2 ほしいの?ほしくないの?


 頬に触れる何かに気付いた。誰の指なのかすぐに分かった。そのまま目を閉じたまま息をたてないように自然に呼吸をしておく。
 その指はくすぐったくてすぐにでも目を開けたかった。そして里菜に何してんの?と問いかけるのも悪くないと琉は思う。だけどきっと彼女のことだ、そうすれば顔を真っ赤にし、今度こそ自分を向いてくれないに違いない。彼女はそういう性格であることを琉は知っていた。
 自分のクラスを受け持つ数学の教師として、いつも隙も油断も許さない雰囲気をまとっているが、実際はとても寂しがり屋で弱い女の人だった。
 指は唇に到達し、その一秒後に離れた。もう触れてくる気配はないと察知し、琉はゆっくりと瞳を開けた。
「・・・おはよー、センセイ」
「お、お、おは、おはよう・・・」
 里菜の慌てぶりに琉は噴出しそうになる。寝起きだからか無防備な顔、少しメイクは崩れているけれどそれでも学校にはない里菜の姿がここにあった。
「長野くん、今起きたばかり?」
「・・・うん」
 里菜の質問の主旨を理解し、琉は嘘をつく。里菜は自分が行っていたことがばれていないかどうか動揺しているのだ。
「今起きたばかり」
「そう・・・」
 ほっとした表情で里菜は笑った。
「センセイ、具合はもういいの?」
「ええ、昨日はごめんね。でも長野くん、ちゃんとご両親に連絡した?朝帰り、なんて、・・・ごめんなさい。謝って済む問題じゃないけれど」
 里菜が言うと、琉の表情が笑った。
「・・・別に、両親は慣れているから、一晩や二晩くらい」
「えっ、あなたどういう生活送っているのよ」
「それより、センセイ、メイク落としてきたら?」
 琉は再び笑顔を見せて、里菜に促した。


 はぐらかされた、そんな気がすると里菜は顔を洗いながら思った。ポーチの中に持ち歩きようの洗顔フォームも入れておいてよかった。里菜はタオルで顔を拭き、軽くマスカラとアイラインを引いた。今日は土曜日で出勤をする必要がない。それに。
 琉の前では繕わなくてよかった。今更だった。
 時計は午前八時を過ぎていた。里菜と琉はホテルを出て、駅まで歩いた。
「じゃあ、本当にいろいろありがとう。でも、学校ではこのことは他言無用よ」
 改札口付近で里菜が言うと、琉は笑った。
「俺だって問題起こしたくないよ」
「そうね。あなただってあたしを責められる立場じゃないわよね。高校生が夜遊びしていたんだもの」
「や、だからそれは・・・、お互い弱みを握っているってコトで」
「何ソレ」
 里菜は琉に手を振って、改札をくぐった。本当は同じ方面に住む二人は同じ電車に乗れた。でもこれ以上並んで歩くわけには行かない。このまま一緒に朝食をとりにカフェになんていけるはずがなかった。暗黙の了解。
 取り残された琉は、キャップ帽を被りなおし、切符を買いに自販機まで戻った。


 それから里菜は、妙に琉を意識するようになってしまった。
 何もなかったとはいえ、同じ空間で夜を共に過ごしたのだ。そもそも朝霞から助けてもらっている。つり橋効果だとしても、気になってしまうのは仕方のない現象だと里菜は開き直っていた。
 琉も在籍する三年一組の授業で、黒板に向かって数式を書いていても、背中が熱い。振り向くと必ず琉と目が合った。動揺を悟られないように冷静に里菜は再び左手で持つノートに視線を落とした。こんな様子でいるものだから里菜はクールだといわれている。よくない言葉では「可愛げのない女」、でも里菜はそれを不快には思わなかった。自分のことのように思わなかったから。
 本当はそんなに格好良くクールを決めることの出来る女じゃない。
「セーンセ!」
 昼休み、メイクを直し終わった里菜が職員トイレから出てきたとき、前に琉が立っていた。
「ちょっと・・・、婦女子をお手洗いの前で待つなんて、非常識じゃないの?」
「偶然です、偶然!」
 琉はにっかと笑う。そのあどけない表情は魅力的なものだと里菜は思った。実際彼には多くの友達がいて、人を寄せ付けるタイプだということを知っている。
「今日の数学、難しかったんだけど」
「そろそろ応用もできなきゃ、でしょう」
「積分の応用?どれだけ公式を暗記すればいいんだよ」
 琉の手には数Vの教科書があった。理数系に進む生徒のための教科だ。
「何度も解けばそのうちパターンを覚えられるわ」
「じゃあ、この問題は?」
 ふたりは数学準備室へと歩きながら、教科書を見合っていた。そんな小柄ではない里菜と、一般高校生の平均身長である琉は、妙に釣り合いが取れていた。
 誰もいない準備室に入り、里菜は机に座って余った紙に、琉が示した問題のヒントである数式を書いていった。その様を琉はじっと見つめていた。
 白くて長い指がシャープペンシルを紙の上に走らせていく。
「センセイ、綺麗な指だよね」
「ちょっと、あたしの話聞いていた?」
 琉の言葉に里菜は慌てて右手を隠そうとしたが、遅かった。琉の手に捕まってしまった。
「ちょ・・・、何するの!」
「この指が、俺の顔に触れた?」
 琉が両手で里菜の右手を包み込んで、正面から里菜を見つめた。里菜は顔を赤くする。
「な、何を言っているの」
「とぼけないでよ。俺知っているよ。先生が俺に触れてくれたことも、本当は弱い人だってことも、・・・好きだったから、ずっと、好きだったんだ」
 真面目な声で、真剣に琉はゆっくりと言った。腰をおろして、椅子に座る里菜に目線の高さを合わせて。里菜の瞳が潤むように揺れた。
「・・・長野くん、本当に、何を言っているの?」
「どうせあの時聞いていなかったんでしょ?先生酔っていたもんね。でも俺は何度でも言うよ。藤峰里菜先生、あなたが好きです」
 そして、琉は里菜の一指し指にそっと口付けを落とした。里菜は悲鳴をあげそうになる。
 あの日からずっと変だと思っていた。なぜ彼はあんなに優しくしてくれたのか。振り向くたびに目が合ったのはどうしてか。今答えが出た気がして、胸が苦しい。
 顔を赤くして、唇を震わせたまま何を言えない里菜を見て、微笑した琉は、そっと里菜から離れた。
「じゃあ、授業始まるし、俺行くね。問題教えてくれてサンキュ」
 手を振って、まるで何もないみたいに。ドアを閉めて行ってしまった。
 琉がいなくなった途端、部屋は静けさを増し、壁にかかったアナログ式時計の針の音が響いて虚しくなった。里菜はそのまま、椅子から立てないでいた。


「長野くんって、数学の成績はいいわよね」
 放課後、皮肉っぽく言ったのは、琉の隣の席に七岸優子(ななぎしゆうこ)だ。ちなみに彼女はこのクラスの委員長でもある。
「悪かったな、他のが悪くて!」
「英語の時間なんて、いつも死にそうだものね」
「放っておけ」
 数学Vの教科書やノートを鞄に突っ込むと、優子はムフフと不穏に笑った。
「私、見ちゃったのよね」
「何をだよ?」
「里菜先生と長野君が仲良く数学準備室に入っていったところ?」
「・・・別に普通に質問に行っただけだろ」
「まあ、そうなんだろうけれど。なんか親しげだったし、里菜先生、綺麗だもんねぇ」
 琉の気持ちをさも知っているかのように彼女はイタズラ気に笑った。琉は冷静を装い、無表情に見た。
「別にそんなんじゃないよ」
 曖昧な笑顔を見せて、琉は教室を出た。優子はその後姿を見て、ため息をついた。
「バレバレだっつーの」
 もちろん、そんな科白は琉には届いていない。


 多少騒がしい図書室で勉強をし、気付くと午後六時になっていた。やべ、と琉は口の中でつぶやき、慌てて席を立ち、図書室を出た。
 わざわざ遠回りをして、昇降口から一番遠い校舎の裏側にある職員駐車場まで走った。校舎の影から琉が顔を出したとき、
「・・・長野くん」
 なんていうタイミングだろう、里菜が車にキーをかけているところだったのだ。七月の午後六時はまだ明るい。里菜の困惑した表情も読み取れた。
「センセイ、あのさ・・・」
 里菜の隣に立ち、息を切らしながら琉は言う。
「昼間のこと、気にしないでいいから」
「え?」
 里菜は声をあげた。
「あんなこと言っておいて気にするな?・・・馬鹿にしているの?」
 予想外の里菜の反応に、琉はおや?と思う。本気で人を好きになったことこそ数少ないが、これでも付き合ってきた女の数は同級生に比べれば多いほうだったし、その分女心も知っているつもりだった。自分に全く興味がないのだったら、今の琉の科白にうなずくと思ったのだが。
「馬鹿にしてない。でも先生が気にして、授業とかやりにくくなると困るから・・・、好きになったのは俺の責任だし・・・」
 すると里菜は、まるで琉の「好き」という単語に反応したかのように顔を真っ赤にし、俯いた。何なのだ、この反応は。ありえない期待が身体の中で渦巻くのを琉は自覚する。
「どうしたの、センセイ」
 そう問いかけながら、琉は静かに歩み寄り、里菜の肩まで綺麗に伸ばされたまっすぐの焦げ茶色い髪の毛に触った。
「どうしたって・・・、なにやっているの?誰かに見られたら」
「大丈夫、幸い隣にはでっかいワゴンがあるし?それより、俺こそ聞きたい。なんで抵抗しない?」
「・・・・・・・・・・・・」
 里菜は途端に何も言えなくなって、ただ唇を震わせた。心臓の音が琉にも伝わる気がして怖かった。
 つり橋効果なんて嘘っぱちもいいところだ。最後の疑問、どうしてあの日から琉を目の当たりにするとこんなにもドキドキしてしまうのか。自分のことなのに、たった今日まで答えが解けなかった。
 里菜の気持ちを察知したのか、それとも本当に心臓の鼓動を聞いたのか、琉は額を里菜のそれにこつんと当てた。二人の目線が近くなる。それでも里菜は何も言わない。抵抗しない。里菜は耐え切れなくなったのか、目をつぶった。
「・・・・・・ドキドキさせないでよ」
「じゃあ、俺、どうすればいい?」
 期待を含む声に、里菜は意地悪、とつぶやいた。そんなこと知っているくせに、と。それきり黙ったままの里菜に琉は微笑した。
「キス、ほしい?」
「え・・・」
 里菜が急に動いたので、お互いの鼻がかすった。そのくすぐったさに、里菜は罰が悪そうな顔をする。
「・・・・・・・・・・・・だって、ここは学校よ?」
「うん」
「あたし・・・、あなたより六つも年上で、教師なのよ?」
「知っている」
「それでも、本当にあたしを好きなの?」
「そう言っているだろ?」
 琉の優しい眼差しを近くから受けて、里菜は逃げ出したい気持ちになった。こんなことありえない。こんなこと許されるはずがない。でも確実に自分が求めているものは。
 黙ったままの里菜の頬を琉が触れる。里菜は反応した。それを見て琉は言った。
「ほしいの?ほしくないの?どっち?」
「・・・・・・しい」
「何?」
「・・・欲しい」
 里菜の勇気の籠った科白に、琉は「かわいい」とつぶやいた。学校で見る彼女とは大違いだ。その言葉に里菜は更に顔を赤らめる。
 そして、琉はそっと里菜の唇に口付けた。優しいキスだった。


      
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