知らないひと


 パチン、とブラのホックが引っかかり損ねた音に気付き目を開けた。女はこちらに背中を向けて、舌打ちをしながら器用に手を後ろにまわし、今度はうまく止めたみたいだ。
 彼女はもうスカートを履いているらしく、あとは素早くキャミソールを被り、秋用のカーディガンを羽織って、一度肩甲骨あたりまである赤茶色の巻いた髪を掻きあげた。毛先がふわりと揺れる。そして、傍にあった鞄から鏡を取り出し、メイクに崩れがないかチェックしている。こんな夜更け、だれもそんなことを気にする人間なんていないというのに。
「もう帰んの?」
 俺が一言つぶやくと、彼女はぎょっとしたように振り返り、ベッドに転がったままの俺に目を向けた。まさか俺が起きていたとは思ってもいなかったらしい。
「・・・うん」
 にこりとも笑わず、彼女は短く返事をした。俺の顔を見ようともせず、伏せた睫毛のせいで頬に影が出来ている。行為の最中もそうだったなと俺はぼんやりとつい先ほどのことを思い出す。
「終電あんの?駅まで送ろうか」
「いらない」
 起き上がろうとした俺を片手で制止して、彼女は最後に携帯電話で時間を見て、鞄にしまった。
「じゃあね」
 結局、一目も俺を見ようともせず、彼女はドアの外に消えた。
 扉が閉まる重たい音を聴いたあと、俺は枕元にあった煙草をくわえ、火をつけようとするが、手が滑ってライターに噛み合わない。苛立ちながら、やっと火がついた煙草の煙を思い切り肺に吸い込む。
 ベッドのすぐ横にあるカーテンを開けた。晴れているのだろうか、ぼんやりと月が見えた。月明かりに照らされた目覚まし時計はもう午前二時を指している。終電なんてあるはずないのに、彼女はどうやって帰ったのか。どうでもいいことを疑問に思いながら、枕元にあるはずの灰皿を探そうとその辺に手を伸ばしたとき、異様な感覚が手に伝った。
 俺はとりあえず次に見つけた灰皿に煙草を置き、その正体が何なのか確かめるため目を凝らした。そこにあったのは、ひとつのピアス。きっともう会うこともない人間のものだ。俺は視界から消すように乱暴にその辺に投げた。
 余計にイライラが募る。結局その夜は一睡も出来なかった。何故なのかは分からない。


 変な客がいるなと思った。
 大学のあとにバイトしているカフェで、俺がバイトに入る前から六時間以上も近くただ窓の外の街を眺めているひとりの女。携帯をいじっているわけでもなく、本を読んでいるわけでもなく、何かを書いているわけでもない。ただぼんやりと時間を潰しているように見えた。
 午後十一時。
「お客様、申し訳ございませんが、もう閉店となりますので・・・」
 早く帰れよ。その思いを隠して、丁寧に頭を下げると、彼女ははっと我に返ったように俺を見た。それまで、一体に何に思い耽っていたのだろうか。
「・・・ああ、はい」
 そっけなく答えて立ち上がる彼女を見て、彼女はもうすぐに帰るのだと思った。しかし、彼女は立ち上がって俺を見上げたまま動こうとはしない。やけに目力がある女だった。睫毛が濃いのはマスカラだけの力に思えない。
「・・・お客様?」
 退屈な講義のあとにずっと立ちっぱなしでこっちも疲れているのだ。いい加減うんざりと言うと、彼女は口を開いた。
「もう仕事終わるの?」
「は?」
「ねえ、外で待ってる。この後、あなたの家に連れて行ってくれない」
「・・・・・・・・・・・・」
 俺は肩甲骨まである赤茶色の巻いた髪の毛から覗いた白い胸元を眺めた。カーディガンに合わせたネックレスが照明によって輝く。下手にキャミソール一枚だけよりも色っぽく感じるのはなぜだろう。こんな、初めて見るような名前も知らない女なのに。
 つい、という表現が正しいのかどうか分からない。だけど俺は、「つい」うっかりと、彼女の誘いに乗ってしまった。


 朝から重い足取りでキャンパスに足を踏み入れる。
「おっはよ、おまえ相変わらず眠たそうな顔してんなぁ。バイトそんなに大変なのか?」
 朝からハイテンションな友達に声をかけられ、「ああ」だか「まあ」だか適当に返事をする。彼は朝に弱い俺を見て一笑し、目の前を歩く他の奴らにも声をかけにいったようだ。よくそんなに朝から人と交わろうと思えるものだ。ある意味尊敬する。
 今日の一限はなんだったか。独り言のように口の中でつぶやきながら、教室に入ると。
「・・・・・・・・・・・・」
 彼女が、いた。俺は眠さゆえ錯覚を起こしているのかと目をこするが、間違いない。後ろのほうの隅の席で、やはり窓の外に顔を向けている。だから表情はおろか、顔さえ見えない。だけど間違いない、髪の毛のあの巻かれ方、そして、俺はあのふわっとまるまった毛先がとても好きだった。昨夜。
 なんと同じ大学だったとは。一般教養でこんな広い教室のあんな隅にいたら気付くわけない。自分に言い訳をして、俺はいつも座る前から十列目のドアの近くの席を選んだ。教室は半分くらい席が埋まっていて、みんなそれぞれ好きなように喋っていて、それが広い教室内に響く。さっきの友達も俺の隣に座る予定だ。もうすぐ授業始まるというのに、何やってんだあいつ、まだ誰かと談話に花を咲かせているのだろうか、ぼんやりとそう思っていたとき。
 俺は何気なく鞄に手をつっこむと、嫌な感触がした。指に鈍く何かが刺さる。
 昨日のピアスだ。なぜ鞄に入っているのだろうか。昨日あのまま、ベッドの足元にあった鞄に落ちてしまったのだろうか。
 俺は振り返って、彼女のほうに目をやる。
 ―――目が、合った。
 弾けるように立ち上がった俺は、彼女のところまで早歩きで寄った。
「・・・おまえ」
 たいした距離も歩いていないのに、名前を付けようのない感情が混みあがるからか、息が切れた。
「なんで、俺のこと、見てんの」
「・・・・・・・・・」
 彼女は、駆け寄った俺を見て一瞬目を見開いたが、動じなかった。何も言わずに口を固く結ぶ。
 それでも俺は、なんとか話をしたいと思った。このままでは後味が悪すぎる。だいたい俺は、名前も知らない女と寝たのも初めてなのだ。こんなときどうすればいいのか分からなくて戸惑う。
「・・・同じ学校だったんだな。今知ったよ」
 何を喋ればいいのか分からなくて、ただ突っ立ったまま彼女を見下ろした。彼女はふっと口許に笑みを浮かべた。
「そうね、そんな顔している」
 急に雰囲気が和らいだ。昨日のカフェとも情事のあとともまるで雰囲気が違う。学校での彼女の姿。なんだ、笑えば可愛いじゃないか。そう思っていると、彼女は言葉を続けた。
「私は、ずっとあなたのことを知っていたよ」
 彼女は俺を見上げて言う。
「前から十列目辺りの席に座って、眠そうな顔をしながらも一生懸命ノートを書いている姿とか、学校終わったらすぐにあのカフェでバイトしていることとか、知っていたよ」
「・・・俺は、あんたのこと何も知らないけれど」
 そう言ってやって、握ったままのピアスを彼女に渡した。
「これ、忘れ物」
「・・・ああ、失くしたと思ってた。ベッドの上にあったんだ、ありがとう」
 ピアスを渡した瞬間、触れた手の温もりにどきりと心臓が鳴った。
「別に」
 短く返事をしてやる。友達はまだ来ない。好都合だ。この女とどういう関係かなんて聞かれても困るだけだ。名前も知らないのに肉体関係を一度持ちました?冗談じゃない。
 早く席に戻らなければ。分かっているのに、体が動かない。彼女をもっと知りたいと思う自分がいることに俺は唖然とした。
「私ね」
 そんななかで彼女は思い切ったように言った。
「昨日、誕生日だったの」
 俺はあっけにとられた。なんという一日の使い方だ。学校が終わって俺がバイトに入った頃にはこの女はあのカフェでひとりでぼんやりとしていた。そして、その貴重な時間を無駄にした挙句、好きでもない男と寝たのか?
 そんな俺を見て、彼女はまた笑う。
「これで、私のこと、ひとつ知ったね」
「何を・・・」
 言いかけて、もしかしたら俺は乗せられているのではないだろうかと戸惑った。まさかこれは彼女の戦略か?
「あなたと日付の境界線を越せたこと、嬉しかったよ。一日最後の最高のプレゼントだった。例えあなたが私を知らなくてもね。だからありがとう」
「何だよ、それ・・・」
 今日の彼女の睫毛も長く、俺は時々出来るその影を見つめた。
「勝手に巻き込んで、それでバイバイなのか?」
「・・・ごめんね」
「ふざけんなよ、だっておまえ・・・」
 名前も知らないから、相手を示す言葉が思いつかずつい「おまえ」と言ってしまう。もっと優しく言いたいのに、このもどかしさはなんだろう。
 初めて見たときのその瞳が俺を狂わせた。ならば責任をとって欲しい。
「おまえさ、俺のこと、好きなんだろう?」
 指摘してやると、彼女は困ったように笑った。笑うことしか出来ないという切なさが伝わって、俺まで胸が痛い。
「こういうのって、初めてだからよく分かんねぇけど・・・」
 俺は、声のトーンを落としてつぶやいた。昨夜の出来事をリアルに思い出せなくて、もしかしたら夢だったのかもしれないと都合のいいことを考える。あんな始まりじゃなければ、もっと相手を見つめることが出来たのに。
「名前、教えろよ」
 ぶっきらぼうな言い方になって顔をしかめた俺に、彼女は涙を一粒机に落とした。ごめんね嬉し涙だから、そう言ってやはり笑う彼女は、俺にそっと顔を寄せて、名前をつぶやいた。
 今度はその大切な名前を呼んでやりたいと思う。もう知らない人ではないのだから。

 
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