クレイジー・ソウル



 ―――ありえない。
 俺は無駄に眉をひそめる。
 空気を振動させることで耳の鼓膜に届く音。でもそれらのほとんどがノイズと成り下がり、この世は騒音で満ちている。
 授業の一環で、生徒の前で音を披露。ご立派。肩肘ついて、その音を聴く。これもノイズ。どの人間の音も、悪くはない。それでも対照物が尋常じゃないものだから、もう俺の耳もイカレてる。
「桐川ー」
 廊下を歩いていると、クラスメイトに呼ばれ、振り向くと嫌な面子三人が立っている。
「・・・何?」
「露骨に人の音、馬鹿にするのやめろよな」
 ああ、そう。こんな学校に来るくらいだからプライドに障ったんだ? それはゴメンネ、ご愁傷サマ。彼らを一瞥して、背中を向けて歩く。馬鹿にしているつもりなんてない。
 ただ、ぼけっと突っ立っていると飲み込まれかねない。自分の音すらも、このノイズの波に。


 彼女に出会ってしまったのが運のツキ、そこで俺の人生は不幸まっしぐらと転がった。
「今日、模試の結果が返ってきたんだけどさー」
 ドーナッツ屋で、アイスカフェオレを飲みながら世間話のように語る彼女は、先週の日曜日にとあるピアノコンクールで入賞し、夏休みには東京行きが決まっている。こんな、ただの公立中学校の制服を着た、どこにでもいるような女が、ピアノを目の前にすると人格が変わる。かなり狂っている。
「英語と国語がやばくて。あたし、文章苦手なんだよね。ああいうのってどうやって勉強するの?」
 俺を見るその目は、光が灯っている。これからの人生に希望を持っている。信じている。言葉では簡単だけど、それを実行するのはとても難しいことだというのに、彼女はいとも簡単にやり遂げる。
 彼女の名を保本優、という。ピアノのアマチュアコンクール界でも、今後注目されている人物の一人。ただ、彼女にはその自覚が面白いほど見当たらない。
「まずは暗記だろ。英語と古文は単語を覚えたり」
「文章力や読解力はどうすれば身につく?」
「・・・・・・・・・・・・」
 俺はあんぐりと口を開けたまま、唖然としてしまった(学校の奴らには絶対見せられない顔だ)。
 ・・・保本優、芸術屋のくせに、まともなことやってんじゃねえよ。机並べてみんなでオベンキョウ、世間から外れないように、はみ出さないように、繕って偽って生活しているからオカシクなるんじゃないか。
 とは俺は言わない。そんな優しさは持ち合わせていないし、彼女が決めた生き方に口出しをするつもりもない。もっとも彼女がオカシクなっていたのは、二年前――彼女が中学一年の頃のことで、もう時効だ。それ以降、それなりに社会適応力を身につけて生きる彼女を、俺は嫉妬しているのかもしれない。俺は無理だったから。
 ドーナッツ屋を出ると、もう夕方なのに湿気で蒸し暑い。六月の今は日が長く、七時半になってもまだ明るい。女たちの甲高い声が響いていたドーナッツ屋とは違って、低い音が湿気の中に混じって、やんわりと響く。少しカバーされるから、俺は雨が嫌いじゃない。ノイズにフィルターがかかるので。
「もうすぐ期末テストがあるんだ」
 フィルターのこちら側で――つまり俺の隣で――彼女がつぶやいた。
「内心点も入るし、頑張らないとね」
 自分に言い聞かせようとする彼女は、少し珍しい。俺が立ち止まって彼女を見ると、それに気付いたのか彼女もまっすぐに俺を見つめた。
「・・・なに?」
「大丈夫か?」
 俺が訊ねると、彼女は可笑しそうに笑った。
「どうしたの? ・・・まさか心配してる?」
「いや・・・」
 言葉を濁し、彼女から目を逸らす。音楽界の注目人は、音楽高校には進まずに公立高校を目指している。ただの公立ではない。県内トップ校だ。それなりの葛藤やプレッシャーを、俺は全て理解することは出来ないし、しようとも思わない。
 彼女を家の前まで送って、別れ際に軽く口付ける。彼女の唇の温もりはもう分かりきっているのに、まるで中毒を起こしたように欲しくなる。きっと、それ以上を求めたらもっと貪欲になるだろう。だから何も考えないようにして、彼女に適当に挨拶して踵を返す。彼女とは一度も寝ていない。触れることも出来なかった。俺にとってそれは恐怖だった。


 保本優に出逢ったことによって、俺の中にあったさまざまなプランが崩されている。そんな彼女を、俺は恨みさえする。
 先週の日曜日、彼女には来るなと念を押されていたけれど、行かないわけにはいかなかった。毎年六月に行われる、大きなコンクール。県大会。
 三曲ある課題曲の中から彼女が選んだのは、彼女がもっとも得意とするバッハだった。狭いホールの後ろで、数人の音を聴いた。悪くもない。でもよくもない。やっぱりノイズだ。地区予選は超えたけれど、県大会を突破して東京に行くことはないだろう。そんな地味な音だった。普通に上手いだけの、狂っていない音。きっとそれらをかなでる人々は、普通に生活できる人間だ。ストレスだらけの世界で、普通に学校に行って、適当な人間関係を作って、自分を守って、システム通りに安全な道を選べる、そんな才能を持っていた。
 俺が言うのもなんだけれど(というのは俺も人のこと言えないからだ)、保本優にはそんな才能は備わっていない。だからそこに捻じれが生まれていく。慣れない普通の人らしい生活から生じた無理とストレスで、彼女は曲をかなでる。もともとクレイジーなのに、上乗せされる。その日、久しぶりに聞く彼女の曲は、それはもう魂ごと狂っていた。
 ありえない。それを正気で弾く彼女が。その存在が。
 狂っているくせにノイズにはならない。微妙なギリギリの線の上で踊る。とても危険なゲームのように。傍観者までをも巻き込む。一歩踏み間違えれば大惨事だ。
 宇宙が爆発しているのかと思った。それでも引き寄せられるシンパシー。分かっていても自ら飛び込んでいくような危うさ。まるでエクスタシーのように、癖になる。中毒だった。音楽という霹靂。狂気が何の受容体すら通さずに心臓に響いて、魂そのものをわしづかみにされているようだった。
 二月のバレンタイン以来、俺たちはお互い忙しくて、彼女は俺の家には来なくなり、楽器屋でふざけながら電子ピアノを弾き合うことはあっても本気の音を聴くことはなかったのだ。たった四ヶ月でこんなにも変わるとは。
 俺は拳を握り締めた。やっぱり無理なんじゃないだろうか。彼女が進む道には、世間から見れば安心したレールだとしても、俺たちのような人並みから外れた人間からすれば、危険ばかりが潜んでいる。いつ俺たちを転ばす石が転がっているか分からないというのに。
 人とは段違いな音を披露した彼女は、東京行きの切符を手に入れた。本選、全国大会。ロビーで張り出された結果を見ながら、彼女は目を見開いていた。俺は彼女に見つからないうちに会場を出た。五分後に携帯が鳴った。
『奏!? 今コンクールの結果出たんだけど・・・、あたし東京行けるかも!』
「・・・なんだよ、『かも』って」
 駅に向かって歩きながら俺は笑う。
『だって、あたしが東京? ありえないよ! 夢じゃないよね?』
「自分の頬、つねってみれば?」
 ありえないのはおまえだ、保本優。あんな音をかなでた後に、何事もなかったように、そこらじゅうにいる女子中学生と同じ喋り方ではしゃぐなんて。たった東京に行くことなんかで。
 本当は、もっと上にいけるはずなのに、彼女の無自覚がそれをさせない。きっと神様は全てお見通しだ。


 ドーナッツ屋から帰って、誰もいない家に入る。雨戸を閉めて、テレビで明日の天気予報を見ているとリビングの電話が鳴った。家の電話が鳴るのは珍しい。
「もしもし」
『あ、奏? 元気?』
 三週間ぶりに聴いた声だった。
「うん、普通に元気だけど」
『そう。ちゃんとご飯食べている?』
 返事の返りが遅い。海外だということは分かるけれど、どこだったか考えていると、答えが来た。
『あたし、今ドイツにいるんだけど、とても素晴らしいところよ』
「その科白は母さんがドイツに行くたびに聴くから、もう知っているよ」
 俺が指摘すると、母は笑った。肩をすくめたように、まるで少女のような笑い方だった。ドイツは母のお気に入りなのだ。
『奏、あなたもいつかドイツにいらっしゃい』
「・・・いつかな」
『お父さんはどうしてる?』
「昨日どっか行ったよ」
『どっか、なんてそんな言い方・・・。ええと、どこだったかしら?』
 こんなところばかり似た者親子だ。少し笑って、電話料金が頭を掠めて、適当な挨拶を交わし、受話器を置いた。部屋の静寂さが耳を刺激して、少し痛んだ。ノイズが嫌いなくせに、静かすぎるのも苦手だった。勝手な人間の傲慢。父はどこに行ったんだろう。南半球だった気がするけれど覚えていない。親子だけど、あまり話さない。父も母も、子供を育てることが苦手なのが分かる。人間の本能に背いて、それぞれが自分の音を求めて生きている。普通じゃない場所で育った俺も、きっと普通じゃない。
 だから惹かれるのだ。保本優のような存在に。


 転んでもつまずいても、彼女はそんな生き方をやめない。それがとても憎く、とても眩しかった。
 コンクールで聞いた音と、ドーナッツ屋で話した彼女の声。なんとなく気になって、その三日後の学校帰りに電話してみた。コール数が長い。
『・・・もしもし』
 やっと出た。声がいつもと違う。俺は嘆息した。
「どうしたんだよ」
『どうしたって・・・、電話してきた人がそんなこと言うかな』
 涙声のくせに、言っていることはご立派だ。俺は抱えていたかばんを持ち直す。
「今どこにいる?」
『・・・学校帰っている途中』
「いつもの場所に来いよ」
 命令形で、彼女に会いに来させる。意地っ張りな彼女は、こうでもしないと俺に顔を見せない。俺がお見通しであることを彼女は知っている。もっと甘えればいいのに、不器用な彼女は甘え方を知らない。憎まれ口ばかり叩く。
 十分後、いつもの駅の柱付近に立っていると、仏頂面した彼女が来た。俺は黙ったまま彼女の手を引き、ロッカールームに入る。
「どうしたの、奏」
 それはこっちの科白だ。もどかしくなって抱きしめる。顔は見ないから泣けばいい。そう思ったけれど、本当は俺がすがりたかったのかもしれない。
 あんなクレイジーな音を浴びれば、俺だってオカシクなる。俺を狂わせた彼女にすがるのは矛盾だけど、俺には彼女しかいないのだ。
 彼女に会えば、俺の音もゆがむ。拾わなくていい音まで拾ってしまって、精神的に疲れる。それでも、会わなければもっと俺は駄目になっていくのだろう。
 出逢ってしまったことを恨みながら、それでも彼女がとても愛しくて、幸せだと思う。こんな人間らしい感情を持てたことが嬉しいので。
 次第に彼女は涙をこぼし、俺の腕の中で小さく泣いた。何が悲しいかなんて、きっと彼女も分かっていない。それでもきっと、音が鳴り続ける限り、俺たちは歩くことをやめられない。彼女はそんな言葉に出来ない不安や絶望すらもピアノの音色に乗せるのだろう。
 そして俺もまた音をかなでる。狂った魂と一緒に。



 
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