教室の窓際の席は特等席だ。 あたしの教室の窓はちょうど東側に面していて、午後はちっとも眩しくない。それでいて太陽の光は暖かくて、空の色は輝いて見える。 だからあたしの午後の日課は決まっていた。 今日も晴れているから、窓の向こうには鮮やかな青が広がっている。この色を音にすればどんなになるかなって思った。最近このグラウンドの上の空を眺める度に疑問に思うけれど、まだ答えに辿り着いてはいない。 奏(そう)ならどうするのかな・・・って思ったとき、急にムカッ腹が立って考えを止める。奏を思う自分は未だに好きになれない。奏と付き合い始めてもう数ヶ月になるのに、彼氏彼女というカンケイには全然慣れなくて、少し困る。 「保本(やすもと)」 ガサリと雑音が入って、空にヒビが入ったような気がして胸が痛くなった。 「保本!」 またひとつ。メロディが破れる。 「保本!!」 「優(ゆう)ちゃん、優ちゃん」 隣の席の佳苗(かなえ)の声に、あたしは我に返った。何だったっけ。自分が教室にいることだけは覚えている。 「・・・・・・・・・何」 「問四だよ!」 小声で叫ぶ佳苗を見て、ようやくあたしは自分が置かれている状況を理解した。椅子の音を鳴らして立ち上がる。 教壇に立つ教師の眼は鋭くあたしを見ていた。あたしは机の上に広げている数学の教科書を見て、考える。面倒なことにはなりたくない。あたしは必死に数式から答えを導き出す。 「・・・y=−2x」 「正解だ」 先生は舌打ちをしながらあたしを睨んだ。だけどあたしはそんなことに怯むほど弱い生徒ではなかったし、それよりももっと難しい答えを出すことのほうが大切だった。 あたしが独り占めしている空の音。
携帯電話を買ってもらった。 今まではねだっても反対していたくせに、彼氏が出来たから買ってという一言で途端に態度を変え、すんなりと買ってくれるなんて、あたしの親も相当変な人だと思う。 五歳年上の姉には「最近の中学生はいいねぇ」と言われそうだ。さっそく奏の名前や番号を登録して、メールしてみた。
優です。ケータイを買ってもらったよ♪ 今度の土曜日は駅前の楽器店で10時に待ち合わせだよね?
送信したあと、携帯電話を握ってじっと待った。息を潜めて、電話が鳴るのをひたすら待って、次第に疲れてきてしまった。 二つ年上の奏は三月に中学校を卒業して、現在は県内の音楽高校に通っている。今では別々の学校になってしまった奏と、この携帯電話を通してもっと近づけると思ったのに。 電話をすることは出来なかった。熱心に音楽を勉強している奏の邪魔になることだけは避けたい。 イライラし始めてきたころにようやく電話が鳴って、あたしはページを開いた。
ごめん、土曜日は行けなくなった。 この埋め合わせは必ずするし。
この二文でメールは終わっていた。あたしは画面を眺めながら唖然としてしまった。この憤りを説明する言葉が咄嗟に出ずに、ケータイを持つ手を震わせる。 「ふ・・・ざけんじゃねぇよ畜生!!」 新品のケータイをベッドの上に思い切り投げた。 ゴメンナサイの気持ちをもっと込めるとか!もっとフォローをするとか!すればいいのにこんないい加減な文章で終わらせるんじゃねぇよ畜生!! 埋め合わせってなんだよって思った。こんな男の言うことなんてあてにならない。
埋め合わせなんていりません。 好きにすれば。 あたしも予定入れるし!
一発拳を投げつける。 あたしは静かにケータイを閉じた。奏からの返事はなかった。
「優ちゃん、何か怒っている?」 翌日登校したとき、真っ先に佳苗にそう訊ねられた。 「ううん、そんなことないよ」 中学一年のときに、クラスや学校に合わなくて学校を休みがちだったあたしを心配してくれた佳苗は相変わらず優しい。これ以上心配かけたくなくて、あたしは微笑んだ。 誰にも言えない。姉にも親にも親友にも言えない。 こうなってしまったのは、あたしが原因なのかもしれなかった。
恋は先に惚れたほうが負けと言うけれど、それは本当だ。 奏と会う予定だった土曜日は悔しいほど晴れていて、あたしは空を追うように外に出た。青空を見ながらアスファルトの上を歩いた。 今日こそこの音という答えを出さないとスッキリしない。 あたしは早足で駅前の楽器店に向かった。別に今日奏に会えなくなったことに未練があるわけではない。 だけど、たった一人の男にここまで振り回されてしまう自分に腹が立つ。この恋愛が勝負だとしたら、勝利を受け取るのは奏のほうだ。 あたしはといえば、奏の横顔を眺めながら隣を歩くときも、奏の低い声を静かに聴くときも、奏とキスするときも、ドキドキしてどうしようもなくなってしまうのに。奏はいつだて冷静で取り乱すことなんてしなくて、なんであたしと付き合っているのかなとさえ思う。 奏の卒業式のあと、奏があたしのことを好きだと直感で解ってしまったけれど、それだってあたしがそう信じただけで、実際に真実なのかどうかは定かではない。あたしも奏に好きだと言ったことはないし、奏もあたしに言ってはいないのだ。 何を信じればいいのかわからなくなる。 楽器店のピアノのコーナーに行って、鍵盤に触れた。今は普遍的な空を描きたいと思った。これだけは心の底から信じられる。 鮮やかな空の音を弾く。 退屈な授業中にずっと見ていたモノ。探し求めていたモノ。すべてをこの音に吐き出してしまいたかった。 白鍵盤も黒鍵盤も、知っている限りの音をかなでた。
どのくらい弾いただろう。 楽譜に残らない曲をたくさん弾いた気がする。指に痛みを感じてあたしは弾くのを止めた。 気付いたら時計の針は二時間ほどまわっている。満足するほど音を出したのに、まだ何かが足りない。心の空洞音が虚しく響いて泣きたくなった。 「・・・優?」 真後ろから声が聞こえたのは突然のことだった。怖くて後ろを振り向けない。 「何してんの?」 「今日は来れなかったんじゃないの!?」 ピアノの蓋に白く映る影もあたしの顔も見たくなくて、あたしは目を伏せた。 「学校の用事、終わったから・・・」 いつもと変わらない様子で、奏はぼそぼそと話す。 「何弾いていたんだ?」 「なんだっていいでしょ!」 「こっち向けよ!」 「嫌だ!」 あたしは奏の手を振り払った。今はこの大きな手にさえもウンザリしていた。 「・・・優?」 今度は奏があたしに顔を向けるようにしていた。あたしが顔を背けようとすると頭を強く掴まれた。そして唇に温もりが伝わる。 思わず閉じた目を開けると、すぐそこで奏が微笑していた。 「・・・こんなキスで許されるなんて思わないでよね」 不意を突かれてしまったあたしは奏を睨む。 「悪かったって言ってんじゃん」 「聞いてない!」 「何弾いていたんだ?」 「・・・・・・・・・」 あたしは奏を一瞥した後、鍵盤を見つめ直した。 「空の音」 ポツリと言って、もう一度真剣に奏を見た。 「奏は弾ける?」 「・・・ずっと弾いていたのか?」 「うん、でも何かが足りない。満たされないの。奏なら出来るかもしれない」 怒りはもう消えていて、ただ懇願した。 「おまえが出来なかったら、俺も出来るわけないぜ?」 「弾いてよ」 あたしは立ち上がって、代わりに奏がその椅子に座った。 「まっさらな青空だよ」 奏はもうあたしの声など聞こえていなかった。少しの間をおいて、奏の指が動いた。 洗練されたなめらかなカーブを放つメロディは、この場所にある空気に鮮烈な印象を与えた。 あたしは目を閉じて、毎日のように見ていたあの空を想う。ふと、奏の音を聴きながら小さな違和感を覚えた。 「奏・・・・・・」 奏が立ち上がってピアノから離れるのを追いかけながらあたしはつぶやいた。 「今の・・・、本当に空の音?」 「ああ。おまえの要求どおり。なんで?」 「だって・・・、なんか違う」 あたしはつい先ほどの記憶を辿って、再び奏のメロディを蘇らせる。はっと思い立って、小走りしていた足を止めた。 それに気付いたのか、奏も立ち止まってあたしを見た。 「俺は弾いたぜ。おまえの希望どおりな」 「・・・・・・・・・」 奏の言葉に涙が出た。 それは確かにあたしが望んでいたモノだった。感覚に頼らなくてもちゃんと聴こえた。はっきりと伝えられた。奏が弾いたのは、音という証拠と空というカモフラージュを乗せた、ラブレターだったのだ。
その後、音を創るときは楽譜に書け!と奏に叱られ、空音の件は振り出しに戻ったかのように見えた。 だけど、いつものように教室の席に座っても、もう依然と同じ音が出てくることはなかった。奏が空の音を弾いていたのを聴いたから、もう純粋なあたしの音にはならない。永遠の保留になる。 それでもあたしは空を眺めることをやめないだろう。
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