたいなんて科白、まさかこの自分が使うなんて思わなかった。
「そういうえばさぁ、琉も行くだろ? 学校の補習」
「おー・・・・・・」
 健一の言葉ですっかり学校の補習のことを忘れていたことに気づいた。そういえば、センターが終わった後は学校で自分の受けたい科目の補習があった。もちろん参加は自由で、冬休み前に参加すると書類を提出したはずだった。
「もしかしたら琉、忘れてた?」
「え、いや・・・」
「でもずっとセンター用のマークの問題ばっかりやっていたからさ、早く記述式に慣れないとやばいよなぁ」
 そのとおりだった。センター試験はマークだ。しかも問題に偏りがあり、独特な出題のされ方をされる。冬休み前からはずっとそのような問題ばかりに触れていたが、早くここで頭を切り替えないといけない。気持ちだけではなくて、そういう勉学的にも辛い。
 だけど。
「学校で補習、俺は確か数学と化学と物理を取っていたけれど」
 ひとりごとのように琉はつぶやいた。里菜に会える。ただそれだけを考える。
 頑張らなくてはならない。頑張ったらきっとゴールを迎えられる。センター試験の結果を見れば、家から通える国立大学を受けられるし、私大もそれを考慮している。
 あと一ヵ月半。カウントダウンを下しているのは琉も同じだ。


 それから三日ほどして学校で受験対策用の補習が始まった。
 琉は自分の取っている科目の教室に行き、前から三列目の端の席に座った。いつもであれば真ん中を好むのだが、数学の授業のときは真ん中よりも端のほうがよかった。そのほうが里菜の顔を見れるからだ。
 そんなことを考えている自分がとても馬鹿馬鹿しいと思う。いまだかつて、こんなに恋愛にハマったことなどあっただろうか? 今まではどこかで冷めている自分を自覚していた。自分から誰かを好きになったことなんてなかった。そもそも教師なんて、面倒くさい相手を選んでしまうなんて。
 今まで抑えていた気持ちを先日少し出してしまったからだろうか、最近の自分は酷く敏感に思う。
「おはようございます」
 今日もバッチリとスーツを決めた里菜が教室に入り、名簿を取る。
「センター試験はお疲れ様。私大や二次試験に向けて頑張ろうね」
 そう言いながら出欠を取り始めた。教室に入ってからまだ一度も琉の顔を見ていない。あ行の人間から苗字で呼ばれ、返事をする。まるで小学生のようだ。そして、
「長野くん」
 いつもと同じ、少しトーンの低くて落ち着いた声で呼ばれ、琉も何事もなかったかのように返事をする。
「はい」
 結局里菜は一度もこちらを見なかった。
 教室内は冬休み前よりもずいぶんとピリピリとした雰囲気が解けていて、それが琉を安心させた。配られたプリントの問題を時間内に解くように指示された。プリントに書かれた大問三題を一通り眺めた後、琉はシャーペンを走らせた。
 問題を解いている途中に里菜は教室内をゆっくり歩く。足音が近づいてくると、もう問題どころじゃなくなってくる。琉の問題への集中力は途切れ、その足音に聞き入った。そして一緒にやって来るその気配。
 柔らかい雰囲気が琉の横を通り過ぎ、里菜は再び壇上に上がった。
「そろそろ時間だけど、解説していい?」
 気配が残っている。だけどそれだけ。ただそれだけ。琉は解いていない最後の一問を見下ろしながらため息をついた。


 勉強がはかどらない。センター試験まではわりと順調に自分の精神と折り合いをつけながらやってきたはずなのに、どうしてしまったのだろう。
 思い浮かぶのは里菜のことばかりで、唐突に彼女の体温を思い出して身悶えそうになることもある。そう思って、補習の時間に里菜の姿を目で追っても、半年前のように目が合うことなんてもうなくて、里菜はいたってクールに、いつもと同じ様子だった。
 会いたいと言ったのも自分。家まで追いかけてしまったのも自分。さらに時間をさかのぼって、好きだと言ったのも自分だ。もしかして、と今更考えてはいけないことを考える。もしかしたらこれは一方通行なのかもしれない、なんて。
 彼女に触れたのも抱きしめたのも五ヶ月前。あれからずっと、ただ卒業だけを目指してやってきた。自分の勝手な想いで彼女を巻き込むわけにはいかなかった。叔父にも忠告された。それを守ってきた。自分なりに彼女を守ったつもりだった。
 だけどそんなものは一切関係ないのかもしれない。一歩通行だと置き換えて考えれば、この気持ち事態が迷惑だとしたら。
「嘘だろ、おい・・・・・・」
 数分間ほったらかしにしてしまっていた問題集を衝動的に閉じて、琉は頭を抱えた。どうして二人で一緒にゴールを目指しているなんて思っていたのだろう。里菜もきっと自分の卒業を心待ちにしているなんて勘違いをしていたのだろう。自惚れもいいところだ。
 あの夏に里菜は好きだと言ってくれた。それは確かだ。だけど、それ以来一度も触れることも出来なくて、先日やっと二人きりになれたばかりで、だいたい付き合ってもいないのに、期待しているなんて馬鹿だ。
 勉強にかまけていてこんなに温度差が出来ていたなんて知らなかった。せめてそれが五度くらいであれば取り返しがついたかもしれないのに、今ではもう数十度分も遠く離れてしまった気がした。
 再び問題集を開き、問題を目で追うけれど何も頭に入ってこない。それどころかイライラが増す。
 こんなときに何をやっているのだ、俺は。唇を噛みしめる。この情けない自分の姿は吐き気がするほど嫌いだ。
 一度立ち止まったら、もう前には進まない。一つの問題につまずいたら足もすくむ。シャーペンを持つ手が震え、思考が止まればもう何も出来ない。


      
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