3 贈与しよう(前)


 真っ昼間、外では蝉が鳴いている。
「梅雨が明けたと思ったら毎日が地獄やな」
 隣で結城くんがつぶやいた。隣に人の気配を察知できなかったあたしははっと隣を見た。
「・・・いきなりいて、びっくりしたよ」
「なんやさっきからおるやん。キミが気付かへんかっただけで」
 廊下の窓から、あたしは青空を見上げた。眩しい。その光は白い廊下の床に反射して、あたしたちは光に包まれているような気分になる。学校という場所はそんなに明るい場所ではなかったのに。
「保本さん、期末試験はどうやったん?」
「・・・べつにどうだっていいでしょ」
「さっすが、成績いい人間はヨユーやなぁ」
 馬鹿にしているのだろうか。そのくだらない情報網はあたしも目を見張るものがあるけれど、それを利用してあたしに近づかないで欲しい。
「暑いな・・・」
 無意識につぶやく。額には汗がじっとりと溜まる。古い公立の中学校、クーラーなんて贅沢な電化製品が設置されているはずがない。
「それより、あたしに何の用?」
「なんや、用がなければ話しかけたらあかんの?」
「当たり前でしょ?」
 まさか知らないはずがない。この男が必要以上にあたしに近づくせいで、あたしと結城庸人の噂が出来上がってしまったのだ。なんてことない、あの二人付き合っているんじゃないか的な頭悪い噂だ。今だって昼休み真っ只中、ときどき背後で囁く声が聞こえる。
 やはり気分悪いものに変わりはない。
「そうやな、肝心な『用事』があったんや」
「・・・・・・何」
 結城くんの顔を見ないで窓の外の光を見つめたまま、あたしは訊きかえす。
「保本さん、今年もCコンクールに出るって?」
「・・・・・・・・・」
 あたしは息を呑んで思わず結城くんを見上げてしまった。不覚だ、目を合わせないまま終らそうと思ったのに。
「・・・ホンマなんや」
 口の形を歪めて、彼は笑う。
「笑いたければ・・・、笑えばいい。でも、去年のあたしとはもう違う、コンクールに出て何が悪いの?」
「別に、悪いなんて言ってないやん」
 窓の縁に腕を乗せ、のびのびとした顔で結城くんはあたしを見た。瞳の奥にあるものは、少し奏に似ているような気がした。あたしを心の底から見ているような感覚。不思議と嫌ではない。
 奏。結局あの雨の日以来見ていない。当たり前だった。あの日に見かけたことすら珍しい。だけど。
 同じ公立の中学校に通っていた人間同士、家だって会えなくなるほど遠いわけではない。二度と会えないわけではないのに、あたし達はもう二度と会えないのだと言い、そのつもりで別れた。何故だったのだろう。
「桐川奏も」
 結城くんの口から飛び出す固有名詞。結城くんの憧れ、あたしの想い人、あたしは少し身体を震わせながらもなんでもないように彼を見た。結城くんはなんでもお見通しなのか、少し笑った。
「・・・分かりやすいな」
「・・・桐川奏も、何?」
 その言葉を否定するように、あたしが睨みつけると、結城くんはああ、とつぶやいた。
「ああ、桐川奏も今度の夏のCコンクール出るらしいで」
 あたしは目を見開いた。
「嘘・・・・・・・・・」
「嘘ちゃうて。こんなこと嘘ついてどうすんの」
「だって、なんなの、その情報網。どこから仕入れてるの?」
「それは秘密やな」
 いつもは必要以上に近づいてくるくせに、肝心なところで交わされる。イライラする。そういうところだけ奏に似ている。だから、今となって、あたしは奏のことは何も知らないままだ。
「保本さん」
 どこか同情するような瞳を向けられた。あたしはそれに怯み、一歩引いてしまった。
「・・・何?」
「そろそろ正直になりいや。桐川奏のこと、好きなんやろ?」
 そんな瞳が妙に腹が立って、あたしは思い切り彼をにらみつけた。心なしか涙が溜まる。背後でチャイムが鳴る。なんていうタイミング、あたしは震える唇を動かした。
「・・・だったら、何」
 いろいろ言ってやりたかったことはあったのに、出たのはたった一言。いつもと同じ、反抗的な態度。それにも飽きたのか、結城くんはため息をついた。
「そういうところ、直さへんとなぁ・・・」
「うるさいな、放っておいてよ」
「放っておけんって」
 そう言い放って、結城くんは教室に入っていった。廊下の向こう側から五時間目の授業の先生が見えてくる。そういえばチャイムが鳴ったんだったっけ。あたしも慌てて教室に入った。


 明後日から夏休み。
「優ちゃん」
 今学期最後の授業が終わり、鞄に荷物を入れていると、控えめに佳苗が話しかけてきた。
「あ、佳苗、今から部活?」
「うん、そうだけど・・・、あ、あのさ、夏休み、いつか一緒に遊びたいな、・・・なんて」
「『なんて』」
 あたしは佳苗の語尾を真似して笑った。佳苗も目を細めて笑う。
「うん、いいよ。コンクール終わるまでは練習詰めで忙しいけれど、八月になったらどうせ暇だし」
「本当? よかった、去年の夏休み、一度も遊ばなかったもんね。一緒に街に行って服見ようよ」
「そうだね」
 返事して、あたしは鞄を持った。
「じゃあ、あたし帰るね。部活頑張って」
「う、うん・・・」
 佳苗の声が震えていることに気付かなかった。あたしは馬鹿だ。


 今まで表舞台を好まなかった奏が、コンクールに出るなんて・・・。
 音楽高校に通っているのだから、それなりの実績が必要なのかもしれない。少なくとも、奏は実力があってもその証拠となるものを持っていなかったから。だけど、なぜそれを知っただけでこんなにもショックなんだろう。
 あたしはため息をつきながら、ピアノ教室のドアを開けた。
「あら優ちゃん、こんにちは」
 楽譜を手に持ったまま玉島先生が笑顔を零した。
「先生、外暑いよ」
「もう夏だからね。時間が経つのなんてあっという間なのよ」
「うん・・・」
 あたしは肩をすくめた。
 あれから一年、その時間を長かったとは思うのに、気付いたらもう手にも残らない。
 あたしはショパンの楽譜を鞄から出した。
「先生・・・」
「ん? 何?」
 あたしは一度息を吸って吐いた後、先生を見た。
「あのね、今までコンクール受けていなかった人が、急に受けるって・・・、どういうことなのかな」
「優ちゃん・・・?」
「あたしの知っている人で、ものすごくピアノが上手い人がいたんだけどね、今まで世に名前を出すことをしなかったのに、急に今年Cコンクールに出るって、どうしてなんだろう」
 あたしが弱々しい声でつぶやくと、玉島先生がゆっくりと口を開いた。
「私は、その人のことをよく知らないけれど・・・、でもそれをバネに優ちゃんも頑張って欲しいと思うわ」
 的確な返答ではない。当たり前だった。奏を知らない先生が、答えられるはずがなかった。
 今あたしがするべきこと。千尋や絵梨に誓ったこと。
 それを胸に、あたしは一年前に夢見たものを、確実に手にしたいと願った。


     
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