もう感じてしまった。分かってしまった。 ユキノの音は、もう何処にもない。
「雪乃?」 ママが背を向けたままのユキノを呼んだ。 「なんなの、これは?」 「・・・書いてあるとおりだよ」 茶色い封筒と中に入っていた白い紙を持ちながら唖然としているママに、ユキノは冷静に答えてみる。先日の、地区予選の結果。 「ちょっと・・・、どういうことなの?説明しなさい、ユキノ!」 「・・・説明するほどのことじゃないでしょ?」 「何言ってるの?どうしてあなたが・・・・・・」 その言葉の続きを言えないママをユキノはぼんやり見つめた。そして、口を開いてみる。 「どうして、ユキノが落ちたのかって?」 ユキノの容赦ない言葉にママは震えた。このひとは何を考えているんだろう。 「コンクールなんて落ちることあるんだよ。変な勘違いしないでよ」 反抗的になって、ユキノはリビングを出た。ママは何も分かっていない。
そう、ユキノはあっさりとコンクールに落選した。全国大会にさえ行けなかった。きっとみんなびっくりしている。いつも当然のように名前を残した葉山雪乃はもうどこにもいなくなりました。 驚かなかったのはユキノだけ。初めて賞をとったときと同じように、ユキノは自分の実力を知っていたんだ。
音がなくなるって桐川くんは言っていて、ユキノもそれを感じていたけれど、でもそんなのたいしたことじゃないって思っていた。それなのに。 「ねえ知ってる?ユキノ、コンクール落ちたんだって」 クラスメイトの誰かが言った。陰口悪口ヒソヒソ話が大好きな小学六年生、それくらい覚悟していた。 ユキノは全然平気な顔をして、廊下を出た。もう七月だから外はすごく晴れていて眩しい。視線を前へ戻すと、桐川くんが見えた。 一瞬立ち止まりそうになったけれど、なんとかこらえてユキノと桐川くんは普通にすれ違う。桐川くんはユキノのことを気にもしてないんだね。 コンクールに落ちたんだってユキノが言ったら、君はどんな顔をするだろう? 憎らしいほどの笑顔?それとも、罪悪感につつまれた顔かな? 桐川くんの音を針のように浴びて、とても痛くて、あのショックは忘れられない。あのあと、桐川くんは何か言っていたけれど、ユキノ何か間違っていたのかな。
急に、ユキノに友達がいなくなった。 今までユキノに声をかけてきた女子みんな、仲間はずれにするように極度にユキノに近づかないようにしていた。 クラスの中は相変わらず噂が溢れていて、その中心はきっとユキノで、ユキノの行き所がない。 ユキノ何か間違っていたのかな。ひとりで静かに考えてみる。 ユキノ何か間違っていたのかな。 ああ、そうだ。桐川くんの言うとおりに、ユキノは成績に身を委ねていたんだね。 だって、みんな誉めてくれる。ピアノを弾けば拍手くれる。ずっとそういう世界にいた。 クラスのみんなもユキノと仲良くしてくれて、それが当たり前だった。その中心はユキノ自身じゃなくて、ユキノの成績だったっていうの? ユキノは何のためにピアノをひいていたのだろう。ユキノは何を誇りに思ってきたのだろう。ユキノからピアノを取ると、何が残るというのだろう。 「・・・・・・・・・・・・」 ユキノはまたひとりでぼんやりと廊下を歩いていた。行き場のない自分。何の取り柄のない自分。でもそれは音が失くなってしまったからではなくて。 何よりも悲しく感じたのは、ユキノの音なんて最初から何処にもなかったんだとい気付いてしまったことだ。 ただコンクールのために弾いていた自分。優勝できるコツを知ってしまっていた自分。そんなほんの少し前の自分が信じられなくて、今は憎むことしかできない。 ユキノはいっぱい賞をとっていました。ユキノは有名人でした。だけど、それが何になったのだろう。 あっけなく、桐川くんに負けてしまいました。 ユキノにはあんな凄い音の持ち合わせなんて最初からなかったんだ。 ―――ユキノ何か間違っていたのかな。今はただ憎むことしかできない。
ふらふらと辿り着いたのは、音楽室。ユキノは震える足で、ピアノに近づいた。桐川くんの音はもう聞こえない。 ユキノはピアノの蓋をあけた。黒と白の鍵盤を見たとき、ユキノの目から熱い涙が溢れ出した。もう終ってしまったんだと知ってしまった。 でもユキノ、ピアノ好きだったよ。すごく好きだった。どこで間違ってしまったのだろう。本当にピアノが好きだった。だからこんなに悲しいんだよ。 ユキノは声をあげて泣いた。 ピアノの存在がどれだけユキノの存在価値を示していたのか、今更になって気付いた。手放して初めて気付いた大切なもの。もっと大事にすればよかった。もっと心をこめて触れてあげればよかった。それを失くして、ユキノはこれからどうやって生きればいいのだろう・・・?
しばらく泣いていたら、ドアが開いた。慌てて涙を拭いて、見ると・・・―――桐川くんだ。 「・・・・・・・・・・・・!!」 声が、出ない。何をしに来たの!?どうして来たの!?恐怖で声が出ない。 桐川くんはそんなユキノにお構いなしで、ピアノの椅子に座った。 「・・・や、めて!!」 かすれる声でユキノは小さく叫んだ。―――やめて!今度こそユキノを殺すつもりなの!? 蓋が開いているピアノの鍵盤に桐川くんの指が触れたとき、ユキノはぎゅっと目をつぶった。 ピアノの音がする・・・。 「・・・・・・?」 ユキノはゆっくりと目をあけた。心地よい。とても柔らかい音。桐川くんが弾いていた。死んでしまうほど苦しくて痛い音じゃなくて、とても癒されるほどの・・・。 「桐川、くん・・・?」 ユキノのつぶやきは、桐川くんまでとどかずに消えてしまった。どうしてそんなの弾くの?その音は、何も考えずに弾いてきたユキノには痛すぎて、また涙が出そうだ。 桐川くんは本当に只者じゃなかった。 こんなに音を扱えるなんて、普通じゃないよ。どうしてここに来たの? ピアノが止むと、ユキノはゆっくりと口を開いた。 「桐川くん・・・、ユキノの音は失くなってなんか、いないんだよ」 そう言うと、桐川くんはユキノの顔を見た。視線がバッチリと合う。でも、もうユキノは逃げない。 「桐川くんの音は、ユキノの音を潰したんだよ。もう二度と戻らない。最初から、・・・失くなってなんかないんだよ」 ユキノは桐川くんの表情を見た。そこにあったのは、憎らしい笑顔でも罪悪感に包まれた顔でもなく、ただ無表情のまま桐川くんは言った。 「・・・覚えておくよ」 そして、そのまま桐川くんは音楽室を出て行った。ユキノはただその背中を見つめていた。
「雪乃?何しているの?」 部屋にユキノの様子を見に来たママが不思議そうに言った。 「片付けだよ」 ユキノはにっこりと笑って答える。 賞状、トロフィー、メダル、楽譜、そしてピアノの鍵。短い間だったけれど、お世話になりました。ユキノはそれらを全部ひとつの段ボールに入れた。音を失くしてしまうという意味を知ったユキノが出た手段だ。ユキノはピアノなしに戦って生きるのです。 もちろん永久的なんかじゃないよ。ちゃんと自分自身と向き合えたら、もう一度ピアノを弾いてみようかなって思う。 期待をしてくれていた人たちへ、ごめんなさい。 だけどね、ユキノはピアノの成績よりももっと大切なものを、見つけたいんだ。ユキノの価値でしか決められないものを、残したいんだ。だから、それまでさよならだよ、大好きなピアノ。
あれから桐川くんと喋ることはなかった。 ほとんど視線が交わることもないまま、ユキノは卒業してからすぐにパパの仕事の都合で引っ越すことになって。だから、その後の桐川くんを知らない。だけど、ユキノの心の空洞には桐川くんの優しい音がずっと鳴っているんだ。 それと同じように、ずっと桐川くんの心にも刻まれているといい。 ユキノの音を潰したこと、そのときのユキノの悲鳴を。忘れないでいてくれるといい。あのとき桐川くんは無表情だったけれど、その中にはきっと後悔の念があったはずでしょ?だって人間だもん、生きているんだもん、何よりも人間らしい音をかなでる君が、何も感じなかったはずがないよね。 だけど、大丈夫。 ユキノはきっと新しい音を手に戻ってくるよ。いつか、きっとね。
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