3 だったら愛で魅せて


 ドキドキするのをどうにかしてもらいたくてキスをねだったのに、唇が触れ合うと余計に里菜の心臓は高鳴った。
 二人の唇がそっと離れたとき、二人の視線は交わることなくお互い下を向いていた。恥らうような気まずい沈黙。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 琉でさえこれが本当に正しかったのか分からない。でも間違っているとも思わない。求めていることを実行したまでだ。琉はいつの間にか抱きしめていた里菜の身体を名残惜しくも離した。
「じゃあ、俺、帰るな」
「・・・・・・うん」
 里菜は曖昧にうなずいた。せっかく今日は車で来たのに、「乗ってく?」とも言えない。どうして教師と生徒なんだろう。幸せを感じていたい時間なのに、すでに寂しくて仕方なくて泣きそうになる。
 正門に向かって歩いていく琉の背中を里菜は見つめていた。刹那的な出来事だった。気持ちは慌ただしくて、琉の言葉に追いつくのが精一杯で、何も考える暇すらなかった。
―――本当にあたしのことが好き?
 今は何度答えを聞いても納得できないだろう。


 わりと早めに登校をして、教室に入って席につこうとしたとき、隣を見て優子はあんぐりと口を開けた。
「おはよ、長野くん。何やっているの?英語の予習?」
 優子の声に気付いたのか、立ったままの優子を見上げて琉は「おう」と口を動かした。
「・・・どうしたの?だって長野くんって英語になんてまるで見向きもしなかったじゃない?」
「別にいいだろ?やっぱり受験には英語は欠かせないし」
 昨日とはまるで別人のような態度に、優子は考えをめぐらせる。何かあったのだろうか。そう思って少し琉に近づいて、そっと耳打ちをした。
「里菜先生となんかあった?」
 その瞬間、琉は噴出すように笑った。顔を真っ赤にしながら。
「お、おまえ何言ってんの?」
「長野くんって面白いわー」
 お気に入りのおもちゃを見つけたような言い草で、優子は不敵に笑った。
「正直者ね」
「俺はまだ何も言っていないだろ!」
「口に出さなくても分かるから正直だって言われるのよ。だいたい里菜先生だって、授業中は長野くんのことばっかり気にしているし、見てられないったら」
「・・・・・・・・・」
 琉は視線をノートに落として、頭に入ってこない英文を眺める。
「・・・絶対、誰にも言うなよ」
「言わないわよ」
 その代わり、と優子は付け足す。
「数Vのノート写させて?」


 三年一組の授業を終えた里菜は職員室に戻り、ため息をついた。こっちはドキドキが収まらないというのに、授業中にふと琉のほうを眺めたら気が抜けるほど冷静な顔つきをしていた。何だか悔しくなってくる。もしかしたら自分は騙されたのではないだろうか。
 もう一度ため息をついたとき、同じタイミングで隣からも息を吐く音が聞こえた。見ると国語科の竹中も眉間に皺を寄せている。
「どうされました、竹中先生?」
 竹中は三十くらいの女の教師で、三年三組の担任をしている。非常に感じがよく、生徒にも慕われていた。里菜の目標でもある。
「ああ、藤峰先生。いやね、さっきウチのクラスで進路票を配ったんだけど・・・」
「そっか、もう七月ですものね。志望校とか記入しなくちゃいけないんでしょう?」
「ええ、でもまだあの子たちには、重い任務なのよね。三年の担任なんて持つものじゃないわね」
 それでも、竹中はこの仕事をきっと心から愛しているという表情を見せ、里菜はほっと安堵をつきたくなるような気持ちになる。こんな人間だから生徒にも好かれるのだろう。
「あの子達の不安を取り除くことなんて、私たち大人にはできやしないのよ。結局自分自身の戦いなんだから」
 そう言って、竹中は次の授業の準備なのか国語辞典や教科書を手に持って、席を立った。
「自分自身の戦い、か」
 自分が高校三年だったころのことを思い出すと同時に、里菜は今の自分の姿を考えた。雲に包まれたような、周りが見えないこの状況は、少し似ていると思った。


 あのキスの一件以来、琉は声をかけてこなくなった。数学の質問にも来ない。でも職員室に来ているのは時々見かけた。そのときは英語科の朝霞のところへ真面目に教科書を持ってきていた。
 酔ったときに、しつこく自分に言い寄った朝霞は、あの夜以来特に何の意図も示さないし、そういう素振りすら見せていない。やはりあの夜は酔っていたのだろうか。そう思うと安心するが、今のところまだきちんと話は出来ていないでいる。
 それにしても、だ。琉と朝霞が仲良く話しているのを見ると、里菜は苛立ちを覚える。酔っていたとはいえ、朝霞は里菜に言い寄り、それを琉が助けてくれたはずだった。本当に自分を好きならば、琉は朝霞を憎んでくれたっておかしくない。そんな少女マンガちっくなことを考える自分にも寒気がするけれど、一度目覚めてしまった気持ちを抱えればそんな馬鹿馬鹿しい嫉妬すら生じてくるのだ。
 ―――本当にあたしのことが好き?
 期末試験が近づくにつれてその疑問は大きくなっていく。試験問題を作ったりと慌ただしい日々を送っているなか、ある日廊下を歩いていると、前方で琉がクラスメートである女子と仲良さそうに話しながら歩いているのを見かけた。二人とも背を向けているせいで後ろを歩く里菜には気付きもしない。あの女子は、確か三年一組の委員長だ。
 やりきれない想いが溢れる。どうして自分は教師なんだろう。すぐにでもあの場所に行って問い詰めたい。自分を遊びだと見ているのならば終わりにしようと、泣きたい。でも里菜はそんなことをとても出来る立場にはいない。委員長のほうがずっと自分よりも釣り合っているように見えて、里菜は俯いたまま歩いた。目の前の二人はそのまま三年一組の教室に入っていった。結局里菜に気付くこともなく。


「試験が終われば夏休み、でも三年生はそうは言っていられませんね」
 昼休み、席で弁当を食べていた里菜は隣にいる竹中の言葉に苦笑した。
「受験生って、あたし達から見ていても可哀相に思いますわ」
「まあ、それを糧に充実した日を送ってくれるといいんですけどねぇ」
 次に言葉を発したのは里菜のもう片方側の隣に座る、生物科の佐々木だ。彼は里菜より二つ年上の若い男性教師であり、一部の女子に異様にモテた。
「そう簡単なことでもないわよ。私ね、昨日の放課後にある女の子から相談を受けてしまいまして」
「何と?」
「付き合っている同級生の男の子が全然自分に構ってくれないんですって」
 そこで竹中は、受験生なんだから恋愛をやめなさい、とか、子供のくせに生意気なことを言うんじゃない、などと言わないから里菜は好きだ。そう言ってしまう大人は意外とたくさんいることを里菜は知っている。
「竹中先生はなんて言ったんですか?」
 里菜の質問に、竹中は悲しそうに笑った。
「この時期はみんな自分のことに必死なのよって・・・、それ以外の言葉は見つからなかったわ。先生達、どう思います?」
「・・・・・・・・・」
 里菜は俯いた。そんな難しい人間の心なんて知るはずがない。そう思っていたら、隣から佐々木がふっと笑ったのが聞こえた。
「僕は、その男子の気持ちが分かりますね。受験のときなんて、本当に自分に必死で、僕も彼女がいましたけれど、悪いけれどどうしても彼女のことを後回しにしてしまうというか・・・。将来に悩んだりしている自分の姿を見られたくなくて余計に距離を置いてしまうし、本当に悪循環なんですよね」
「まあ、佐々木先生もいい青春を過ごしていらしたのね」
 竹中は微笑む。それにつられて里菜も笑ってみせたけれど、心当たりがあって胸が痛い。
 まがりにも自分は教師なのに、なぜ分からなかったのだろう。琉だって悩んでいないはずがないのだ。


 期末試験二日前の放課後、久しぶりに琉は数学準備室にやって来た。
「センセイ、質問なんだけどー」
 ガラガラとドアを閉める琉を見て。里菜は目を細めた。二人で話すのは久しぶりなのだ。
「センセイ?どうしたの?」
「・・・あたしのことなんて好きじゃないのかと思った」
 ぼそりと低い声でつぶやく里菜を見て、琉は心底驚いたように目を見開いた。
「・・・好きだって言っているだろ?」
「でも、あの日以来、話しかけてくれないし・・・。一度の言葉じゃ、不安にもなるのよ」
 今にも泣き出しそうな里菜の細い声に、琉は唇を固く結ぶ。
「・・・だけど、長野くんは受験生だものね。こんなことばっかり言っているあたしが可笑しいんだわ。ごめんね」
 何かを取り繕うように教科書を開いた里菜を、琉はせきを切ったように衝動的に抱きしめた。
「・・・・・・ごめん、センセイ」
 琉の力強さに圧倒されながらも、里菜はやっとひとつの安心を得る。
「やっぱりセンセイは大人だよね。俺のこと、分かってくれてるんだ」
 それは違う、とは里菜は言えなかった。自分を抱きしめる腕の力が強くて苦しくて、胸がいっぱいになっていたから。琉は科白を続けた。
「センセイの言うとおりだよ。センセイのこと好きだけど、それだけを考えて日々を過ごすわけにはいかないんだ。まだ将来のことなんか考えたくないけれど、考えなきゃいけなくて、そんな格好悪い姿なんかセンセイに見られたくないよ」
 まるで佐々木と同じようなことを言う琉に、里菜は切なさを覚えた。
「・・・格好悪くたっていいのよ?」
「俺が嫌だよ」
 自嘲するように言う琉の首に、里菜は腕をまわす。
 一人で考えていたのが馬鹿みたいだ。勝手に疑っていた自分が情けない。琉の温もりを知れば、こんなに大切にされていることが分かるのに。
「長野、くん・・・」
 琉の肩に額を押し付けて、震える声で里菜は言った。
「・・・好きだよ」
 里菜の声は狭い部屋のなかに静かに溶け込んだ。琉は里菜の一言に心を震わせる。鼓動が早くなったことには里菜も気付いた。
「先生がそう言ってくれたのって、初めてだ・・・」
「・・・そうだったっけ?」
「前はそう言ってくれなかった。不安だったのは俺も同じだよ」
 琉の腕が強くなり、里菜は目を閉じた。まるで自分が踊らされているような感覚に陥っていたのはなぜだろう。今となっては情けないほど幸せなのに。
 言葉なんかじゃない。琉は、この世で最も抽象的なモノを里菜に見せてくれた。


      
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