旋律の矢(前編)


 それはユキノを思い知らせたもの。
 この世には、人を癒す音があれば、心を貫くように壊していく音もあるということを。


 ユキノはピアノが好きで。みんな雪乃ちゃん上手ねって言ってくれるし。実際物心ついたときからユキノは普通にピアノを弾いていたし、小学校一年のときのコンクールで最優秀賞をとって、更に東京進出の場でも優秀賞をとったとき、さすがに周りは驚いていたけれど、ユキノはべつに驚かなかった。
 だって、そんなのもう当たり前だと思っていた。ユキノは自分に自信あったんだ。


 葉山雪乃、小六だけど冬生まれだからまだ十一歳。
 ユキノの部屋にはいっぱい賞状や盾やトロフィーがある。ハヤマユキノを知っている人、いっぱいいるよ。ユキノの名前なんてどこにでも載っていたからね。
 小学校でもたくさん友達がいて、みんなユキノって呼んでくれる。ハヤマさんとか、そういうふうに他人行儀みたく呼ぶ人はほんの少しだけで。誰でも呼び捨てオッケーな、ユキノはそんな存在だった。
 自慢ばかりしてごめんね。でもこの頃のユキノってもしかしたらラッキーガールなんだって信じてしまうくらい、なんでもうまくいっていたんだ。ピアノは練習すれば上手くなるし、ちゃんと認めてもらえるからね。
 そんな楽しい日々の中で、ユキノはある出会いに遭遇したんだ。それが幸せな出会いだったのかどうかは、きっとこの話を聞いてくれる人次第だよ。あなたはどう思う?


 噂が流れ始めたのが、雨が降っていた六月だった。
「桐川くんって実はすごくピアノ上手いんだって!」
 何度もそんな会話を耳にした。桐川くん、本名桐川奏くんはユキノと同じクラスの男の子で、今年初めて同じクラスになってまだ一度も喋ったことがない。ちょっと変わっている・・・っていうか、他のバカ男子たちとは何か雰囲気違うなとユキノなりに気付いていた。だからその噂はユキノにとってあらゆる意味で衝撃的だったんだ。
 桐川くんがピアノ?ピアノなんて弾けちゃうんだ?
 ユキノの心は好奇心でいっぱいだった。ユキノとどっちが上手いかな。きっとそれがフツーの人だったらこんなに気に留めない。桐川くんだから、あの桐川くんだったから、こんなにドキドキする。
 大人っぽいだけじゃなくて、桐川くんは只者じゃなかった。痛み知らず名黒髪も、どこを見据えているのか分からない漆黒の瞳も、揺るいだことのない表情も、すべて。
 授業中、ユキノより前に座っている桐川くんの指をこっそり見てみた。長くてキレイな指・・・、あの指で鍵盤を叩いたらピアノはどうなっちゃうかな。
 最近ユキノの心はそればかり。


「桐川くん・・・っ!」
 弾けるように彼を呼び止めることに成功したのは、噂を聞き始めてから二週間経ってからだった。廊下で前を歩いていた桐川くんはユキノの声にゆっくりと振り返った。
「・・・・・・・・・何?」
「あの、あのねっ、ユキノ、桐川くんのピアノを聴きたくて!」
「・・・・・・・・・・・・」
 桐川くんは黙ったまま、つまらなそうにユキノを見た。うわ、目が合ったのは初めてだ。だいたい会話を交わすのも初めてなのだ。桐川くんの瞳は思ったとおり奥が深くてこれ以上見ていられなくて、ユキノから目を逸らした。
「・・・おまえ誰だっけ」
「え・・・」
 一瞬言葉をなくした。
「お、同じクラスの、葉山ユキノだよ!っていうか、同じクラスの子のことも知らないの!?」
「まだ二ヵ月しか経ってないじゃないか。興味ないものを覚えるのは時間がかかる質なんだ」
「・・・・・・・・・」
 ユキノは口をあんぐり開けたまま桐川くんをみてしまった。何この人、何この人、すっごい失礼なんじゃない?
「ああ、でもおまえがハヤマユキノか」
「・・・何?」
「有名だよなぁ。俺でさえ知っている。コンクールやオーディションに出まくっているもんな、多少知名度がないと恥だよな」
「・・・・・・・・・」
 今度は、嫌味?皮肉?見た目は格好いいのに、なんて失礼で性格の悪い人なんだろう!こんな人が弾くピアノなんて絶対たいしたことないに違いない。
 気付いたときには桐川くんは嘲笑を残して、先に歩いて行ってしまった。ユキノに反論出来る隙なんてなかった。


 だいたい、桐川奏なんて名前を調べても、ドコにも何も載っていない。誰も彼を知らなかった。ユキノみたいに有名じゃなかった。
 葉山雪乃はこの狭い世界では有名人だよ。たくさん期待されている。神童って呼ばれたこともあったよ。ユキノのピアノをみんな一度は聴いている。
 ・・・笑わせないでよ。ユキノに嫌味を言っていられるような身分じゃないくせに、笑わせないでよ。ユキノは無名なんかと違うんだから。

 ユキノ性格悪いかな。でも、すごく腹立ったし、こういう汚い気持ちを持たないとすぐに堕ちてしまうってことを、ユキノが一番知っていたんだ。
 この音と地位を守っていられるのならば、ユキノは悪者になったってかまわないよ。ユキノの覚悟は大きいから、これだけは絶対にゆずれない。
 絶対に、ゆずれない。


「最近、ユキノって機嫌悪いねぇ」
 誰かがそう囁いているのが聞こえた。嫌だな、こういうの。ユキノははっきりとした正確だから、陰口は好きになれない。
 嫌だな。
 でも小六なんてみんな陰口悪口ヒソヒソ話が大好きで、そんなことされるユキノにも原因があるから仕方ないかな。諦めてユキノは一人で廊下を歩いていく。
 窓の外を降る雨の音がうるさいな。いつものユキノだったら雨音大好きなのに、最近は心に障る。早く梅雨なんて終わればいいのにな。
 ふと顔を上げた。ユキノも身長低くないほうだけど、それよりも高くてユキノは思わず見上げてしまう。―――桐川くんだ。


「ピアノを聴かせてよ」
 ユキノは言った。今度は失敗しないように、静かに言った。そしたら桐川くんは相変わらずな態度で鼻で笑った。
「おまえも懲りないな」
「だって、聴きたいんだもん」
「まあ、いいか。その代わり、その後のことは保障しないけどな。例えおまえの音が失くなっても俺は責任とらないぜ?」
 そう言ったのだ。馬鹿にするにもほどがある。
 ユキノの音がなくなる?ユキノは笑った。桐川くんと似た笑い方をしてみた。顔を思い切り歪めてみる。
「何を言っているの?」
 その後すぐに雪の葉音楽室に向かって歩き出したから、桐川くんの顔は見えなかったけれど、そんなのもうどうでもよかった。
 後悔しないでね。ユキノの実力を見せてあげる。葉山雪乃の名にかけて、こんな場所だけど全力を出してみせるから。桐川くん、騒がれている君に勝つためならば、ユキノは悪役に徹したっていいよ。
 ユキノのあとに続いて桐川くんは静かに音楽室に入っていく。さあ、勝負の始まりね。
 ユキノは自信があったんだ。恐れるものなんて何もなかった。


 ひとつも間違うこともなく、ユキノは先日のコンクールで弾いたバッハの曲を弾き終えた。黒いグランドピアノに桐川くんの姿が見える。
 どう思った?ユキノの音だって馬鹿にはできないでしょ?きっとユキノは勝ち誇った顔をしていたのだろう。
 振り向くと桐川くんはすごく面白くなさそうな顔をしていた。露骨に嫌なオーラを醸し出している。そして、ぼそりとつぶやいたのだ。
「・・・気に入らねえな」
「え?」
 思わずユキノは聞き返した。今、何と言った?
「気に入らねえって言ってんだ」
 静かに言いながら、桐川くんは椅子に座った。
「・・・・・・・・・っ」
 そんな屈辱的な言葉は初めてでユキノは言葉が出ない。気に入らない?どこが悪いっていうの?あんなに大勢の人が認めた音だというのに!
 腹を立てているユキノなんかお構いなしに、桐川くんは弾き始めた。
 ユキノはピアノをじっと見つめた。それなら君はどんな音を出せるというの。そこまで言うならユキノより凄い音を出してみなさいよ!
 そのときだ。空気が静電気みたく、震えだした。
「・・・・・・・・・・・・え」
 それはとても刹那的で、どこから発しているのか分からなかった。その音はビリビリと雪のを囲んで、衝動的にユキノは床の上に座り込んでいた。
 震える手で耳を押さえて、ふと顔を上げると―――、
 桐川くんがピアノを弾いていた。
 ・・・嘘でしょう?この空気の発信源は彼が弾くピアノの音だ。 この人、ユキノを殺すつもりなの!?
「・・・っ、桐川くん!桐川くんっ!やめて、お願いだから弾くのやめて!もうやめて!」
 鋭い音が何本も突き刺さって痛いよ。息も出来なくて、本当にこのまま死ぬのかと思った。
 どうすることも出来なくて、床の上で丸まっていると、急に音が止んだ。
「桐川・・・・・・く、ん?」
 涙目で見ると、桐川くんは鋭い目でユキノを見下ろして、静かに言った。
「あんまり成績に身をゆだねるのもよくないと思うけど・・・。音が失くなっても俺は責任持たないっていったよな」
 ユキノが何もいえないうちに、桐川くんは足音を立てて音楽室を出て行った。
 音が失くなる・・・?
 薄暗い音楽室にひとり残されて、ユキノの指は静かに頬に触れた。
「・・・・・・・・・・・・!!」
 つい先ほどのショックを現実だと確信して、ユキノは小さく悲鳴をあげた。

  
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