俺たちは付き合っているわけじゃないから。まるでそれは断りを入れるように琉はつぶやいた。里菜は覚悟していたのか、その科白に驚くことはしなかった。 世間はもう夏休みに入っている。しかしこの高校の三年生は補習に来たり、自主的に図書室で勉強しに来たりと、夏休みを満喫している様子はなさそうだ。これでもこの高校は進学校だった。 いつもの数学準備室。最近琉が来るときは他に数学教師がいたので琉は今まで言えずにいた。特に二人は外で会っているわけでもないのだ。だからこそ里菜は琉の言葉に違和感を持たなかった。 「俺は俺のことで手一杯だし、まだこの学校の生徒だし・・・。センセイを危険な目に遭わせたくないんだよ」 「分かっているわ。あなたは大事な時期だもの。ちゃんと分かっているから心配しないで」 微笑む里菜に琉は目を細める。 「でもセンセイは寂しがり屋だから、ちゃんとした関係じゃないとすぐ不安になるだろ?」 そこで里菜はどきりとする。子供のくせに、一体自分の何を見ているのだろう。誰からもクールだと言われている里菜の本当の姿を見抜いた男だ、今更疑問を持つようなことでもないけれど。 「あたしは大丈夫。だから、長野くんはやらなければならないことを精一杯やればいいわ」 「分かった」 そして、一つの問題を里菜に質問し、納得した後で、琉は言った。 「やらなければならないこと・・・っていうか、やるべきことがあるんだけど」 「何?」 さっきの会話の続きだと里菜は琉の顔を見上げる。すると、琉は幼い笑顔で笑った。 「八月の中頃、俺の誕生日なんだ。祝ってくれる?」
我ながら勇気のいる発言だった。でもどうしても会って欲しかった。 琉は教科書や参考書でいっぱいになった重い鞄を抱え廊下を歩く。廊下に取り付けられた大きい窓からは夏の陽が差し込み、床を反射させ、余計にまぶしくて琉は目を細めた。 「琉!」 目の前から歩いてきた背広姿に琉は顔をしかめる。 「げ・・・、学校では名前呼ぶなって言っただろ?朝霞センセイ?」 「誰もいないんだからいいじゃないか、それに君は俺に借りがあるんだし?な、琉ちゃん?」 朝霞の不敵な笑みに、琉は舌打ちをする。 「それで、あれからどうなんだい?」 「どうって・・・、叔父さんに言われたとおり、付き合ってはいないよ」 「付き合って『は』いない?じゃあ何やったんだ?」 「好きだとは言っておいたけれど」 つまり遡る話、琉が里菜をラブホテルに連れ込んだのは事故とはいえ、ピンチから助けたというシナリオは最初から仕組まれていた罠だった。琉が信用する叔父である朝霞を利用して、里菜の目線をわざと自分に向けさせようとする作戦だった。そうでもしなければ、六つも年下で生徒である自分を見てくれないだろうと分かっていたのだ。 「ひゅー、やるねぇ」 「叔父さんが急かすからだろ?大体、いくら昔から俺の悩みを聞いてくれたからって、そこまで身を犠牲にしてくれるほど協力してくれるなんて思わなかったよ!」 「琉ちゃんは姉貴の可愛いご子息ですからね」 「しかも、教師と生徒の恋愛を協力する教師がどこにいるんだよ・・・」 「俺は先生である前に、琉ちゃんの叔父さんだもーん」 三十になったばかりの朝霞は、見た目よりも若く、まるでその光景は歳の離れた兄弟のようだった。文句を言いつつも、琉は朝霞に感謝していたりする。 「ありがとな、叔父さん」 「おーおー、その代わり俺に可愛い女子高生を紹介して」 「ロリコンかよ」 「失礼な!世の男はみんな女子高生が好きなの!おまえも十年後には分かるさ。なのになんで年上の女なんかを好きになるかね。そりゃ俺も憧れた時期はあったけれど、好きになったことはないぞ」 呆れて髪を掻きむしる朝霞に、琉は苦笑する。そんなものは仕方ないと思った。俗に言う惚れたら負けというやつだ。 「叔父さんさぁ、藤峰先生にまだ嫌われたままなのかよ?」 「そうだねぇ、あれから別に話すこともなかったし、気まずくなるほど仲もよくなかったし、おまえは気にすることないけどな。それに俺はあんなクールな女よりも、小さくて可愛い女子高生が好みだ」 「・・・叔父さん、変態だよ」 悪態をつき、少年のように笑う朝霞を見て、琉はため息をつく。 「俺、誕生日は藤峰先生と一緒に過ごしてもらうようにしたよ」 「ほう、何気にやるな、甥っ子よ」 「そのとき、朝霞センセイのことを弁解しておくよ」 「そんなことしたら、気まずくならねえか?」 「でも、騙したのは本当だし・・・」 琉は一度睫毛を伏せ、そしてもう一度正面から朝霞を見た。 「叔父さんは言ったよな。彼女を守りたかったら立場を守れって。だから付き合うことはやめろって。だからさ、今度で最後にする。もう俺は藤峰先生には何も求めないし、両思いになりたいなんてそんな欲望は捨てるよ」 覚悟を決めたような目で語る琉に朝霞は眉をひそめる。 まだ十八歳にもならない少年が立場を超えた想いを抱えることが、生半可なことであるはずがなかった。どれだけの想いを重ねて、その覚悟を生み出せるのだろうか。 「・・・あんまり抱え込むなよ」 いくつになっても甥とは可愛いものなのだろうか、朝霞は同じくらいの背丈がある琉の頭を撫で、そのまま職員室へと歩いて行った。
八月十七日の夕方、琉が待ち合わせのコンビニに行くともう車は止まっていた。私服姿の琉は額に浮かぶ汗を拭い、中を覗き込む。 世の中には残暑が残り、街は夏休みあと半分を切ったということで若者達が騒いでいるが、琉たちには無縁の話だった。 「遅いわよ、長野くん」 運転席で大きな瞳で琉を睨む里菜は、いつもよりも教師という職業を匂わせていなくてどこか可愛らしかった。 「ごめん、塾の先生がなかなか時間通りに終わらなくて」 「ふーん、塾ねぇ・・・」 琉は頭を下げながらも助手席に乗り込む。 「誕生日の日にも夏期講習なんだ?」 「いや、誕生日関係ないし」 「まあ、いいけど。十八歳おめでとう」 隣から里菜の手が伸びる。その手は頬を辿り、唇に触れる。 「・・・センセイ、何したいの」 「会うの久しぶりよね」 噛み合わない一言を交わしたあと、二人は苦笑し、里菜の指は琉から離れてハンドルを握った。 長野くんの誕生日はあたしの家で祝わない?と言い出したのは里菜だった。外で祝うにしても一目を気にしなければならないし、最後にするならそれも悪くないと琉は承諾した。 夏休みに入って、琉は学校や塾で行われる夏期講習の毎日で、学校に行っても里菜と廊下ですれ違う偶然はそれほどなく、会うのは十日ぶりくらいだろうか。それだけで懐かしく感じる声に、琉は酔いそうになった。 車が十分ほど走ったとき、大きなマンションにつき、地下駐車場で二人は車から降りる。 「うわ、立派なマンションに住んでいるんだな、センセイ」 琉の驚愕の言葉にも里菜は特に何も言わず、ただ笑みを返しただけだった。そのままエレベーターに乗り、ロックを解除し、自動ドアをくぐってエレベーターに乗る。 不自然な浮遊感を覚えながら、琉は今更になって緊張した。 エレベーターが止まり、二人は降りる。恋人でもないのにこのシチュエーションはなんだろうと琉は高鳴る胸を持て余す。 「長野くん?どうしたの?」 歩く速度が落ちた琉に振り返り、里菜は静かに問いかけた。 「いや、なんか緊張して・・・」 「そんなに気を遣うことなんてないわよ。別に付き合っているわけじゃないんだから」 それはまるで仕返しのように、自分が投げた爆弾が今更跳ね返ってきたようだった。分かってはいても相手に言われると堪える。 里菜はドアを開け、琉を中に入れた。中は女性の部屋の割にはシンプルで、広い部屋なのに物が少なく、リビングはソファとテーブルとテレビとコンポしかなかった。無機質な分、里菜が華々しく見えた。 琉はソファに座り、里菜はキッチンに入った。 「今日はね、腕をふるって料理してみたのよ」 もう琉が来る前から用意していたのだろうか、次々とリビングにあるテーブルに料理が運ばれる。手の込んだ色鮮やかな料理は、普段学校では見せない家庭的な部分が見えたようで、余計琉は戸惑ってしまった。 里菜も琉の隣の席に座り、ワインを空けた。 「飲めるでしょ?」 「センセイ、教師なんじゃねえの?」 琉の言葉にも里菜は何のことやらと肩をすくめ、グラスに注いでいく。オレンジに近い赤色、ロゼワインだろうか。 「じゃあ、長野くんの十八歳の誕生日を祝って。乾杯」 里菜は琉のグラスにカチンとグラスをぶつけた。 「ありがとう、センセイ」 そして、二人はこれまでにないほど色々な話をした。家族のこと、学校のこと、友達のこと、昔のこと。それらの会話の中で味わう食事は最高に美味しかった。誰も知らない里菜の姿をまた発見できたと琉はそれだけで嬉しくなる。 「あのさ、センセイ、・・・言わなきゃいけないことがあるんだ」 「何ー?」 程よく酔って気分がいいのか、里菜は頬を赤くして満面の笑みで琉を見つめる。それに惑わされないように琉は一度俯いた。 「朝霞・・・先生のことなんだけど」 「ん?」 何を言われるのか予想もつかず、里菜はきょとんとした。 琉は全てを打ち明けた。実は朝霞は自分の叔父であり、あの夜に里菜を助けたのは故意的なのだと。朝霞は自分のために悪役を演じてくれたこと、全ては罠だったと。 「でも誤解しないで欲しいんだ、そうでもしないと先生は俺を向いてくれないの分かっていたし・・・、先生のこと、好きだったから・・・」 「・・・・・・・・・・・・」 あっけにとられているような里菜を見て、琉は胸を痛める。 「ごめん、先生。反省はしてる。これって犯罪かな・・・、ごめんね」 「・・・本当、反省して欲しいわ」 里菜の顔は先ほどまでの笑みが消えていた。無表情でぼそりとつぶやく。 「なんとなく・・・、あれから朝霞先生も何も言ってこないし、今までだってそんなに話したことないのに言い寄るなんておかしいと思っていたし、全部合点がいったけれど」 気を紛らわすためか、更にグラスにワインを注ぐ。そして横にいる琉を睨んだ。 「・・・あたしを巻き込んだんだ?」 「ごめん」 「今更そんなこと言われたって、あたしどうすればいいの?それであなたを嫌いになれたらよかったのに」 里菜が涙声になっているのは気のせいではないと琉は思った。そのまま静かにその言葉を聞く。 「どうしよう、嬉しいなんて思う馬鹿なあたしがここにいるのよ・・・」 その瞬間、里菜の頬に涙が流れたと思ったときにはもう里菜の腕は琉の首に絡まっていた。 「それだけ好きになってくれて嬉しいって、思ってしまうの・・・」 「・・・本当に?」 「本当よ。じゃなかったら今頃家から追い出しているわよ!」 琉の肩に顔を押し付けて、里菜は涙を流した。 「ただ・・・、本当に馬鹿みたいだけど、運命論みたいなものを信じていたから、必然的だったんだって思ったらショックだったというか」 「・・・でも、俺が通う高校に去年先生が赴任したのは、運命じゃない?」 里菜の頭を撫でながら、琉はつぶやく。里菜はただすすり泣くだけで何も答えない。まだ琉の両手は空いている。抱きしめてもよいのか迷っているのだ。 「長野くんって、意外とロマンチストね」 かすれた声で里菜は笑う。首に感じる腕の力が強くなる。理性が崩れそうだ。それでも琉はなんとか気を紛らわせようと話題を探す。しかし焦れば焦るほど何も言葉が浮かばなかった。そのとき。 「あたしね、あなたのことなんて好きじゃない」 突然、思いつめたように里菜が言った。 「あなたはただの生徒よ。今日呼んだのもそれを伝えるため。一度きりの関係で終わらせたいの」 里菜の体が震えている。琉はしばらく口を固く結んで考えていたが、ようやくその言葉の意図を理解したようだった。切なそうに目を細める。 「・・・分かっているから、先生、それ以上何も言わなくていいよ」 琉は覚悟を決めたように真顔で言い、里菜の背中に手をまわした。 隙間がなくなるほど強く抱きしめあった後、琉は里菜の唇にキスをした。 心なんてなければいい。そう願うほど愛おしさを抑えきれず、今度は深いキスを交わす。 こんなに緊迫している状況下でふわふわとどこか心地よいのは、お酒のせいではない。長い片想いを経て、やっともうすぐ彼女を手に入れられるというもどかしさが琉を襲う。それでも慎重に、慌てずに、ゆっくりと、じっくりと、琉は里菜を愛した。
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