Invade Her Territory


 それは不可侵領域なはずだったのだ。
 俺は別に永遠なんてものを信じたことがないけれど、その領域に踏み込まなければ、変わらないままいられると思った。(だからこそ、俺は自ら大切だったその小さな手を離してしまったのだ)


 音楽高校の文化祭は、確かに中学の頃とは違うけれど、人が多く出入りするその賑わいは同じだった。俺はそれが少し苦手だ。
 六月のコンクールで賞をもらっていた俺は、なぜかその自由曲を披露しなければならなかった。色々陰口を叩かれているのは知っているけれど、全て排除だ。鼓膜すら通さなければきっと傷つかない。
 中学の頃に出逢った年下のピアノの天才少女には色々偉そうなことを言ったことがあったけれど、結局俺も弱い人間だった。音はいつだって壊れそうになる。それを必死に守るだけで精一杯なのに、一度壊れた音をより磨き上げたものに変えるなんて、彼女はどれほどの痛みと戦ったのだろう。今になって考える。
「ねえ、今年の中学生部門は保本優だって!」
 リハーサルの合間の控え室で、隅っこにいた声楽クラスの女子数人が話していたのが聞こえ、内臓が震えた。
「見たことない名前だねぇ。来年うちの学校に来るかもよ」
「来年じゃなくて再来年ね。だってこの子、中二らしいし」
「中二で優秀賞? すごいねぇ」
 その遅れた話題はもちろんピアノ科のクラスでも話題になっていたことを知っている。今まで見たこともなかったその影に怯えている人間がいることも。きっと二年後には俺たちを脅かす存在だ。
 保本優。
 口の中でつぶやいて、途端に心臓が握りつぶされたように胸が痛み出して、いたたまれなくなった。何度も呼んだ名前のはずなのに、まだ足りない。それでも、俺みたいな人間が彼女と関わっていいとは思わなかった。
 保本優はとても純粋な女だから。俺みたいに何もかもを壊すだけのような存在が、彼女を汚してはならない。
 だから、あの時別れたのだ。あの卒業式。
 彼女が俺に好意を抱いていると知ったのはバレンタインの時だった。丁寧に書かれた楽譜は、不器用な俺たちの最後の言葉だったようにも思う。だけどそれは幻想だと分かっていた。俺よりもずっと人間としてまともに生きていくであろう彼女は、きっとこの恋にも似た気持ちを忘れて、本当の幸せを求めていくだろう。それを想像しただけで吐き気がする。俺以外の男に笑顔を向けて、ピアノを弾いて、そして俺以外の男に触れられると考えただけで、絶望に見舞われる。
 だけど俺は器用には生きられない。


 リハーサルが終わって、とりあえず自分の出番まで講堂の外に出た。
「おう、桐川。リハ終わったのか?」
 クラスメートの男が、ゆがんだ笑顔で近づいてきた。こいつも俺のことを陰でなんて言っているのか分からない。いちいち疑うのにももう疲れて、俺は適当にうなずく。
「ああ・・・」
「おまえの彼女が来ているらしいけれど、放っておいて大丈夫なのか?」
「・・・・・・カノジョ?」
 聞き慣れない単語に俺は眉をしかめた。保本優に会ってから、俺にはそのような存在はいないのだが。(そもそも本気で恋愛をしたことがないように思う)
「あれ、知らないのか? 連絡してあげろよなー」
 クラスメートは人の良さそうに笑って、俺の前から去っていった。やっぱり人間は分からない。それより、カノジョって何だ?
 ・・・保本優を思い出して、それも脳内から消去する。俺から突き放しておいて、今更何を考えているのだろう。あれから半年も経った。いつまでも未練がましいなんて、女々しいにもほどがある。
 それでも俺はこれから、彼女の音を思い出して演奏するのだろう。
「あ、桐川くん、彼女来ているんだって? どんな子なのー? 紹介してよ!」
 左背後から、今度は女子。だからカノジョって何なんだ! 叫びたい気持ちを抑えて、適当に相槌を打つことにした。
 その後も同じような質問を三人からされ、いい加減うんざりしてきた俺は、逃げるように人の少ない校舎に入った。腕時計を見ると十二時十三分を指していた。本来ならばそろそろ講堂の控え室に行かなければならないのだが、そんなところで無意味に緊張するよりは、このひんやりと冷めた校舎の中にいたほうがマシだった。俺の出番は午後一時だ。
「あ、桐川くん」
 定期演奏会やオーケストラ用の楽譜を展示してある部屋の出入り口から、クラスメートの女が俺を呼んだ。彼女はこの部屋の当番らしい。
「何。っていうか、客はいないのか?」
「うん。もうすぐ声楽科の時間でしょ? みんな講堂に行っちゃった。それよりすごいよ! さっきね、あの保本優がいたの!」
「・・・は?」
 俺は唖然として、女の顔をまじまじと見てしまった。
「見間違えじゃねえの?」
「違うよ! だって、私、思わず声かけてしまったもん」
「何て?」
「緊張しすぎて上手く喋れなかったんだけど、保本優さんですよねって聞いたら、答えてくれたよ。すっごくいい子だった・・・」
「・・・・・・・・・。それ、いつ」
「え?」
「何時頃ここに来たんだ?」
 心臓が高鳴る。うるさい。本当にそんなことがあっていいものなのだろうか。カノジョって奴が本当に保本優だなんて、甘い夢を見る。俺は頭がおかしい。
「えっと、十一時半くらいかな・・・。三十分くらいいて、さっき出て行ったばっかりよ?」
 俺はもう一度時計を見る。現在十二時十五分。
「ニアミスかよ・・・・・・」
 俺は唇を噛んで、何かを言っているクラスメートを無視して教室を出た。走って校舎を出たけれど、保本優の姿はどこにも見当たらなかった。


 午後一時、俺のソロの舞台は始まった。頭に巡るのは譜面ではない。バレンタインでくれたときの、彼女の音。あの譜面は俺の部屋にあるけれど、俺が弾いたって仕方がないのだ。
 あの音を思い出すと、赤ん坊に戻ったように泣きたくなる。母親にすがるように甘えたくなる。でも俺はそんな子供時代を送ってきた人間ではないので、どうすればいいのか分からなくなる。
 それでも欲望は俺の気持ちに忠実で、俺はきっとこの舞台が終わったら一目散に保本優を探すのだろうと思った。彼女はこの音を聴いているのだろうか。俺がこうしてピアノを弾くことを知っているのだろうか。聴いて欲しい、でも聴かれたくない。二つの気持ちに挟まれながら、でもきっと彼女はこの講堂のどこかでこの音を聴いてくれているのだろうと分かった。
 発表が終わって、俺は荷物をまとめて講堂を出た。やっぱり保本優の姿は見当たらない。夢だったんじゃないかと思っていたとき、途端に恐怖が俺を襲った。
 今更声をかけてどうするつもりなのだろう。俺は彼女に何を求めているのだろう。彼女は俺なんか忘れて、今は違う音を探しているかもしれないのに。俺ばかりが過去に捕らわれているだけなのかもしれないのに。
 途端に怖くなり、足がすくんだ。どっと後悔の念が押し寄せる。
 卒業式のとき、周りに便乗して第二ボタンを渡すだけ渡して、彼女の手を離した。もう会わないとあのときは確かに思ったはずだったのに。
 今、彼女に触れたくてたまらない。酸素を上手く吸い込めない。無理やり呼吸をして、ふと講堂に視線を向けると、うつむきながら講堂から出ている女に気付いた。彼女こそ、本人だ。
 恐怖はある。まだ心臓が震える。だけど、この機会を逃したら俺はまた後悔するのではないだろうか。自分から行動を起こせない臆病な俺は、きっと一生忘れることもないまま、この瞬間に蝕まれるのだ。それは耐えられない。
 気付けば俺はゆっくり歩いて、彼女の背後に立った。呼ぶ名称はただ一つ。
「保本優・・・」
 自分の声がかすれていて驚いた。
「・・・だよな?」
 分かっているくせに、咳払いも兼ねて確認の言葉を発すると、ゆっくりと彼女は振り向いた。少し大人っぽくなった。だけど変わらない。あの頃の自分に戻れるような錯覚に陥りそうだ。
 不安そうに揺れる彼女の瞳を見て、どこかで感づく自分がいる。
「・・・先輩」
 小さくつぶやいたその言葉は、昔のままの呼び方だった。


 先輩の音はキラキラ輝いていた、と彼女は言った。よく顔を見れば、目が少し赤い。俺はまた泣かせてしまったのか。結局傍にいてもいなくても、俺は彼女を泣かせることしか出来ないのか。
「先輩って呼ぶのはやめろって言ったよな」
 俺が言うと、彼女は眉根を寄せて俺を睨み、そしてうつむいた。
「・・・それは、トモダチだから?」
 普遍的なものを何よりも欲しくて、求めたはずだったのに。人間はどうして貪欲なんだろう。その単語は酷く俺の心をえぐった。
 まだ俺たちは文化祭の中にいて、確かに俺はここの生徒なはずなのに、もう関係なかった。あの第三音楽室のような空間を思い出す。もう存在しない空間にもう一度還りたいとさえ思う。
「嘘つくの、もうやめようよ。苦しいだけだよ。あたしは息も出来なくなる・・・、涙が止まらないよ」
 訴えるようにつぶやく彼女を、力いっぱい抱きしめたくなるのをこらえて、俺は唇を噛んだ。
 俺は男で、彼女は女で。きっと俺は彼女を傷つけることになるだろう。それでももう後悔はしたくないのだ。彼女の瞳を見て、俺たちが恐れているものは同じだと悟れたから、もう無駄にしない。心の中で誓う。
「・・・そうかもな。嘘をつくには・・・・・・、長すぎる時間だったかもな」
 俺はつぶやき、彼女にそっと触れた。髪の毛に触れる。頬に触れる。柔らかい。温かい。今もまだ迷いが生じる。それでも、もう耐えられない。
 そして今、彼女の領域にそっと足を踏んだ。俺は彼女の唇にキスをする。


 
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