5 恋する獣



 初めて里菜を見たのは、去年の四月の赴任式だった。
 大学卒業したばかりの新人で、全校生徒を前に里菜は表情を引きつらせていた。固まった笑顔は緊張の大きさを表しているようだった。
 しかし二日後にはすでに学校に馴染んだのか、怖いもの知らずであるような表情で廊下を歩く。その容姿のせいで、男子生徒に声をかけられることもからかわれることもあったが、里菜は一切動じずにいた。それが格好いいと女子の間でも人気が高まった。
 里菜は琉が在籍していた二年一組の数学担当になり、その授業は分かりやすく新鮮で、琉は楽しめた。最初は琉にとってもただの分かりやすくていい先生だった。クールである以上、もう誰も彼女をからかうことなんてしなかったし、琉でさえも恋愛対象に見るなんて恐れ多かった。
 もともと数学という教科は好きだったが、里菜の授業のおかげでますます好きになった。興味を持てば突き進んでいくタイプである琉は、熱心に勉強し、分からない問題があれば数学準備室に向かって里菜に質問しに行った。そのおかげで里菜は琉の名前を覚えた。それだけで嬉しかった。そんな日常が続いていたある日。
 数学準備室に行っても里菜はいなかった。準備室にいた他の数学教師に聞いたら、先ほど出て行ったと伝えられた。職員室だろうかと思ったがそこにもいない。
 しばらく廊下をうろうろして、もう一度準備室に向かってもいなかった。どこに行ったのだろう。ほとんど人が寄らない奥の非常階段まで進んだとき。
 すすり泣く声が聞こえた。
 まさかだと思って、琉は忍び足で歩き、その声に近寄ると。 里菜が背中を向けて泣いていた。体操座りをした格好で膝に顔を当て、肩を震わせていた。実はまだ教師という職業に慣れておらず、まだ辛いことも多いのかもしれなかった。
 琉は何か熱い感情が胸に込み上げてくるのを感じた。何がクールだ、小さなその体は何よりも女らしくて可愛らしくて、・・・今すぐ抱きしめてその涙を止めてやりたいと思った。でも自分は年下のまだ高校生のガキだ。何が出来る?
 もどかしさと悔しさが琉の心に生じる。もっと大人だったらよかったのに。結局何も出来ないまま琉は廊下を戻った。
 翌日の授業で見た里菜はいつもと同じすました顔で授業をし、さらに琉を不安にさせた。これほど自分を隠せてしまうというのならば、いつ一人で泣いても分からないではないか。
 それから琉の目は常に里菜にとどまるようになってしまった。気付いたら惚れていた。そういうことだ。


「センセイは全然クールなんかじゃないよね」
 狭いシングルのベッドで二人並んで寝転がって、里菜の髪を撫でながら琉は静かに言った。里菜は閉じていた瞼を重そうに開けて、愛おしそうに琉を見つめる。
「そんなの、周りが勝手に言っているだけだわ」
「俺は誰よりも早く、そのデマに気付いたけれどね。でも、さっきのセンセイは今までで一番可愛かった」
 琉の言葉に里菜は呆れたように笑う。それが照れ隠しだと琉は知っている。
「センセイは赤い果実のようだ」
「・・・赤い果実?赤い実のフルーツ?」
「うん、俺をこんなに誘惑するし、すっげー大人だと思っていたのに、中身は甘くて可愛いんだ」
 その言葉に、里菜は噴出すように笑った。
「あたし国語は苦手なのよ。妙な例えであなたに堕ちることはないわよ」
 そんなものを利用しなくたって、もうとっくに琉に心を奪われていた。例えこれが一度きりの関係だとしても。


 夏休みが終わり、受験生は更に慌ただしくなる。センター試験の申込書を見ながら琉が唸っていると、頭上から「おはよう」と声が降ってきた。優子だった。
「憂鬱だな、受験あるし、いつまでもあんた達のことを面白がっていられないな。受験がなければ、他人事のように見守っていられたのに」
「・・・俺たちって?」
 優子の話す意味を掴めず、琉が隣に座る優子に問い返すと、優子は不敵に笑い琉の耳に口を近づけた。
「里菜先生とはどうなのよ?」
「・・・・・・悪いけれど」
 琉は曖昧に笑った。
「今はそれどころじゃないんだ。受験あるし」
 半分真実で、半分が嘘だ。本当は何もかも捨てて里菜の傍にいたかった。里菜を一人占めしたかった。ドラマのように、里菜を連れて逃亡してもよかった。しかし、それをやったところで自分達には何が残る?果たして幸せになれるだろうか。
 今は確実に基盤を作っていかなければならない。まして自分は里菜よりも六歳も年下の子供なのだ。それさえ出来なくて、里菜を大切にするなんて不可能だ。この厳しくてシビアな現実を生きていくには、それなりのコツというものが必要なのだ。ただ本能の赴くままに生きていくわけにはいかない。
「なんだ、つまらないな。長野くんって意外と冷めるのが早いのね」
 優子は心底残念そうに言う。人の恋愛をなんだと思っているのだろうと琉は苦笑する。
 冷めるのが早いわけじゃない。むしろ熱するのが遅い。現実主義なだけだ。その先を夢見る、意外とロマンチストっていうやつだ。里菜が言っていたように。


 職員会議が終わり、数学準備室に行こうとしたとき、自分の名前を呼ばれた気がして里菜は足を止めて振り向いた。
「・・・朝霞先生!」
「おはようございます、藤峰先生。今更ですが、あのときは申し訳ございませんでした」
「・・・あのときとは?」
「以前先生方との飲み会の帰り際のことです。僕が無理やり引き止めてしまって・・・」
 そこまで朝霞が言ったとき、里菜は声を押し殺したように笑った。
「・・・藤峰先生?」
「ああ、ごめんなさい。朝霞先生があまりにも真面目におっしゃるものだから。そんな一面を生徒に見せたらますます人気が高まりそうですわ。あたしも一瞬ときめいてしまいました」
 里菜が冗談っぽく微笑むと、朝霞は心底困ったように言った。
「そんなことしたら黙っていない男がいるでしょう?三角関係は勘弁です」
「・・・本当に知っていらしたのね。長野くんから聞きました。先生は長野くんの叔父様なんですってね」
「ああ、やっぱり言っていたんだな、あいつは」
 職員室内は朝の喧騒で騒がしい。それでも二人は職員室の隅のほうで声を潜めて話し出す。
「琉は可愛い甥でね、つい甘やかしたくなるんですよ。あいつは本気であなたのことを好きなんですよ」
「知っています」
 里菜は強く瞬きをして、もう一度朝霞を見上げた。朝霞は驚いたように目を見開いた。
「もしかして藤峰先生は・・・」
「でも、あたしにとって彼はただの生徒ですし、長野くんだってあたし以上に打ち込んでいることがあるでしょう」
 遮るように里菜は少し声を高めて言った。朝霞は少し考え込むような仕草をして、再び口を開く。
「琉が、そう言ったんですか」
「え?」
「確かに、付き合うなと言ったのは俺ですけれどね。それを忠実に守っているのは琉自身だ。なぜだか分かりますか?」
 優しい、叔父を感じさせる瞳で朝霞は笑った。里菜はただ呆然と朝霞を見ていた。
「琉は、全力であなたを守り、あなたを幸せにしたいんですよ」


 里菜は教科書や参考書を持って廊下を歩く。スカートの裾に気をつけて三階まで上る。今日の一時間目は三年一組の授業だ。そろそろ過去問のプリントでも刷って皆にやらせなきゃな、と里菜はひとりごちながらドアを開ける。
 教室内は静まり返ったように、生徒が勉強していたり眠ったりしている。その光景に里菜は胸を痛めるけれど、これを乗り越えて夢を実現させたら素敵だと自分に言い聞かす。確かに自分にもこのような時代はあったのだと。
「みんな、おはようございます」
 教壇に立つと、久しぶりに見る琉がいた。疲れているようだった。少し痩せたかもしれなかった。でも、その瞳に宿る光は誰にも負けない力を持っていた。
 ―――琉は、全力であなたを守り、あなたを幸せにしたいんですよ。
 駄目だ、感情が溢れて今にも泣き出しそうになる。全てを捨てて、琉にしがみつきたい。でもきっと、琉は自分の数学を教えているという一面も含めて好きになってくれたのだ。琉が気持ちを押さえて頑張ってくれているなら、あと半年、気持ちを押し殺すしかない。里菜はチョークを握って、黒板に数式を並べる。教科書に視線を落として、その式の説明をする。自分にもやらなければならないことがある。教師として、この教室の生徒に夢を託さなければならなかった。


 放課後、以前と変わらない様子で琉が入ってきた。手には新しいと思われる参考書があった。
「長野くん、参考書を買うのもいいけれど、同じ問題を何回もやったほうが効果的よ」
「え、そうなの?じゃあ、これも何回もやらなきゃな」
「数学もいいけれど、他の教科も頑張りなさいよ。英語の朝霞先生も呆れてらしたわよ」
 ハッタリをかましてやると、効果があったようだ。琉の表情が固くなる。
「・・・朝霞と喋ったの?」
「それより、分からない問題はどれ?くだらない話をしている時間はないでしょう?」
「センセイ、俺のこと子供だと思っているでしょ」
 顔をしかめながら参考書を開く琉に、里菜はうなずく。
「子供よ。六つも年下の、可愛い生徒よ」
「・・・今の言葉、絶対撤回させてやるからな」
 机の上に音を立てて参考書を置く。その音に里菜の体が少し震えた。
 自分で仕掛けといて、最高の罠にはまる。それだけで、里菜は喜びで心が震えるのを感じた。琉の瞳を見る。相変わらず、鋭い光を放っている。琉が見つめている先に自分がいるなら、これほど嬉しいことはないと里菜はその雰囲気に合わないことを考えていた。
「楽しみにしてる」
 その瞳を見つめて、里菜はつぶやいた。半年後を心待ちにしていると。その瞬間、その瞳は和らいだ。
「今は俺だって、センセイのことなんかただの教師としか思っていないけれど」
 緊張で震える声を、心に留めるように里菜は聞いた。
「卒業したら、もう一度センセイを好きになるから、待っていて」
「・・・うん」
 うなずいたあと、里菜は琉が分からないと言った問題を解いて説明しながら、琉に抱かれた夜を思い出した。絶対忘れられない、愛されたという証。何度も里菜という名前を呼ばれ、何度も琉という名前を呼んだ夜。いくらでも待っていられると思った。不安はあっても、受験生のように戦っていけばきっと大丈夫。
 説明が終わったあと、琉は理解したのかありがとうと言った。里菜はほっとしながら息をつく。
「志望校はもう決めたの?」
「うん、家から通えるところ。でもセンセイには秘密」
 秘密と言ったって、家から通えるところなんて限られている。難関大学になるのかもしれない。この場合は頑張ってとは言わないほうがいいだろうと、里菜はただ微笑みを返す。
 そんな里菜を見た琉はもう一度「ありがとう」と言った。
 それはまるで、愛していると聞こえた。



Fin.



あとがき      
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