雪の手 |
しんしんと雪が降る。 僕は誰も居ない縁側に寝そべってじっとおばあさんを待った。僕を見つけるとそっと手を伸ばして撫でてくれたおばあさんの手は、いつも雪のように冷たかった。 おばあさんはずっと昔からこの街に住んでいるそうだ。風が吹いただけでガタガタと音を立てる、このおんぼろの家にひとりきり。 散歩中に近所のおばさん達が話しているのを聞いた限りでは、息子がひとりいるらしい。しかし、もう何十年も前にこの街を出て行ってしまったきりらしい。何でもおばあさんは息子の結婚を反対して、仲違いをしたんだとか。それっきりその息子は一度も帰って来ないそうだ。 おばあさんはその話からもわかる通り、依怙地な人のようで、近所の人が心配して声をかけても一切耳を傾けない。口癖は「余計なお世話だよ」といった具合で、今ではすっかり嫌われ者の様子。 僕がこの街にやって来たのはほんの気まぐれだった。以前住んでいた街に飽きて新しい住み家を探していた途中、偶然に疲れた体を休めようと立ち寄ったのがおばあさんの家だっただけの事。 ちょうどいい縁側を見つけたのでそこに横たわっていると、人の気配を感じた。慌てて飛び起きようとした所、そっと目の前に差し出された魚の干物。小腹も空いていた所だったので、もちろんありがたくちょうだいした。 固い干物を咀嚼しトいるとためらいがちに伸びてきた手。もっともこっちは食べるのに夢中だったのでそのまま黙って受け入れた。 ためらいがちだった手が僕の毛に触れた時。 「冷たい」 そう思わず悲鳴を上げてしまった。すると触れていた手は素早く離れてしまう。 気になったので向こうを仰ぎ見た。そこにはひどく悲しそうに揺れる瞳があった。何だかとても申し訳ない気分になったのでお礼の気持ちも込めて鳴いてみる。 そしたら微かに笑みを浮かべた。 「こっちにおいで」 その声に惹かれるようにして近づいた。おばあさんは軽々と僕を持ち上げて自分の膝の上に乗せる。薄い紫色のエプロンの上で丸くなると、冷たい手が僕を撫でる。 内臓が沸騰しそうなほど暑い夏。その冷たい手はやがて心地良くなじんだ。自然と下りてくる瞼をそのままにして、眠りにつく。その間おばあさんは聞いたこともないような歌を歌いながら僕の体を撫でた。その声がさらに眠りを誘うので、逆わずにいた。 夏が終わり秋が来て、そして凍えるような冬が訪れた。 僕はだいたいこの街を知りつくしたので、たまに遠出もした。ただし、一晩家を空けるとおばあさんがひどく心配するので、なるべく日帰りを心がけながら。 おばあさんは僕の姿が見当たらないと何度も僕の名前を呼ぶ。そこで極力縁側に居るようにした。 「お前だけはどこにも行かないでおくれ」 そう言って僕を撫でる手はやはり冷たい。 縁側に寝そべって青空を眺めていた。今日の空はいつもに増して透明だ。空が透明であればある程、吹く風は冷たい。冷たい空気が痛くて、のそのそと部屋に入った。 近頃おばあさんはいつも布団に横になったきりだ。今も布団に横になったままぼんやりと天井を見ている。僕は布団の側に行くと、わずかな隙間から中に潜り込んだ。 「外は寒いだろう。一緒に寝ようか」 おばあさんの声は夏よりも、そして秋よりもずっと小さい。ただ僕に触れる手だけはずっと変わらない。 僕はわけもなくおばあさんの頬に体を寄せた。そして小さく鳴いた。 「お前は本当に甘えん坊だね」 日に日に優しくなる声。掠れていて、とても寂しそうな声。 僕は何度も声を振り絞って尋ねようとする。けれど何もかもが上手く伝わらない。 仕方がないので頬を舐めた。ざらついた舌の感触に微かに顔を綻ばせるおばあさん。頬は手と違ってとても温かい。僕は見えない何かを削り取るようにして何度も舐めた。 しんしんと雪が降る。 今日は今年一番の寒い日だそうだ。誰かがそう言っているのを聞いた。僕は寒さで凍えそうな体をさっそく布団に潜り込ませる。 おばあさんはまだ眠りから覚めない。せっかくなので庭に積もった雪を見せてあげようと思っているのだが、随分と気持ち良さそうに目を閉じているのでそのままにしておいた。 まだ雪は降り続いている。 隣りの家の子供はさっき覗いたら、嬉しそうに雪だるまを作っていた。ちらちらと庭に積もる雪。さっきに比べると少し弱まってきたような気がする。 どうせなら降っているうちに起こしてあげた方がいいかもしれない。そう思って再びおばあさんの元に戻ると、いつものように頬を舐めた。雪が降っているせいだろうか、とても冷たい。先程触れた雪と同じくらい。 おばあさんはまだ幸せそうな顔をして眠っている。やはりもう少し待っていようと縁側まで歩いていった。 誰も居ないそこに寝そべっておばあさんを待つ。雪のように冷たい手で、僕を撫でてくれるのを。 魔々さまからいただきました。「色気も素っ気もなくてすみません」とのコメントですが、とんでもございません。 世界の見方は人間の目からだけではありません。あらゆる生物がこの世界を見つめています。 この作品は私のお気に入りの一つになりそうです。 from『ARUGURU』様 |
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