駆け抜ける夏


 美羽(みう)は机の下で器用に携帯電話をいじっていた。教壇では、ろくに説明もしないで生徒に背を向けながら黒板に数字や記号を書く初老の数学教師が時々ぼそぼそと喋るのだが、この教室の半数は誰も聞いていない。美羽のように携帯電話をいじっている者、ゲームで遊んでいる男子、数人で一冊のファッション誌をめくっている女子、足りない分の睡眠を補給している者。
「美羽、カエル育てているー?」
 隣の席の朋子(ともこ)が美羽の携帯電話を覗き込んできた。
「うん」
「可愛く育ってるー?」
 まるで授業中ではないかのように、二人は笑い合う。朋子は制服をこれでもかというほど着崩していて、胸ポケットにはピンバッヂが三つ、リボンに至っては学校指定のものではない。頭に大きなリボンを結んだ金髪のこの少女と美羽は仲がいい。別の言い方をすれば、他に親しい人間は皆無に等しいのだ。
 朋子はある携帯電話専用のオンラインゲームを見つけてきた。携帯内でカエルを育てるというゲームだ。昔流行った卵型のゲームとそれは似ているけれど、若干違う。そのカエルと会話したり、餌をあげたり、成長記録を観察したり、散歩をしたり、それが美羽の授業中の日課になっていた。
 このため、携帯電話の電池の減る量が半端なく早い。
 どこかで虚無感を覚えながらも、美羽は満足していた。窓の外を見ればさんさんと輝く太陽が暑く、この熱気に負けそうになる。


 一学期の試験も終わり、あとは夏休みを待つだけだった。高校一年生である美羽には受験のことなど考えることもなく、高校生になって初めての夏に少々浮かれていた。学校が終わるのは夕方で、美羽は朋子とショッピングモールで遊んだ。バーゲン品の売れ残りを物色し、一足のミュールを手に入れた。
 空が暗くなり始めた頃に朋子と別れ、帰りの電車の中で、思い出したように美羽は携帯電話を開く。カエルは登録されたままの美羽の名前を呼びかけている。美羽は餌をあげてから、しばらくそのカエルを眺めた。
 電車を降りて、会社帰りのサラリーマンと混ざりながら美羽もホームから階段を上り、駅構内に座り込んだ若者たちを見ながら、唇を噛む。・・・あたしもあの子達だ。
 暗い夜道を一人で歩く。でもこの時代、外灯も明るいし、コンビニもある。怖くなんてなかった。住宅街の中、そう思っていたら、家の前に裕也(ゆうや)が立っていた。美羽とは似てもつかない制服を、やっぱり着崩している。その絶妙な着崩し方が美羽はとても好きだった。
「久しぶり」
 裕也は笑うと少し幼くなる。美羽は裕也の前に立った。幼い顔だけど、それでも裕也は美羽よりうんと身長が高い。
「久しぶり」
 美羽がこだまのように単調に返すと、裕也は苦笑した。
「俺ってストーカー?」
「・・・・・・・・・」
 美羽はぎゅっとスカートの裾を握った。確かに家の前で待ち伏せられるとは思ってもいなかった。
「美羽、夏休みはどうすんの」
「・・・分からない」
「最近どう」
「・・・普通」
「美羽」
 裕也の顔を見ようとしない美羽に対して、裕也の口調が少し険しくなり、声が低くなる。
「俺たち、いつ終わったの」
 美羽ははっと顔をあげた。裕也の言うとおりだ。そんなこと美羽にも答えられない。だけど、もう空も暗いというのに湿気を含んだ生ぬるい空気が心の一番弱いところに触れて、それだけで脆くなる。
 裕也のことを好きだ。本当にそう思う。付き合ってからもうすぐ八ヶ月、この気持ちは変わらない。たとえ高校がバラバラになったって、乗り越えられる。そう思ってきた。
 早くカエルに会わなくちゃ。携帯電話を思い出す。美羽はいたたまれなくなり、裕也の横をすり抜けて家のドアに手をかけた。
「美羽」
 裕也の声が響く。だけどしつこく追う声ではなく、ただ単に静かに、諦めたような響き方で、余計に美羽の胸は苦しくなる。それを追い払うかのように、美羽は家の中へと入った。


 確かに自分の足、両足で歩いているはずなのに、ふと床が抜け落ちたように、どこかに落下する感覚がある。それに気付き、慌てて目を覚ますことが増えてきた。
 首元に溜まった汗のせいで、せっかくシャンプーして乾かした髪の毛も湿っていて気持ちが悪い。窓の外を見ると、もう明るい。日が長い季節だ。美羽はパジャマで汗を拭ってから、ベッドを出た。
 充電器との接続を外した携帯電話を開いて、カエルの様子を見る。カエルは眠っていて、まだ美羽には反応しない。ため息をついて、別のボタンを押す。
『もーしー。こんな朝早くにどうしたのー?』
 電話の向こうで朋子がケラケラと笑う。こんな朝早くに、は美羽の科白だった。だめもとで電話をかけてみただけで、まさか本当に出るとは思わなかった。それもこんな高テンション。
「あ・・・、もしもし。寝てた・・・んじゃないよね・・・?」
『あはは、寝てないよー。今彼氏たちと遊んでてー。マージャン、超盛り上がっててー』
「あ・・・、そうなんだ」
 明日も学校なのにと思いながらも、この声に美羽はほっとする。
『ねー、美羽もおいでよー。そろそろうちらも外出るしー』
「え・・・でもガッコは?」
『用意してくればー?』
「うん」
 携帯を切って、美羽は制服に着替えて、そっと廊下を歩いた。教科書も入っていない鞄を片手に抱え、鍵を閉めて外に出る。空には静かに朝焼けが浮かんでいた。東の太陽が美羽を暑く、しかし柔らかく照らすけれど、夜の空気がまだ消えうせない早朝の澄んだ風は、少しだけ気分を爽やかにさせる。
 朋子に指定された路地に行くと、制服姿の朋子と数人の男子がたむろしていた。
「おはー、美羽」
「おはよう。朋子寝たの?」
「ううん。今日の授業は爆睡予定」
 朋子が笑い、隣にいた男も吹き出したように一緒になって笑っている。彼は大学生で、朋子の恋人だ。短く黒い髪の毛を立てているけれど、一日経ったそのセットも少し崩れている。
「久しぶり、美羽ちゃん」
 愛想のいい朋子の彼氏は美羽を見上げて微笑み、美羽も曖昧に笑い返した。
「ひゅー、女子高生じゃん」
 朋子の周りにいる面子が冷やかすように声をあげる。まだあまり人通りのないこの場所は、彼らの声がよく響く。
 そして近くの道路をときどきトラックが走っていった。美羽たちを残して、世界から置き去りにするように。
「駄目だからねー、美羽はカレシ持ちなの」
 朋子が声をあげ、そのまま雑談に流れた。最近のテレビ番組の話や、好きな科目の話、彼らの将来の話、気付けば美羽もスカートの裾に気をつけながらも道路脇に座り込み、彼らの話題に入り、笑い声を上げていた。
 そしてどこかで空虚だとも感じる。たった今知り合った人たちと適当な話で盛り上がり、相槌を打つ。その間にも美羽は携帯電話が気になっている。もちろんまだ睡眠中のカエルのこともだけど、それよりもっともっと奥の、パスワードの中。
「じゃー、今度その辺で美羽ちゃん見かけたら声かけていーの?」
「いいよ。てか、あたしの顔覚えてるかなー」
「覚えるって! 俺、人の顔覚えるの得意だもん」
「ほんとー?」
 隣に座っていた男と、こんな意味のない話すら楽しい。軽く笑いながら、それでもきっと意図的に会う以外の方法なんてないのだろうと美羽は心のどこかで思う。ノリというのはとても大切だ。コミュニケーションの一つ。木が風を通してさざなみを伝えるように。
「美羽、朝マック食べてからガッコ行かない?」
 立ち上がった朋子が鞄を持つ。携帯電話を見ると、もう朝の六時半を示す。そろそろ人通りが増えてくる時間だ。
「じゃーねー、朋子、美羽ちゃん」
 男たちは愛想よく手を振り、美羽たちも適当に笑い声をあげながら手を振り返してから、近くのファーストフードに入った。
「いいよねー、大学生は。もう夏休みだよ?」
「でも朋子の彼氏、色々将来のこと考えてて、なんかすごいなって思ったよ」
 二人でハンバーガーを食べていても、先ほどの空虚な時間の興奮は冷めない。いつだって惑わされる。分かっていても、これしか方法を知らないのだ。
 美羽は携帯電話を眺める。
「美羽、彼氏はどうなったのー?」
 ポテトをつまみながら朋子は訊ねる。嘆息をしながら、美羽はゆっくりと口を開いた。
「うん・・・。昨日、家の前にいた。びっくりした」
「びっくりって・・・、そりゃ着信拒否にしていたら向こうだって手段考えるよー」
 呆れたように朋子は笑う。美羽は何も言えなくなる。そもそも原因を作ったのは全て美羽だ。好きだと告白したのも、休日に会う約束を取り付けたのも、デートの予定を立てたのも、そして、突然のように裕也の番号を着信拒否にしたのも、全て美羽だ。
「だって・・・」
 美羽は抗議しようとするが、言葉が思いつかない。美羽のやっていることは卑怯だ。分かっている。カエルは裕也の代わりにならないことくらい分かっているのだ。それでも好きなのだ。裕也を、どうしようもなく。
 言葉を失った美羽を朋子はもう責めたりしなかった。周りの席にはOL風の女や美羽たちと同じような学生が集まり、騒がしくなり、気まずさはなかった。
 七時半を過ぎた頃、二人は再び外に出る。そこはもう別世界になっていた。空の色は更に薄まり、透けるような雲が爽やかに広がっている。サラリーマンや学生が急ぎ足で向かう姿。それを見て、美羽の心は酷く沈む。
「あっつい・・・」
 朋子が顔をしかめ、こんなに気が沈むのは暑さのせいだと美羽は思った。そう思い込んだ。本当は答えを知っているのに。


 眠たい国語の授業のとき、返されたテストの点数に落胆しながら、解説も聞かないで美羽は机の下で携帯をいじっていた。ふと隣を見ると、宣言どおり朋子は夢の世界へと旅立っている。笑みをこぼして、美羽は再び携帯のパネルに視線を移す。カエルを散歩に連れていったあと、機能のキーを確認した。パスワードを入力し、美羽は覚悟を決める。
 もう夏は始まっているのだ。


 放課後、授業が終わってから携帯を覗くと、着信が十二通。およそ三十分置きに発されたそれに、美羽は愕然とする。それでもどこか嬉しくて、学校の帰り道、通話ボタンを押す。わずか二コールで相手は出た。どれだけ電話と共に生活をしているのか身にしみる。
『美羽?』
 電話をかければ、いつも名前で呼んでくれた。それが嬉しかった。
「裕也。やっぱりストーカーみたい」
 なんだかおかしくなって美羽が笑うと、裕也はため息をついた。
『暇なんだ。今日が終業式だったんだ』
「いいな私立は。あたしはまだ授業あるし」
 まるで何もなかったように話せる。こんなにもドキドキしながら、この心臓の鼓動を何よりも嬉しく感じている。このまま死んだっていいと思う。
『それで、何か用?』
「え?」
『おまえが先に電話入れたんだろ。急に拒否されなくなるし、これ以上惑わすなよ』
 美羽が国語の時間に電話を入れたのが午前十時。そのコールは話すためではない。拒否設定の解除を示すためだ。裕也はそこから電話をくれた。何度も何度も合図をくれた。
 美羽が裕也の着信を拒否設定にし、メールをしなくなったのは一ヶ月も前のことだ。いろんなことが不安になり、そうせざるを得なかった。卑怯だとののしられても、美羽にはこの方法しか思いつかなかった。
 ただ裕也から求める声が欲しかったのだ。
『美羽、会いたい』
 電話越しに聞いた声は、現実のものと思えなくて、この暑さすら結晶になる。美羽は道路の端に立ち止まり、口許を片手で押さえた。心の中でカエルを思う。ごめんね、今日は世話をする余裕なんてないみたいだ。
『美羽?』
 裕也の声に答えることも出来ない。言葉は肝心なときに使えない。だけど、美羽は走り出した。
 もうずいぶんと長い時間を消費してしまった。気付けば夏はやってきて、あっという間に駆け抜けていくのだ。



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