この番外編は、東條梨香と奏の過去のお話です。
不快な方はご覧にならないほうがよろしいかとv
苦手な方もご注意くださいませ。










ラック


 桐川奏を知ったのは、あたしが中学二年の秋だった。
 彼の学年では、その整った顔立ちによってわりと有名だったらしいけれども、生憎あたしは彼よりも一つ上の学年にいたし、そんな年下の男に興味はなかった。その頃のあたしの理想は常に年上だったし、だから桐川奏が入学して半年も彼を知らなかったのは当然なのかもしれない。何より、その頃の彼はまだ公でピアノを披露していなかった。
 中学二年の夏、世間では一番羽目を外す時期だなんて言われているけれど、あたしはそれどころではなかった。バイオリンとピアノのコンクールに追われていたからだ。
 偶然なのか必然なのか、小学校四年生のときにあたしはピアノの国際コンクールで賞を取ったけれど、それ以来、あたしは大きな賞を獲得していなかった。プライドを捨てて言えば、しなかったのではなくて出来なかったのだ。あの頃の神童も今となってはただの人。そう言われるのが嫌で、夏休み中引きこもって練習の日々に明け暮れたけれど、どんなに頑張ってもあたしは日本の中ですら一番に
は届かず、当然世界に戦いを挑む力もなかった。
 ただのスランプだから気にしないで練習を続ければいい、とピアノやバイオリンの先生は言っていたけれど、今までそれだけを生きがいとして生きてきた私には、結果がついて来ない努力なんて屈辱でしかなく、まるで呼吸の仕方も分からなくなるような感覚を味わった。今にして思えばあたしは甘かった。ただチヤホヤされたかっただけじゃないかと罵倒されても、文句は言えない。
 そんな甘えたばかりのあたしが夏休みを終え、学校生活に戻るのは苦痛だった。あたしにとって中学校は、地獄だった。小学校の頃に下手に目立ってしまったあたしは校内で有名で、出来るだけ目立たないようにしていた。平均的な成績、平均的な髪型に平均的なスカートの長さ、派手すぎても地味すぎても許されないと思い、馬鹿みたいに努力した。それでも国内のコンクールの賞でもらったトロフィーは学内に置かれ、あたしの名前は消せず、それがストレスにもなっていた。
 秋の文化祭。合唱をクラスで披露することになっている中学一年生の発表ぼんやりと聴いていたときだった。
 主役を間違えたような音を聴いて、あたしは目を見張った。
 歌声よりも存在感を現すピアノの音色。けっして、でしゃばっているだとか音量が大きいというわけではない。ただ、あたしの耳にははっきりと届いた悲鳴のような音。一瞬おんなじだと思った。それは確かなシンパシーだ。
 パンフレットに書かれた伴奏者の名前を見る。自然と次への行動に繋がった。


「桐川奏くん?」
 文化祭が終わり、その熱が冷めた頃の放課後、あたしはわざわざ一年生の教室の前の廊下を通り、桐川奏を呼び止めた。
「誰」
 何の感情も伴わない声で、彼はあたしを見下ろした。特別背が高いわけではなかったけれど、既にあたしより五、六センチは高かったように思う。
 あたしを誰かと訊かれたことは意外でもあった。彼はもっと音楽の世界の中で生きる人だと思っていた。あたしと仲間だと勝手に親近感を持っていたのだ。だけどその裏切りが嬉しくもあった。
「東條梨香」
 名乗って、にっこり笑ってみた。
「あなたに見せたいものがあるの」
 そう言って、彼を案内した。不可侵領域である第三音楽室に。


 第三音楽室は、あたしが知名度を利用して作った部屋だ。もともと置いてあった古いグランドピアノを調律師である父に使えるようにしてもらい、練習場所という口実であたしだけの場所として手に入れた。
「それは許されることなのか?」
 連れて来た場所についてあたしが説明すると、奏は顔をしかめた。今にも人を殺しそうな雰囲気を持つくせに、意外と常識人だった。
「知名度は利用しないと。傷つけられただけ有益がないと馬鹿みたいじゃない」
 言いながらあたしは椅子に座った。六畳ほどの部屋にグランドピアノ。この部屋は狭い。奏はズボンのポケットに手を突っ込み、壁に寄り掛かったまま鋭い視線をあたしに向ける。あたしは年下の威力に負けないように、冷静を装って彼を見上げた。
「ここはあたしだけの場所だったんだけど、そろそろ一人は飽きたの。あなたにここの使用を許可するわ」
「なぜ?」
 可笑しそうに訊ねる奏に、あたしは一番伝えたかった言葉を口にした。
「あなたの音に惚れたからよ」


 それから奏はときどき第三音楽室に来るようになった。それもあたしがいないときを見計らってくるように、あたしが第三音楽室に着く頃には曲の中盤をかなでていた。そんなとき、あたしは部屋の隅にあるパイプ椅子に座り、その音の羅列に浸っていた。狂おしいほど悲しい響きが漂っていた。
 奏はあたしを空気の一部だと思っているのか、思う存分ピアノを弾いたあとはあたしに目も向けずに部屋を出て行った。それが三十分のときもあれば、五分のときもあった。初めの頃は二週間に一度くらいだったのが、少しずつ頻度は増え、半年経った三月頃には二日に一度は来るようになった。
 春休みを控えたある日、あたしがピアノを弾いているとドアの音と共に奏がやって来た。あたしがピアノを途中で弾くのをやめると、奏は罰の悪そうに顔を歪め、ドアを静かに閉めてあたしを見下ろした。
「俺、あんたみたいな人に昔関わったことがある」
 突然、何のことかとあたしが首をかしげていると、奏は科白を続ける。
「世に名前を残す奴って嫌いなんだ。でもあんたはさすがだね、四年前の国際コンクール奨励賞東條梨香」
「・・・わざわざ調べたの?」
「調べるも何も、思い出しただけ。あんたは有名だったから」
 そして、心底あたしを馬鹿にするように笑った。
「なのに、今は無名だな。音がぶっ壊れたのかと思っていたのに、どうやら違うようだ。何故デスカ?」
 その口調、表情、態度に腹を立てたあたしは、思わず立ち上がって、座っていた椅子を手で倒した。
「うるさい!!」
 あたしは叫んだ。倒れた椅子をうまいこと避けた奏を心から憎いと思った。
「才能あるくせに世界から逃げるように生きているあなたになんて、分かるはずないよ!」
 言い放ってあたしは第三音楽室を飛び出した。
 ようやく彼があたしに話しかけたと思ったら、今度は喧嘩だ。何故だかとても切ない。


 そのまま奏に会うことはなく、あたしは中学校最後の春休みを迎えた。受験のことを考えなければならない時期になり、あたしは漠然と音楽高校を思い浮かべていた。ここにいるからあたしは異邦者のような目で見られるけれど、そこに行けばあたしは平均的でいられるのだと信じた。日本一になりたいくせに、矛盾していることに気付かなかった。勉強は苦手だったけれど地獄のような中学校から早く抜け出せることを考えれば、受験なんて苦にもならなかった。
 休みの間は勉強の時間が増え、代わりに音楽に関わることが嫌でたまらなくなった。ピアノを弾けば、必ずあの狂おしいメロディが脳裏に浮かび、あたしは衝動的にピアノの蓋を閉めた。彼にあってあたしにないもの。何故あたしが今では輝かないのか。気付くのがとても怖かった。
 色々な感情や事実に蓋をしているうちに、短い春休みは終わり、あたしは正式に中学三年になった。
「おはよう、梨香ちゃん」
 生徒用の玄関で、クラスメイトの女子が親しげにあたしに声をかける。あたしは平均的な笑顔で挨拶を返した。
「おはよう」
「ねぇ、一年・・・、あ、今日から二年か、二年の桐川奏って知っているでしょ?」
 今まで彼の話題には興味のある素振りを見せていないあたしに、彼女は丁寧に話題を切り出してくれる。内心、彼とあの狭い室内で二人きりになっていることをバレたのではないかと冷や冷やしたけれど、動揺を悟られないように、今までと同じく興味がない振りをして次の科白を待った。
「あー、うん・・・。何かあったの?」
「それがさ、桐川くんってやっばり怖い人みたい!春休み始まる前から、この短い期間に何度も喧嘩しているみたいよ!」
「え・・・?」
 今日から使う新しい教室に足を踏み入れながら、彼女は興奮したように言った。あたしは絶句して、そのままドアに張り出されているクラスの座席表を見つめた。
「・・・梨香ちゃん?」
「あ・・・、びっくりしちゃって。ああいう子でも喧嘩とかするんだなぁって」
「だよねー。みんな驚いているよ。明日くらいには校内新聞に載るんじゃない?」
 あたしは適当に相槌を打ってから、与えられた自分の席に中身がほとんど空な鞄を放って、教室を飛び出した。人気のない校舎に向かって走る。朝のざわめきを背後に感じながら、あたしは手を握り締めた。
 春休み前からあたしは奏には会っていない。もうあんな奴知らない。あの場所はあたしだけの物だ。そう思うのに、突き放したいのに、奏が心配でたまらなかった。
 音を立てて第三音楽室のドアを開けると、ピアノの前に奏が座っていた。
「奏くん・・・」
 思わず声をかけて、ゆっくりと歩み寄った。奏はあたしに見向きもしないまま、ぼんやりとピアノを見つめている。近付いて、初めて気付いた。奏の指や手首には痛々しく包帯が巻かれていた。
「奏くん、怪我してる!」
 思わず奏の肩を掴むと、奏がゆっくりとあたしを見て、顔をしかめた。
「・・・ただ殴っただけ。だせーよ」
「そんなの駄目だよ!」
「なんで?」
「だって、・・・奏くんの音も怪我をするよ。あたし、そんな音は嫌だよ」
 今になって思えば、あたしはまだ子供で、無知だったのだ。自分の生きていた世界から抜け出せずにいて、奏を真正面から傷つけていた。
 奏の音は悲鳴そのものだって分かっていたはずなのに。
 だけど、これ以上奏が傷つく姿を見るのは耐えられなくて、奏に抱きついた。
「もうこんなのはやめて・・・」
「・・・やっぱり俺はあんたみたいな奴は嫌いだな」
 薄く笑った奏は、そのままあたしに顔を寄せた。信じられない出来事にあたしは硬直し、唇に温もりを味わった。
 気付けばあたしはカーペット状の床に押し倒されていて、ただ呆然と奏を見上げていた。奏はこれ以上ないというほどの歪んだ笑顔で、片方の口角だけをあげた。
「あんたみたいなのをエゴの塊って言うんだろうな」
 あたしのリボンに手をかけて囁く彼は、まるで飢えた獣のようで、あたしはそっと手を伸ばして奏の柔らかい髪の毛に触れた。
「あたしを抱いて気が治まるなら、好きなようにすればいい」
 睨んで言い放つと、奏は喉の奥で笑いを立てた。


 結局、あたしは始業式をサボる羽目になり、クラスの始まりに出遅れてしまい、浮いた存在になってしまった。ますますあたしは第三音楽室に逃げ込むようになった。
 それからあたしと奏の距離は縮まり、あたしの心の沼に溜まった愚痴や相談を、奏は黙って聞いてくれるようになった。
「音楽高校に行けば、少しはマシになると思うの」
 ある日、いつものように静かに抱き合ったあと、あたしは午後の授業をサボって奏に未来への展望を話した。すると奏は何が可笑しいのか、喉の奥で笑いを立てた。
「甘いな」
「どうしてよ」
「そんな高校に行けば、国際的に活躍したおまえを知らない奴はいなくなる。おまえはもっと上っ面だけで物を見られ、音を聴かれるぞ。その地位を狙おうとする人間ばかりの世界だ」
「地位って・・・」
 奏の長い科白に目をぱちくりさせながら、あたしは言葉を濁した。
「最近のあたしを狙うくらいなら、他にもっと優れた人がいるはずよ」
「それでも、おまえにそれだけの魅力はあるよ」
 つまらなさそうに言う奏の言葉に耳を疑った。今彼は何を言った?
 あたしは唇を震わせながらうつむいた。長い長い間、あたしは何の結果にも繋がらない努力ばかりの日々で、普通に生きることさえ出来なくて、同級生を妬むことしか出来なかった。そんな生活だった。あたしは昔からこんな閉鎖的で卑屈な性格なんかじゃない。クラスメイトと他愛のないお喋りに夢中になっていた時代もある。なのに、今のあたしはこんな小さな部屋に逃げ込んでしまった。
 そこにあたしは奏を引っ張り込んだ。誰よりも一人になりたかったあたしは、誰よりも寂しかったのかもしれない。
 急にそんな惨めさが、蓋を開けられたときに箱を壊す水圧のようにあたしの心にどっと流れて来て、あたしの目から涙か零れ落ちた。
 たまらなくなって、奏に抱きついた。初めて会った頃よりもずいぶんと男になったと思う。奏の長い指があたしの髪を梳く。こんなに胸が締め付けられるような想いを抱くのは初めてだった。だからどうすればいいのか分からない。そうしていると、奏が唇にキスをしてきて、甘い気持ちが広がるのに、幸せだと思えなかった。


 家に帰ったら、昔から愛用しているバイオリンや、リビングの隣の部屋に置いてあるグランドピアノがあたしを無言で睨んでくるように思えた。あたしは音楽が好きだ。音をかなでることで生きている。その喜びを知ったのはずいぶんと昔のことで、今は何のために弾いているのか分からなくなっていた。
 ―――その地位を狙おうとする人間ばかりの世界だ。
 あたしよりも生きている年数が少ないというのに、この世界を悟っている言い方だった。奏は今までどんな思いを抱えて生きてきたのだろう。あたしは奏のことを何も知らない。
 音楽高校に入れば、幸せな世界が広がっていると思っていた。周りの目も気にせずに、自由に、今度こそ音をかなでられると思ったのに。
 あたしは一体何をしたいのだろう。
 急に分かった。あたしに足りないもの。あたしはただ音楽のことしか考えていなかった。それでも、まだ奏に酷いことをしている自覚なんてなくて、あたしは奏に甘えてばかりだった。


 季節が進み、ほとんどの生徒は涼しい夏服に変わっていた。
 この頃になって、再び奏は第三音楽室に寄り付かなくなった。予兆はあったのだ。少しずつ頻度が少なくなっていって、今日でもう十日ほど来ていない。
 自分で思っていた以上にあたしは奏を求めていたのだと知る。いつもいつも抱き合っていたわけではなかったけれど、あたしの愚痴や相談ごとを吐き捨てられるその時間が大事だった。
「梨香ちゃん、試験勉強やっている?」
 教室の隣の席に座っていた女子が、暗い表情であたしに話しかけてきた。彼女はクラスの中でも優秀だと謳われている人間で、そんな不安そうな顔をしている理由がよく分からない。
「ううん、微妙かなぁ」
 勉強しているくせに全然やっていないと答える人間をあたしは大嫌いなので、正直に答えると、隣の彼女は曖昧に笑った。
「ねぇ、梨香ちゃんって、バイオリンとかも出来るし、勉強も出来るし、うらやましいな」
 そんなことを言われて、あたしは目を見開く。羨ましがられる要素なんて、あたしには一つもない。
「高校はどうするの?」
 訊ねられて、あたしには足りていなかったことが更に身に染みて感じた。あたしは無理やり平均的に生きていた。だけど、彼女は自分の能力を隠さずに生きていた。その違いを見せ付けられた気がした。
 彼女のような人間でも悩んで苦しい思いをしていた。あたしだけではなかったのに、あたしはきっと自分が世界一不幸な顔をしていた。今更それがすごく恥ずかしい。
「・・・まだよく分からないんだけど」
 震える声で、あたしはつぶやいた。大きな決心だった。信じていた未来を裏切ること。でも未来を壊すわけではない。もっともっと世界を広げるために、あたしは決めた。
「音楽高校に行くことはないと思うよ」


 進路調査表を締め切りよりも十日ほど遅れて職員室に提出をし、ちょっとだけ説教を浴びてから職員室を出ると、久しぶりに見る姿があった。
「奏くん」
 この蒸し暑い中、奏は長袖シャツを着ていた。だけど暑苦しい表情は一切していない。
 会っていない間に、三年生の他のクラスの女子と二人きりで会っていたとか、二年生の女子とラブホに入るのを目撃されたとか、三年の男子と喧嘩したとか、色々な嫌な噂は聞いていた。だけど、あたしにはどうすることも出来ないのだと思った。
 あたしはこの人の必要にはなれなかった。
「元気?」
 無理やり笑って訊ねると、奏は肩をすくめて笑った。
 あたしの傷までもを彼に負わせていたけれど、奏は一体どうやって自分の傷を抱えているのだろう。それを発散するために、無茶な噂が立つほどもがいているのかな。あたしは奏の音楽ばかりを気にしていた。音楽の世界に招待したかった。だけど、奏は本当は誰よりも人間だった。不器用で、寂しい人だった。気付いてあげられなかった。そして、あたしは奏が一番傷つくことをしてしまった。
 それでもあたしは最後まで、奏の傍にいたいと思ってしまった。
「奏くん・・・、あたしじゃ足りない?」
 声が震える。怖くて奏に顔も向けられなくて、うつむいた。すると、いつもみたいに奏はあたしをバカにするような笑い方で、言った。
「センパイ、知ってる?」
 初めての呼び方に、あたしは眉をしかめた。
「俺のハジメテってセンパイなんだよね」
 思わず顔を上げると、奏は少年のように目を細めて微笑んだ。あたしはどうすればいいのか分からなくて、言葉を捜す。もう駄目だと思った。あたしたちの距離はこんなにも離れてしまった。
「・・・少しでもあたしを好きだった?」
 今を逃したら二人で話すこともないだろうと悟り、勇気を出して訊いた。
「少なくとも、あの頃の俺にとってセンパイの存在は救いだったよ」
 そう言い残して、奏は背を向けて歩いていった。広い背中。何度も抱きしめた。奏の言葉の裏を返せば、もうあたしは必要ないということ。それでも、一瞬でも奏を救えたという事実が嬉しくて仕方なかった。
 頑張れ、と遠くから聞こえた気がして、あたしは職員室の前だというのに、長い時間たたずんでいた。
 奏とあたしの二人では、足りないものを補え切れなかった。でもあたしは大丈夫。それなりに社交性だってある。今までと同じように生きていける。だけど、あの弱い男はこれからどうやって生きていけるんだろう。適当な女遊びやしたくもない喧嘩だけで生きていけるほど世界は優しくない。
 あたしは願う。奏に足りないものを持ってくれる人の存在を。幸せになれますように。


 
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