だいたいその日は朝からついていなかった。 まず朝起きたら習慣で見てしまうテレビで流れた星座占いでは十二位だった。それは芋づる式のように、下ろしたての新しいミュールを履いたらヒールが高かったのか途中で足を軽くひねってしまって、そのせいで走れなくなって電車に乗り遅れてしまったし、だから朝の職員会議にも遅刻、今日に限っていつもいない校長がいてお咎めを喰らうし、金曜日なのを木曜日だと勘違いしたせいで一時間目に入る教室を間違ってしまうし、五時間目のときは途中の数式のケアレスミスのせいでいつまでも黒板上で唸っていたし、そして今。 人生最大の危機を感じていた。
藤峰里菜(ふじみねりな)、二十三歳。職業は私立高校の数学教師。彼氏は学生時代に付き合っていた男がいたが、卒業前にいざこざがあって別れてしまったきりだ。 里菜は肩まで伸ばしている焦げ茶色の髪を掻きあげた。酔っているせいでふらふらする。それでも意思だけはきっちりしていた。この男を殴りたい、殴れない。ついていない一日最後の出来事だった。 金曜である今日は同じ学校で働く先生たちと一緒に飲みに行かなくちゃ行けなくて、頭痛がするのにこれも仕事だと里菜は我慢して飲んでいた。楽しくもないのにお酒の席にいるのは正直きつい。かなりきつかった。でも、だからって。 これから帰ろうとする女を引きとめようとする常識ハズレな男に捕まってしまうなんて、ついてないにしてもほどがある。 「朝霞(あさか)先生、いい加減にしてください!」 絡み付く腕を振るがびくともしない。里菜は泣きたくなってしまった。頭痛は増すばかり、千切れそうに響いてくる。早く帰って、鎮痛剤を飲んで、ああ、そうだ、冷蔵庫にピーチティーがあったはず、それを飲んでリラックスしながら眠りに就こう。でも、その前に無事に家に帰れるだろうか。不吉なことを思い、里菜はぞっとした。 「いいじゃないか、里菜ちゃん。もう一件いいだろ?」 「よくない!っていうか、名前呼ばないでくれません!?」 絶体絶命とはこのことを言うのだろうか。大げさかもしれないけれど、国語を苦手とする里菜はそんなことを考えていた。酒臭い、それはこの土地も、この人間も、自分自身も。里菜は顔をしかめた。 そのときだった。 「いい加減に放してやれば」 後頭部から声が振ってきた。深くキャップ帽を被っていたから顔は見えないけれど、その背丈と肩幅の広さと声で分かった。男だ。 彼は朝霞の手を掴み、里菜から離れさせ、その隙に里菜の手をとって走り出した。 「ちょ、ちょっと・・・!」 里菜は男の背中を見つめながら叫ぶが、男には届かないらしい。今朝軽くひねった足首がまだ痛み始める。このままどうなってしまうのだろう。せっかく朝霞から逃れても、こんな得体の知れない男に捕まってしまっては意味がないではないか。 「ちょっと待ってってば!」 ありったけの声で叫ぶと、男は足を止めた。 「もうここまで来れば大丈夫かな」 里菜は男のにっと笑った口許を見た。彼のイマドキなカジュアルな服装からなんとなく予想はついていたけれど、この男は若いと里菜は直感した。これ以上関わっては駄目だった。 「あ、あの、助けてくれたのはお礼を言うけれど、だからって女の手を無理に引っ張って急に走り出すなんて・・・」 「俺が助けなかったら今頃どうなっていたかまだ分かってないようだよね、藤峰センセイ?」 里菜の声を遮った男の言葉を聞いて、里菜は唖然とした。 「どうしてあたしの名前・・・、もしかしてあなた・・・」 「ピンポーン、もしかしなくても、そのとーり」 「・・・長野くん、あなたこんな時間に何やっているの?もう夜中よ?十二時近いのよ?」 「そりゃ、教師として俺を叱りたいのもよく分かるけど、センセイ立場分かってマスか?俺はか弱い女のセンセイを守ったジェントルマンじゃん?」 先ほどは帽子のせいで分からなかった。今は街で輝くネオンや外灯ではっきりと分かった。彼の名前は長野琉(ながのりゅう)、里菜が勤務する高校の三年一組に在籍している。里菜はそこで数学を教えていた。 里菜は頭を抱えた。こんな時間に受験生であるはずの生徒が街にいるなんて、放っておけるはずがなかった。里菜はそのまましゃがみこんだ。 「センセイ?どうした?」 「・・・・・・・・・・・・」 「セーンセ?」 琉は頭を下げて、里菜の顔を覗き込んだ。すると、「・・・・・・気持ち悪い」 今にも吐きそうな声で、里菜はつぶやいたのだった。
里菜は洗面台の蛇口を思い切りひねった。備え付けのタオルで口許を拭き、目の前にある大きな鏡に映る自分の姿を見た。 なんて格好悪いのだろう、涙目になりそうなのを隠すようにそのままタオルを目元に当てた。目尻まできっちり引いたアイラインが崩れることを避けるため、そのまま顔をこすらないように気をつける。 頭痛が酷い。このまま寝てしまいたい。部屋を出ればすぐそこにベッドがある。だからと言って寝られる状況ではない。なぜならこの場所は。 「だからって、どうしてラブホに連れ込むのかな!」 洗面所から出るドアを開けながら、里菜は琉を睨んだ。 「人聞きが悪いね。センセイが吐きそうになっていました。しかもなんだか具合悪そうでした。幸い近くにホテルがありました。そしたらもう、ご休憩してもらうしかないじゃん」 「いやらしい言い方しないで!」 ぴしゃりと言い捨てて、里菜は無駄に装飾されたソファーに座った。琉は余裕そうな笑みを浮かべてベッドに腰掛けている。 「だいたいね、あなた、受験生なのよ?もう七月なの。分かっているの?」 「分かっているよ、現役生は夏が勝負ってね」 「それまでの積み重ねも大事なの!」 場所に不相応な言い争いをし、里菜は頭を抱えた。出来るなら今すぐここから出て帰るべきだ。この不良生徒をちゃんと家に見届けて、自分も帰って今度こそゆっくりと眠りたかった。でも、まだ抜け切っていない酒のせいで立ち上がることさえままならない。どうして不快な思いで飲んだ酒は、悪酔いをさせてしまうのだろう。 「ああ、せめて薬を持ってくればよかった・・・」 「クスリ?飲みすぎたときの?」 「違うわ、鎮痛剤よ」 「・・・生理痛?」 「ただの頭痛よ、馬鹿」 里菜はベッドの枕元にあるデジタル時計を眺めた。午前零時十一分。星座占い十二位の一日はもうとっくに終わったはずなのに。 「センセイ、まだ具合悪いのか?」 「・・・悪いわよ」 「大丈夫?」 立ち上がってこっちに歩いてくる琉の姿を視界の端に捕らえて、里菜はびくりと身体をこわばらせた。場所が場所だからだろうか、妙な警戒心を持ってしまう自分に嫌になってしまった。ぎゅっと目を閉じた。 「センセイ、本当に顔色悪いよ?そのベッドで寝れば?」 「ベッド・・・って、ここはただの休憩の為の場所じゃないのよ?」 必死になって里菜が言うと、琉は噴き出すように笑った。 「センセイこそヤラシイよね。別に俺は何もしないし?具合悪い女を相手にするほど飢えてないし?センセイは疲れてんだよ、意地張らずにゆっくり休めばいいじゃん」 そう言って、琉は軽々と里菜の身体を持ち上げた。俗に言う、お姫様抱っこという奴だ。里菜は一瞬声をあげることも忘れて琉にしがみついた。 「ちょ・・・、ちょっと下ろしなさい!」 「立ち上がることも出来ないくせに何言ってんの。意地張るなって言っただろ?」 そう言って、琉は優しくベッドの上に里菜を座らせた。 「真面目な話、別に俺は何もしないし、明日は土曜だし、ゆっくり寝ればいいよ」 「・・・そんな」 琉に無理やり寝かされながらも、里菜はまだ抵抗した。でも先ほどと違う理由だった。こんな場所に一人で眠りたくなかった。お酒が自分をどうにかしているのかもしれなかった。こんな広くて派手な部屋に一人残されることを考えただけで、寂しくて泣きそうだった。でも言えない。相手は生徒だ。里菜は布団を口許までかけて、横にあるソファーに座る琉の姿を見た。 「・・・長野、くん」 「何?」 「早く帰りなさい」 「・・・・・・センセイ、本当は寂しいくせに」 琉のするどい指摘にどきりとする。それでも相手は六歳下の子供、自分は教師らしく強気でいなければならない。 「何を言っているの、帰りなさい」 「センセイさ、いつもそんな感じでいつもビシッとしていて、それはそれでキレイで格好いいけど、本当はすごく寂しがりじゃん?無理するなよ」 琉はベッドのすぐ傍に寄り、里菜の頭を撫でた。途端に里奈の頬が赤く染まった。それを見て、琉は更に微笑んだ。 「俺さ、前からセンセイのこと好きで、ずっと見ていたから知っているよ」 「え・・・・・・?」 聞き返すと同時に里菜の重い瞼は降りていった。長くて嫌な一日の幕が下りた瞬間だった。琉の最後の科白は聞こえていないのかもしれない。
幸せな夢を見た。 眩しい光の中にある自分の姿。そして、隣に微笑んでくれる人がいた。誰?顔が見えなかったので、もっと近づいて瞳を開いた。 「・・・・・・・・・え?」 里菜は目を疑った。ピンク色に光る部屋の中で、目の前にある顔は。里菜は頭を押さえた。何だっただろう、そういえば昨夜は飲んで、そして・・・。 里菜の隣ですやすやと息をたてて眠る顔。何もしないと言ったくせに、同じベッドに入ってきているではないか。それでも嫌な感じはしなかった。 そのまま里菜は琉の頬に触れた。温かかった。そのまま長い睫毛に触れ、短めの茶髪に触れた。思ったよりもずっと柔らかい髪の毛に胸が高鳴った。そして再び頬に触れ、最後に唇に触れる。その瞬間、何やっているのだろうと自分でも分かるほど赤面をした。 まだ頭痛は残るけれど、それでもずいぶんと楽になったように思う。こんなにゆっくり眠れたのは久しぶりなような気がする。普段から睡眠不足だというわけでもないが、安眠をしていなかったのだと今初めて知る。 生徒なのに、こんないかがわしい場所で同じベッドで寝て、教師としていいはずがなかった。でもとても心地よく感じていた。
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