旅立ち


 なんとなく分かっていた。
 最近の彼は私と喋っているときもどこか上の空だったし、私の目を見ていなかった。疲れている表情で、私の前で笑わなくなって何ヶ月経つだろう。
 それでも、私という人間はとても愚かなもので、そういう異変に気付いたのは言われて初めてという奴で。
「別れようか」
 決定的な言葉ではなくて、私にも意見を問うような、彼らしい言葉で私たちは終わった。どうせなら命令されたかった。別れようって、私に異議出来ないほどの剣幕で怒って欲しかった。おまえのせいだって、言われたかった。
 私は数ヶ月も彼の疲労に気付いてあげられなかったのに。


 あれから一ヶ月、私の生活は特に変わらない。
 朝の七時に起床して、洗濯機をまわしながらご飯食べて着替えて髪の毛を整えて、洗濯物を干し終わってからメイクしながらテレビの星座占いで一喜一憂をする。午前八時四十五分に仕事場について立ちっぱなしの接客業をして、昼にはコンビニで買ったお弁当を食べて、また再び営業スマイルで仕事をして、店が閉まったあとにレジの計算をして、午後八時には帰宅する。・・・はずだった。
「男と別れた?」
 だけどその日は先輩がしたり顔で訊くものだから、思わず私は営業スマイルで返事をした。
「振られたんです」
「うんうん、そういう顔してる」
 先輩はにっこりと笑って、私の頭を軽く撫でた。
「あたしが奢ってあげるよ。飲みに行こう?」
 思えば、私はこの仕事に就いてから仕事場の人とプライベートで飲みに行ったことがなかった(さすがに新入社員の歓迎会には参加したけれど)。
 いつも言われてから気付く。誘われてから気付く。まるで私の人生自体が受動態のようだ。そんな人生を歩むくらいなら、最初から人形に生まれたほうがずっといい。
 私はうなずいて、仕事を片付けてから先輩と一緒にネオンで輝く街に出た。どこにでもあるようなバーで私は久しぶりにお酒を飲み、久しぶりに女と喋った。
 前の彼と付き合っている頃は、女友達よりも私は彼氏を大事にしてしまっていたし、それが当然だと思っていた。そんな生活を続けていると、高校時代の友達とは自然に疎遠になってしまった。受け身な私が自分から連絡を入れることもするはずもなく。
 彼と別れてから、彼と過ごした時間に穴が空いていて、私はその時間を持て余していた。友達もいない、特に趣味もない、仕事だってそんなに好きなわけじゃないし、人と親しくなることはどこかで苦手だとも思っていた。そんな私が彼と一緒にいたはずだった時間に何をすればいいというのか。
「あなたと一緒に飲んでみたかったのよー」
 カクテル四杯目で赤い顔をした先輩が、微笑んだ。
「でも男がいるようだから誘えなかったけれどね」
 私よりも濃いメイク。それすら許されるこの職業。彼女の人の傷に塩を塗るような発言は少々許し難いけれど、酒の場なので酔いに任せてスルーしておく。私は自分が人からどう思われているかさえ考えていなかった。
 彼女は時々思い出したかのように自分を曝け出し、苦笑いをこぼした。男に捨てられたこと、男に弄ばれたり弄んだり、それさえ恋の駆け引きだと思えば楽しかったと思い込める青春時代。
 だけど、時間に流されているこの感覚はなんだろう。流されていくどころか、置いていかれるようなこの気持ち。
 ふと溢れる焦燥感。私たちはこのままでいいのだろうか。
 時々耳に入ってくる同世代の友達の結婚話や出産話。会社での出世話や親孝行話。そんな話題にすらついていけない。関わりたくない。この社会のシステム全てに反感を覚えるようなことも日常茶飯事だ。
「このままこの世界でずっとひとりぼっちなのかな」
 先輩はつぶやいた。私に向けた言葉じゃなかったのかもしれなかった。ただの独り言のようだったけれど、私は思わず反応してしまった。
「そんなこと・・・・・・」
 言いかけてやめる。口先で何を言ったってこの気持ちは無くなるはずがないのだ。それは私自身がよく知っていることだった。そんなに簡単に消えるなら、とっくに私たちは別の道を見つけ出している。
 空虚なほどに暇な時間を見つけて初めて彼がどんなに大切だったかを知った。長い間付き合っていると、愛しい感覚は麻痺をして、ただ情ばかりが浮かび上がる。本当に好きだという純粋な気持ちすら分からなくなって、私は簡単に手放してしまった。
 別れようかと言われたとき、気取っていないで泣いて縋ればよかったのだ。本当は別れたくないほど好きなのに、それすら伝えることもなく、きっと彼はそういう私の気持ちを知ることもなく、私たちの人生という迷路はもう交わることもないだろう。
 なんてあっけない。私という人間はどれだけの人と関わりを持てるというのだろう。彼と笑い合っていた時間はもう過去として処理されて、二度と味わうこともない異空間だ。
「この世界が寂しいなら、旅立てばいいよ」
 私は言った。酒に酔っているのは私も同じで、呂律が上手く回らなくて、丁寧語を使うのを忘れた。だけど、先輩は特に気にすることもなく、ただ私を見た。
「・・・どこに?」
「自分で切り開いていくの」
 例えどこかで彼が生きていたって、私はもう彼と関わることは出来ない。私はもう一人でこの世界を彷徨うしかない。このまま流されていけばずっと何も変わらない。きっと平穏だ。だけど、それがどんなに虚しいか知っている。
 人と関わることは苦手だけど、人と一緒にいることで喜びがあることを知っているから。
「・・・・・・そうね」
 私たちはまだ若い。まだまだ力は残っている。だからこれからの出来事全てに怯えることなんてない。例えば今日、私と先輩が二人で飲んで笑い合うことが出来たように。
 旅立つ、なんて大げさな言い方かもしれないけれど。そろそろ私は自分を見つめ直して、新たな一歩を踏み出してもいいのかもしれない。
 先輩はうなずいて、透明な涙を一筋流した。
 彼と別れて一ヶ月。私の普遍的な生活に変化が表れ始めた。それはとても些細なものだけど。私にとって太陽みたいな眩しい新世界のようだった。例えそれが希望という錯覚に満ちたものでも、私は諦めない。



 
Copyright 2006- パンプキン All Rights Reserved.
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送