何度見直しても間違いない。それでも複雑な心境。喜べるほど無神経なわけではないし、この先が怖くないわけでもない。二ヵ月後を想像できなくて苦しんだくせに、未来が見えてくるのもまた恐怖。 琉はため息をつきながら、部屋のベッドに置いてある携帯電話に手を伸ばした。 電話をしたものの、コール数は十を越し、諦めて切ろうとしたときに電話は繋がる。 『も、もしもしっ!』 「あー、俺だけど」 『俺だけど、じゃないでしょ! 今日は学校で自己採点の日でしょ。どこにいるのよ?』 「・・・家」 『ちょっと何考えてるのよ。あなたの教室、さっき覗いたのに見当たらないし、心配したのよ?』 彼女は相変わらず、無意識で罪を被っている。しかも自覚なし。卑怯なうえに、どうしようもない。琉は口許に笑みを浮かぶ自分に気づきながらも、笑った。 「数学は満点」 それだけを言うと、受話器の向こう側で声があがった。 『・・・本当に? からかっているんじゃないでしょうね?』 「こんなこと嘘ついてどうすんだよ」 『そ、そうよね・・・。あたし、今になってドキドキしてきたわ』 「遅すぎ。それに・・・、やっべーよ、センセ。俺、叔父さんに殺されるかも」 『え?』 相手の声に答えることはせず、琉は通話ボタンを切った。向こう側でチャイムが聞こえ始めたのだ。午後一時十五分。 部屋の時計を確認して、琉は再びため息をついた。 何気なくカレンダーを見る。卒業式まであと一ヶ月半。
一月第三月曜日。 一見なんてことない日だが、大学を受験する多くの者にとって、週末の大イベントを終えたばかりでまだ精神は揺らいでいる最中だ。そう、二日間にわたるセンター試験が終わったのだ。 あちこちで発表される解答を片手に、ただひたすら答え合わせをする。国立大を希望している琉は全部で七科目。採点するのも楽ではない。次第に目がチカチカしながらも、寒さで冷たくなる右手で赤ペンを握るのはやめない。 鳴らないはずの携帯電話が鳴ったのは、その十分後。琉は携帯を手にとり、パネルに表示された名前を見て眉をしかめた。 「・・・・・・もしもし」 『おっす、琉ちゃん、元気か?』 その意は「昨日のセンター試験はどうだったか?」に該当され、更には「俺が教えてやった英語はもちろん九割取れたよな、取れなかったはずがないよな、俺が冬休みにあれだけ教えてやったもんな、その恩を仇で返す真似なんて琉はしないよな?」に当たることを琉は一瞬で悟り、息を吐く。 「叔父さん、ごめん。俺は素直に叔父さんに殺されます」 『何ぃ?』 「俺、英語は百五十点しか取れなかったよ」 『・・・・・・・・・・・・』 受話器の向こうで沈黙が走る。それを恐れて待つほど心臓に悪いことはない。琉が唾を飲み込んだとき、電話の向こう側の雰囲気が変わった。 『・・・そうか。琉、よく頑張ったな』 それは、予想外にもずっと優しい声だった。琉は呆れたように笑う。 「叔父さん、甘いなぁ。九割とらなかったら殺スとまでぬかしていたのに」 『はは、俺は終わったことはくよくよしない男なんだ』 「・・・あんなに精神的にキツイものだとは思わなかったよ、センター。凄まじいよね、一瞬にして終わってしまうんだね」 電話の向こう側にいるのは、琉の叔父でもあり、琉の通う高校の英語教師の朝霞でもある。彼は琉の恋のキューピットでもある。・・・言い方をかなりよくすれば、の話だが。 「それより叔父さん、授業は?」 『今は空きの時間だ。それに俺は琉ちゃんのことが心配でたまらんかったんだよ』 いつまで経っても甥に甘い朝霞に、琉は礼を言って受話器を切った。
結ばれたらハッピーなんて幻想だ。この世界はドラマではない、シビアな現実。どこまでも奥深く日常は襲ってきて、その繰り返し、繰り返し。エンドなんて死ぬまできっとありえない。 それでも、二人はそのいつかを信じて季節を乗り越えてきた。教師と生徒という壁を正面から受け止め、この半年、二人はキスすらしていない。それは禁欲というほど拷問じみたものでもなく、ただ二人は未来を見つめていた。 琉の強さが里菜にも伝染する。 採点日だと言うのに学校さぼるなんていい度胸だわ、と里菜は半分笑いながら嘆息をして、携帯電話を机に置いた。数学準備室。 「さて、五時間目も頑張りますかっ!」 これからあるのは、まだ受験なんて考えてもいないだろう一年生のクラス。里菜は教科書とノートを持って、立ち上がった。
仕事を終えて学校から出ようとしたとき、雨が降っていた。里菜はマフラーに手をかけ、身震いをした。八時過ぎた空は当然真っ暗で、息を吐くたびに白い結晶が宙を舞う。かじかむ手で鍵を握り、車に乗って暖房をかける。 「寒い・・・・・・」 やっぱり誘われた飲み会に行けばよかったのかもしれない。同僚を数人思い浮かべるけれど、なんとなく気乗りがしなかった。仕事を片付けてしまいたかったのもあるし、なんとなく里菜は職員室の人間との間に壁を作ってしまっていた。それは誰にも言えない秘密を抱えているからだろうか。 一度でも生徒と寝てしまったことはやはり犯罪だ。 再び息を吐く。街灯が白い。動くワイパーの隙間から月はぼんやりと見える。冷たい空気は綺麗に感じる。一見必要性を感じない細菌だとかウイルスさえも冬眠に入っているのだろうか。だとしたら、この不安も取り除いてくれる存在がなくなってしまう。 強さは時に儚いもの。それは琉がもたらしてくれたもの。本当はとても寂しい。学校にいる間は平気なのに、校門という境界線を一歩踏み越えたらもう、自分はただの女に堕ちてしまう気がした。それが今日はとても酷い。 センター試験というイベントを終えてしまったからだろうか。妙な安堵がこの胸を急き立てる。あと一ヵ月半も待てば卒業式、あと二ヶ月半もすれば正式に琉は高校生ではなくなる。 まるで学生の頃に経験した試験前日のような高揚感と絶望感。それらが一気に里菜を攻め立てて、里菜は左手で目頭を押さえた。冷えた手に染みる温かい涙。 里菜が涙を拭ったとき、鞄の中で携帯電話が鳴った。里菜はもう一度深呼吸をしたあとで、車を停めてから携帯電話のパネルを見て目を見開いた。震える手でボタンを押し、受話器を耳に当てる。 「も、もしもし・・・」 『センセ、仕事終わった?』 里菜の心情もつゆ知らず、明るく投げかけるその声。確かに午前中も聞いたもの。 「・・・今日、二度目の電話ね。どうしたの?」 だから里菜も何事もなかったかのように明るく振舞った。すると、予想すらしなかった言葉が飛び込んできた。 『センセイに、会いたい』
マンションの前には琉が立っていた。 「長野くん!」 車を降りてからマンションの入り口まで里菜は走った。 「こんなに寒いのに、外で待たせちゃってごめんね」 「いや、会いたいって言ったの、俺だし」 琉は電話と同じ調子で笑うけれど、その姿を視覚的に捕らえてしまった今は、ただ抱きしめたくてたまらない。 里菜は琉を連れて、自分の部屋へと入る。部屋は散らかっていたけれど、今はそれどころじゃない。 「・・・長野くん、夜ご飯食べた?」 「え・・・、いや・・・」 「じゃあ作るね。その辺に座っていて」 里菜はなんでもないことのように笑って、キッチン台に身体を向けた。琉がおずおずとリビングに入り、ソファに座ってテレビを付けたのが分かる。テレビの音がとても無機質に聞こえ、背後に全神経が集中する。あの夏を思い出す。 「センセイ、やっぱ俺・・・」 「えっ!?」 気付いたら琉は里菜の後ろに立っていた。 「な、何・・・?」 顔が赤くなる自分がとても恥ずかしくなりながら、里菜は琉を見上げた。 「やっぱ俺、帰るね」 「え? どうして」 「センセイに一目会えただけで、落ち着いたから」 「・・・そ、そう?」 里菜は持っていた包丁を置いて、手を洗ってから琉に向き直した。数秒沈黙が走ったあと、再び琉が言葉を発した。 「センター終わって、一区切りついて、センセイに無性に会いたくなってしまった・・・。今までせっかく我慢していたのに、ここで耐え切れなくなったら格好悪いよな、俺・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・」 「このままここにいたら、マジでヤバくなりそうだし」 センセイ可愛いからさ、と言う琉を見て、里菜はただ顔を赤くすることしか出来ない。息がつまりそうになるほど苦しい。だけど泣いたら駄目だと思って、里菜は酸素を吸い込んだ。 「あと一ヵ月半で卒業じゃない」 無理やり笑ってみたけれど、きっと琉にばれていると知っていた。知っていながらお互い気付かない振りをして、二人で玄関まで歩く。 里菜に背を向けてスニーカーを履く琉の背中に触れようとした右手を慌てて引っ込める。ぞくりと何かが体中を走った。 「・・・センセイ?」 何の気配を察したのか、振り返る琉に里菜は慌てて首を横に振った。 「な、なんでもない!」 里菜の様子を見て可笑しそうに笑い、琉はドアノブに手をかける。 「急に来てごめんね、センセイ」 「ううん・・・」 「俺、頑張るからさ。応援して」 「当たり前でしょ?」 動く唇。それだけでも欲しいと思って、でもそれすら隠す。自分たちは恋人同士じゃない。ただの教師と生徒。 里菜は微笑んで琉を見送った。マンションの下まで送るなんて出来なかった。出来るだけ早く離れないと本音が漏れてしまいそうで。 この胸の痛みはゴール前の苦しみだといい。 ゴールは一ヵ月半後。それでもやっぱりハッピーエンドは永遠に訪れない。
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